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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 「宗教的精神」の蘇生――価値を…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

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9  仏法の平等観の根本は他者への尊敬
 池田 また、日蓮はみずからを「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅せんだらが家より出たり」とも述べています。旃陀羅(サンスクリット〈梵語〉の「チャンダーラ」の音写)とは、カーストの外に位置づけられた人々のことです。
 日蓮はみずからの出自を、もっとも差別された民衆のなかにあるとし、その民衆のなかから『法華経』の信仰のゆえの「魂の尊貴さ」を高らかに宣言したのです。
 また、「男女はきらふべからず」と、男女間の本質的平等をも高らかに宣言しております。
 テヘラニアン 現代では当たり前の言葉ですが、当時と今とは状況がまったく違います。当時、この言葉を発することは迫害の対象となることを意味したでしょう。
 池田 そのとおりです。仏教の平等観の特徴は、すべての衆生に「仏性」を観るところにあります。つまり、それは差別されている人へ向けられる「哀れみ」ではなく、等しく有する「仏性」への尊敬です。
 『法華経』の常不軽菩薩品には、常不軽菩薩がどのような人に対しても、その仏性を尊び礼拝行を行った、とあります。この「礼拝行」は、サンスクリットで「ナマスカーラ」「ナマステー」です。「あなたに帰命します」という意味です。
 テヘラニアン 現在のインドやネパールでも、同じあいさつをしますね。インド人やネパール人が、両手を合わせてあいさつするのは、おたがいを尊敬をこめて礼拝する象徴と言えるでしょう。
 池田 おそらく、同じような伝統の流れだと思います。
 仏教の平等観の根本は、他者への尊敬です。みずからが偉いから、また恵まれているから、かわいそうな人を救うというのでは、その行為の奥にはエゴイズムが見え隠れするでしょう。
 そうではなく、他者のなかの仏性を尊敬するゆえに、利他の行動に打って出るのです。他者の仏性に奉仕するのです。これによって、利他の行動は「偽善」におちいることをまぬかれるのです。
10  イスラム社会がめざした平等と寛容のあり方
 テヘラニアン 心に響く言葉です。心に銘ずべき言葉です。
 イスラムの「平等思想」については、すでにかなり語りあってきました。ここで、仏教と比較対照するためにもう一度、概観したいと思います。
 イスラムが歴史の場面に登場したのは西暦六二二年のことですが、当時のアラビアは、ササン朝ペルシャや西アジアのビザンチン帝国(東ローマ帝国)と同様に、不平等が特徴であり、それはカースト制のような
 悲惨な状態にありました。
 池田 西アジアとヨーロッパの主要な帝国の接点に位置していたメッカは、南アジアと西アジアの間の交易の中心地として繁栄するようになっていましたね。
 しかし一方で、繁栄のなかの貧困も増大していた。経済的な差別も生まれていたのですね。
 テヘラニアン いつものことながら、繁栄は不公平を激化させていった。そういう時代状況のなかでイスラムが登場し、すでにふれましたように、ムハンマドの説く唯一神の教えと、人間は平等であるという根本思想が、急速に信奉者を得たのです。
 しかし、彼自身の部族の怒りを買い、ムハンマドと弟子たちはメッカを脱出し、メディナへ逃亡せざるをえませんでした。そうして誕生したメディナのイスラム国家が、ムスリムと非ムスリムとの間の平等原則を確立したのです。
 池田 メディナ憲章と呼ばれるものですね。
 テヘラニアン ええ。ここに、神の目から見れば、すべてのムスリムは平等であることが宣言されました。ただし、信仰の篤実さによる違いは、もうけられましたが。
 池田 非ムスリムも、税金を支払えば「ジンミー」として自治の権利を認められましたね。
 テヘラニアン そうです。彼らの自治体はイスラム国家の保護のもとに運営されることになりました。また、それまでのアラビアは、奴隷制度が一般の慣行でした。それに、女子には間引きが行われていました。
 イスラムは間引きを厳禁し、奴隷もイスラム信仰を受け入れることにより自由になれました。奴隷の解放は、イスラムの法制にきちんと定められています。
 池田 イスラムによる奴隷解放の事実は、あまり知られていませんね。
 テヘラニアン また当時、女性と孤児たちは、非常に差別された立場に置かれていました。イスラムは子どもの権利を保護するために、家族の関係をじつに細かいところまで規制しました。
 現代の基準でいえば、イスラムの結婚、離婚、相続などの法律のなかには、男女の不平等を維持しているものがありますが、イスラム社会は今、それを変えようと努力しています。
 池田 ムハンマドは、みずからが両親を早く亡くしたため、孤児や孤独に暮らす人々に対しては、とくに手厚く保護する規定をつくっていますね。
 たとえば、相続の問題についても、イスラム以前の部族社会では、父系男性親族にしか相続権が認められていませんでしたが、寡婦と孤児にも相続権を認めましたね。
 テヘラニアン 四人の妻まで娶っていいという、有名な『コーラン』の規定も、じつは戦争などで夫や父を失い、犠牲を強いられた寡婦と孤児を保護するためだったと解釈することができます。
 また、異教徒の保護については、ムハンマドは当時の政治上と宗教上の寛容の水準をはるかに超えて、ムスリムと非ムスリムが共存するために守るべきことを定めているのです。
 池田 先ほどもふれたように、メディナ憲章で、非ムスリムを「ジンミー」として安全を保障したことですね。たしかに、法制度にマイノリティー(少数者)の存在が組み込まれていたことは評価されるべきことだと思います。
 テヘラニアン ヨーロッパやアメリカの歴史家のなかには、伝統的なイスラム社会は、伝統的なキリスト教社会よりも、高い水準の平等と寛容を示していたと主張する人々がいます。
 池田 たとえば、著名な歴史学者であるマークコーエンもその一人ですね。
 彼は、中世のイスラム社会とヨーロッパにおけるユダヤ人迫害を比較して、「ジンミー」はムスリムとは税制度などにおける差別はあったものの、迫害されることなく保護された存在であった、と結論づけています。
 テヘラニアン オスマン帝国下の「ミッレト制」は、キリスト教国の異端者があずかったことのない水準の自治を、マイノリティーである非ムスリムに認めていました。
 現代世界の状況では、アラブイスラエル紛争の後、イスラム国家におけるユダヤ人の立場は危険にさらされました。イランやスーダンのような国ではバハイ教徒やキリスト教徒も迫害されます。
11  異質性は「差別」でなく「尊敬」の根拠に
 池田 オスマン帝国におけるユダヤ人の共同体では、ユダヤの文化的伝統が維持されていましたね。平等は、画一ではありません。違いを認め、違いによって差別しないことです。決して違いをなくすことではありません。
 テヘラニアン そうです。現代の大衆社会は、人を同じ尺度で測る傾向がありますが、それは正しいことではありません。
 この明らかな一例が、いわゆる知能テスト(IQテスト)です。言語能力と数学能力を測定する画一テストが開発されて以来、身体能力、音楽の才能、社会的適性など他の能力や知能が、はなはだ軽視されてきました。
 池田 おっしゃるとおりです。人を思いやる心、悪と闘う勇気などは、決して知能テストでは測定できません。しかし、そのような精神的な力こそが、人間の最大の徳なのです。
 テヘラニアン 「公正」「平等」は、まず人間が多様であることを認め、その価値を尊ぶことから始まらなければなりません。生は多様で、死は一様です。
 もっとも平等で公正な社会とは、まず一人一人の異なる潜在能力を発揮させることが、全員の潜在能力を発揮させる前提条件であると信じられている社会でしょう。
 性、人種、民族、年齢の違いは、差別の根拠にされるのではなく、礼讃されるべき、また尊重されるべき多様性なのです。
 池田 異質性は差別の根拠ではなく、尊敬の根拠――。すばらしい考えです。
 ふたたびご紹介しますが、仏教においても、「桜梅桃李」の考えがあります。桜には桜のよさがあり、梅には梅のよさがある。桃には桃のすばらしさがあり、李には李でかけがえのない価値がある。それぞれの個性を花開かせることが、社会に多様性という豊かさの薫りと実りをあたえるのです。
 テヘラニアン まことに示唆深い思想だと思います。

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