Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第五章 永遠の生命の視座――意識と人生…  

「21世紀への選択」マジッド・テヘラニアン(池田大作全集第108巻)

前後
13  仏教の「輪廻説」が教えるもの
 池田 さて、仏教とイスラムといえば、一般には、その生死観に大きな違いがあると思われています。
 テヘラニアン 仏教は人は何度も生まれ変わる「輪廻説」であり、イスラムはキリスト教やユダヤ教と同じく、人は一度だけ死んで、最後の審判のときに再生するという考えです。
 池田 このイスラムと仏教の相違と思われていることについて、少し語りあいましょう。
 テヘラニアン 結論を先に申し上げるならば、教えの「象徴的意味」に目を凝らせば、表面的な相違にもかかわらず、両者は深く通じあうと私は確信しています。
 池田 少し、仏教の生命観を述べさせていただきますと、原始仏典に『テーラガーター』『テーリーガーター』と名づけられた一対の経典があります。「テーラ」とは男性の仏弟子、「テーリー」とは女性の仏弟子です。いわば、釈尊の弟子たちの体験談集ともいうべきものです。ここでは、仏弟子が仏教に帰依する以前、どのような生活をし、何に悩んでいたかが赤裸々に語られます。
 テヘラニアン それは、興味深いものですね。
 池田 そこでは、親や子、愛する者との別離、病、貧しさ――さまざまな苦悩が、釈尊との出会いでどのように癒されたかが述べられます。注目すべきことに、「不死なることを得た」「不死なる境地を得た」などという表現で、そのときの境地が表されるのです。
 テヘラニアン 具体的にどのようなものがありますか。
 池田 たとえば次のような一節があります。「わたしは、一族を失い、夫を失って、世人には嘲笑されながら、不死〔の道〕を体得した」 「わたしは、八つの支分よりなる聖なる道(=八正道)、不死に至る〔道〕を修習した」 「これは不老であり、これは不死であり、これは不老不死の道です。〔その道は〕憂いなく、敵なく、さまたげなく、つまずきなく、恐れなく、熱苦を離れています」(「長老尼の詩〈テーリーガーター〉」早島鏡正訳、『世界古典文学全集』6所収、筑摩書房)
 テヘラニアン 仏教の説く理想的境地が、弟子たちによって「不死の境地」と表現されているのですね。
 池田 ええ。釈尊自身、伝道の開始にあたって次のように述べています。「甘露(不死)の門は開かれた」 「盲闇の世界において不死の鼓をうたう」(「仏伝に関する章句」中村元訳、同全集6所収) 釈尊も「不死」の語を、みずからの教えに対して使っているのです。この「不死」とは何を意味しているかが重要となります。もちろん、文字どおり、肉体が不老不死ということではありません。
 テヘラニアン そうです。そう受け取るべきではありません。実際、ゴータマブッダは死んだのですから。
 池田 また、霊魂不滅説――肉体は霊魂の器であり、人の死後、霊魂は肉体を離れ、他の肉体に移る――を、仏教が否定していることはいうまでもありません。ゆえに「不死」は霊魂不滅説でもありません。輪廻説も同様です。事実として輪廻するかどうかではなく、先ほど博士がおっしゃった「象徴的意味」を理解しなければなりません。大切なことは、輪廻説を確信することによって、どのように意識を変革でき、また人生がどのように変革できるかです。
 テヘラニアン そのとおりです。仏教の「輪廻説」が教えているのは、霊魂不滅説ではなく、人間は他の動物と等しく自然の部分であり、他の生物に対して支配的立場にあるのではない、と思うべきであるということでしょう。
 池田 そうですね。実際にどうか、という次元を超えて、たとえば、あそこにいる鳥はもとは自分の親族だったかもしれない。ここにいる犬は菩薩が修行のために、願って苦しむ生を選択したのかもしれない。そう思う人は、鳥たちや犬たちを軽蔑できません。慈しみの心が出てきます。そのように思うことによって、生き方が変わっていきます。自分が非常な苦しみの立場に生まれてきた。そこで「私は過去世に、同じ苦しみの人を救うことを誓って、この人生を選んだのだ」と確信すると、生き方が変わるのです。
 テヘラニアン 非常によく理解できます。「輪廻思想」は、あらゆる生あるものを親族として敬うことに結実していかねばならないのです。また、勇気をもって苦しみと対決することに結実していかねばならないのです。
  しかし、その「輪廻」の物語を象徴としてではなく、文字どおりに受け取ると、厳格なカースト制度を維持するイデオロギーにもなりかねません。
 池田 そう、そのとおりなのです。文字どおりの輪廻思想はバラモン教で説かれています。バラモンたちは輪廻思想を吹聴し、過去に積んだ悪業のゆえに現在の身分が決定している。したがって、身分の低い人間は社会にその責任があるのではなく、その人が悪いのだと主張していたのです。
14  今の一瞬に無限の生命を生きる
 テヘラニアン 神話は、身分制度のような圧制の正当性を示しうるイデオロギーにもなりうるのです。一見、「霊魂」を説かない仏教とは対照的に、アブラハム系の宗教は、人間は肉体と霊魂を具備しているとしています。そして、肉体は滅びるけれども、霊魂は永遠に不滅であるとされているわけです。しかし、最初に申し上げたように、言葉の表面上の違いにもかかわらず、この教えの深い意味は、仏教の輪廻説が深いところで意味するものと通じていると思います。善と悪の行動が審判される日まで、人間の魂は煉獄のなかで運命の決断を待つのです。この神話は私たちが自分の行動によって、今ここで天国や地獄、幸福や苦悩の生活をするということを言っています。
 池田 「不死」とは、本当に死なないのではない。苦しみからの自由です。それが輪廻からの解放です。その考えは『法華経』でもっともよく現れます。
  『法華経』の第十六番目の章は、その名も如来寿量品――いうなれば「如来の永遠の生命の章」です。この章では、釈尊が久遠の昔から仏であったと述べられます。
 テヘラニアン もちろんそれは文字どおりではなく、「象徴的意味」を考えねばならない言葉ですね。
 池田 ええ、日蓮はこの法理を「本有常住の仏なれば本の儘なり是を久遠と云うなり」と述べています。つまり、「久遠の仏」とは過去にさかのぼって見つかるものではない。仏道修行によって、みずからの心の中に“いま”顕れてくる人間本来の生命なのです。
 テヘラニアン よく分かります。人間は永遠なる自然の一部であることをあるがままに認識できれば、死の恐怖や欲望に結びつく種々の不安から自由になるのです。そして、そのとき、人は、他者への奉仕に、よりよく献身できるのです。この献身のなかでは、他者の幸福が自身の幸福になるでしょう。私たちがそれを永遠の精神ヤーヴェと呼ぶにしろ、キリスト、アラー、ブッダと呼ぶにしろ、この永遠性に加わるとき、私たちも不滅となるのです。
 池田 釈尊は『ダンマパダ(真理のことば)』の中で、信仰実践について「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳、岩波文庫)と語っています。
 仏教の生命観に共振する魂を有していた詩聖タゴールは謳います。
 「生命をふんだんにほどこすほど
  生命はますますほとばしり、
  もはや 生命は尽きないだろう」
 (「滝の目覚め」森本達雄訳、『タゴール著作集』1所収、第三文明社)
 仏教の生死観は、生死を永遠と見ます。ただし、それは霊魂不滅説ではありません。今の一瞬に無限の生命を生きることができるという意味です。
 テヘラニアン 今、会長と話をしていて、二人の女性のことを思い出しました。
 ダイアナ妃とマザーテレサです。両人は自身を超える偉大な目的に生を捧げられ、世界の人々の心を揺さぶりました。ダイアナ妃は、多くの慈善事業の率先はもとより、恐るべき対人地雷の撤去運動に勇気ある行動を示し、未来の英国女王たる身分から、世界の「心の女王」へ変身しました。
 マザーテレサは、ダイアナ妃の若々しい魅力と体力とは対照的に、肉体は虚弱な女性でありながら、インドの貧しい人々のなかに入って挺身し、ノーベル平和賞を授けられました。この非凡な二人の女性たちは、それぞれの人生の可能性をまっとうすることによって、自身の死を克服する精神の生きたる模範です。
 それぞれに、怠惰な無関心や優雅な孤立の人生を生き続けるのではなく、他者たちの苦を和らげる苦難の人生を選択した「王妃」と「聖者」であると追憶され、永遠に世界中の人々の心に生き続けることでしょう。

1
13