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日蓮大聖人・池田大作

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1 現代物質文明の病態  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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4  戦争の経済から平和の経済へ
 ブルジョ 国連に開発と環境問題を扱う委員会があります。一九八七年に、ノルウェーの元首相であるブルントラント女史がその議長を務めておられました。
 そのときに、ご指摘のような決議を行いました。
 “現在、軍備拡張のために使われている金額を、貧困との戦いと環境の質の保護のために使おうではないか”との提案です。
 池田 国連の「環境と開発に関する世界委員会」と、その議長をされたブルントラント女史のことはよく存じております。
 私どもが一九九一年にノルウェーの首都オスロで「戦争と平和」展を開催したときに、首相であった女史から、メッセージを頂戴しました。私どもの平和と環境の問題に対する草の根の意識啓発への取り組みを評価し、「パートナーを得た」と喜んでくださいました。
 女史が中心となって作成した環境問題の報告書については、すでに第二章で、ブルジョ博士もふれておられます。
 そこにかかげられている「持続可能な開発」は、今、論じている「貧困」と「環境」の問題の両方を視野に入れた解決をめざすものです。
 ブルジョ 元来、武器製造者が戦争を食い物にしなければ、そのような国連の使命は存在しなくてもすんだはずです。
 ところが、武器製造者が裕福な国々で高く尊敬されている人々のなかにいるのです。しかも、武器産業は最先端の技術開発が進んでいる分野の一つです。これも大きな矛盾です。
 池田 たしかに現実と理想の乖離は大きいです。だからこそ、いっそう高らかに理想をかかげなくてはなりません。
 “戦争は儲からない。平和のほうが儲かる”と論証しようとしている学者たちがいます。私は彼らに敬意をいだきます。というのも、現実から出発して理想へと導く道を具体的に示そうとする点を、高く評価したいのです。
 理想だけをかかげて、その途上のすべての段階を否定するのは、あまりに非現実的です。マハトマ・ガンジーが言うように、“よいことはカタツムリのように進む”ものです。
 ブルジョ 私自身、十年前、カナダのユネスコ委員会の委員長を務めたことがあります。そのときの経験したこと、また近年の国連の活動から思うことは、加盟国、とりわけアメリカなどの豊かな国々に分担金の支払いを含めて積極的な取り組みが欠けており、それが活動を遅らせています。しかも、それらの国々が、危機が発生したときにそれを大声で嘆き、すぐに手を打たなければたいへんなことになると言って、ただちに武力その他の介入を始めたりするのです。
 池田 正しいことの実現には、たんに即効的な手段ではなく、正しい手段が必要です。
 前に、東洋では、最善の医師とは、すでに病気になってから治療するのではなく、未然に防ぐ医師であるということを紹介しました。社会を治療する医師においても、同じことが言えるでしょう。
5  煩悩の薪を智慧の火へ
 ブルジョ 私は数年前、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(第六章「偉大な異端審問官」)の中の「イエスへの三つの誘惑」を再読して、刺激を受けました。
 この中では、イエスは、人間存在を一貫して貫く糸となっている“三つの重要な経験”を生きる者として、描かれています。
 この三つの経験に対して、哲学者のポール・リクールは、「所有欲」「社会的認知の欲求(人に認められたいとの欲求)」「権力欲」の三重の欲求と名づけています。
 このうち「所有欲」は、蓄積と占有という形をとるとともに、交換・寄付・分かちあい、という形もとります。
 また「社会的認知の欲求」は、絶えず威信を求める場合もあれば、あるいは自分が人並み、対等であることを求める場合もあります。
 「権力欲」は、一面では支配と隷属ですが、他面では際立った相互依存や連帯関係のなかでの相互扶助です。
 仏法の教えのなかにも似たような考え方が発見できると思いますが、いかがでしょうか。
 池田 人間の欲求の本質を鋭く見抜いた言葉です。仏法に通じる考え方です。
 これらの三つの欲求は、いずれも自我の拡大をさし示しております。つまり、自分(我)と自分に属するもの(我有)を広げたいとの欲求(我愛)です。
 仏法では、これらの欲求には大きな落とし穴があることを見抜いています。それゆえ、根本的煩悩の一つとみるのです。
 しかし、大乗仏教では、この欲求を正しく用いれば、自他ともの幸福を築くエネルギー源ともみています。いわゆる「煩悩即菩提」の法理です。
 煩悩を薪に譬え、それを昇華して得られる「智慧」の発露を、薪から出る火(熱と光)に譬えています。
 欲求そのものがなければ、それを人々に役立つ「智慧」へと転換することはできません。財産がなければ人に分かち与えられません。大切なのは、煩悩の薪を「智慧」の火へと転換していく根底の心です。
 ブルジョ 何かを与えたり、分かちあったりするには、当然のことながら、その何かを持っていなければできないことです。
 他人と比肩できる立場に身を置くためには、人から認められ、自分に自信をもてるようでなければなりません。
 助けあいと連帯の精神を築くためには、生命とその環境についての洞察が欠かせないのは言うまでもありません。
 しかし、現実には、われわれ個人あるいは集団としての行動は、かなり違う方向を志向しています。国際市場での激烈な競争は競争相手の排除をめざし、それが企業の優秀性の名のもとに正当化されています。それが最終的に弱肉強食、富者による貧者の支配と搾取というパターンをつくり上げています。
 まさに社会はわずらっており、現代人は病んでいると言わざるを得ません。
 われわれは技術上、達成した偉業と商業的な成功をみずからたたえていますが、貧困はなくならないどころか、逆に広まっています。
 最悪なのは、そういう事態を運命にことよせて、みずからの責任を考えようとしない態度です。表面的には、変えようとしても変えられない、ほかにしようがないというのは、一種の運命論です。その運命論が世界に広がっています。
6  みずからの行いで運命を転換
 池田 厳しい現実から目をそむけてはなりません。苦悩の“現実の声”に耳を塞いではなりません。すべてを自身の問題としてとらえていく、“開かれた心”であり続けなければなりません。私も人間であるかぎり、人間に関するすべてを自分のこととして関心をいだき続けようと決意しております。それが仏法の同苦の精神、慈悲の精神であり、仏法者たる菩薩の道だからです。
 そして、世界の運命をも転換しようとするのが、仏法です。仏法の真髄は、みずからの行いによって得た運命なのだから、みずからの行いで運命を転換していくことを教える点にあります。それが私どもSGIの人間革命の運動です。
 ブルジョ 打つ手は何もない、というのは、真実ではありません。私たちには、変えようとすれば何であっても、たとえそれが世界であっても、変えることができるのです。
 池田 そうです。今、困難を打破して、人間そのものを開発することが求められているのです。これまでの開発が引き起こしてきた問題は、近代においてひたすら物質的豊かさの拡大と充足を追求してきた科学技術文明のあり方そのものにかかわるものです。自然の摂理に長く翻弄されてきた人類は、さまざまな技術革新によって、自然の猛威を克服して環境を開発し、自分たちの生活向上のために利用できるようになってきました。
 やがて、自然は人類にとって統御し征服すべきものであり、無限に利用できるものであるという感覚が生まれてきました。こうした自然観が、「環境汚染」「環境破壊」などのいわゆる“地球的問題群”にも深くかかわっているように思われます。
 “地球的問題群”は、現在、きわめて文明史的な問題を投げかけています。あらゆる分野で、“何のため”という問いかけが必要です。“人間”は“人間のため”に英知を用いねばなりません。
 ブルジョ 社会で不均衡が目立ち、ひどい貧困が定着したとしても、技術開発がすべての病根であると言うことはできません。
 池田 たしかにそのとおりです。技術を生みだすのも、用いるのも“人間”です。“人間”をつくるしかありません。
 先進諸国が直面している精神的問題を解決するカギも同じです。二十一世紀に生きるにふさわしい人間をつくることです。
 さもなければ、苦悩に喘ぐ同じ地球の隣人に対して、手を差しのべることはおろか、関心をもつことすら、できないでしょう。

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