Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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4 さまざまな生命観  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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5  生命観は多元的である
 池田 このような考察からも、生命現象という事実そのものは唯一であるのに対し、生命観のほうは多元的であると考えたほうが適切であると思われます。
 そして、博士がおっしゃるように、この生命観が時代や社会によっても変わるということをも考慮すると、ますます画一的な生命観に固執する必要はなくなるわけですね。
 ブルジョ そのとおりです。われわれの先人たちはギリシャ・ローマ的、ユダヤ・キリスト教的伝統――これは私にもよくわかるのですが――の影響を受けて、人類はすべてのものの上に立って統治するという立場をとりました。それが、われわれが「西欧文明」と呼ぶものの出現や「機械論的生命観」の出現につながったのですが、今日では、もっと民主的、平等主義的な考え方が広まっていると言えるでしょう。
 そうしたパラダイム・シフトに対する科学の影響は決して小さいものではありません。その経緯を説明した好著を二冊あげることができます。一つはフランソワ・ジャコブの『可能性 生物の多様性について』で、私はこの本から、生命の相互作用がその働きの一部として個々の生命に際限のない多様性をあたえているのを学びました。もう一つはイリヤ・プリゴジンとイザベル・スティンガースの共著『新しい同盟 科学の変身』で、こちらからは、人間と他の生物、自然、そして統一体としての宇宙との関係性についての新しい知見が、科学の進歩によってもたらされた経緯、それがひるがえって科学そのものをどのように変えていったか、を学びました。
 池田 それらは、たんなる「機械論的生命観」以上のものを含みますね。
 ブルジョ そうです。ですから、科学はたしかに物質主義的な生命観にその基盤をおいているのですが、それが必ずしも狭いものの見方であるとは言いきれない、と私には思えるのです。この立場は、観察の結果を素直に考慮に入れるという立場だと言えます。
 個々のものには個別的な区分があることは否定できませんが、その背後に、生命と物質の間に連続性が厳然として存在することを見ています。今や、デカルトとボーデュー、あるいはビシャのどちらの立場をとるか、つまり「人間機械論」か「生気論」かはもう問題ではなくなります。どちらか一方に与するというわけにはいかなくなってきたと思います。
6  仏法の法理からみた「主体的生命観」
 池田 私も、博士の見解に賛成です。二分法的な生命観ではなく、生命観そのものが発展するということです。
 仏法では、とくに人間精神に特徴的な「自己意識」について深く洞察するとき、そこに「主体的生命観」が成立するととらえております。
 前にも取り上げましたが、この「主体的生命観」の基盤をなす仏法の法理の一つが「九識論」です。すでに紹介しました“五陰(仮和合)”説と、この“九識論”を組み合わせると、いわば「仏法的生命観」が成立してきます。“五陰”のなかの“識陰”を洞察していくとき、人間においては「自己意識」が重要な心の働きをなすことは、「人類の誕生」のところで話しあいました。
 さて、その「自己意識」(第六識)の底を掘り下げ、その内面に深層意識としての根源的自己意識、つまり第七識(末那識)をも発見しております。この第七識が、反省的、内省的“自己”の基盤であります。この根源的自我は、つねに貪欲や慢心や悪見につきまとわれているのですが、そのような悪心を打破すると、良心、理性に輝く「自己意識」が現れてきます。
 では、その悪心を打破する原動力をどこに求めていくか――第七識の底を洞察していきます。環境と一体化しつつ拡大し、時間的にも過去を摂取しながら未来をも志向する広大なる深層意識領域としての
 第八識・阿頼耶識に到達します。仏法的に言えば、阿頼耶識は「業蔵」とも言い、人間生命の体験が善悪の業としてはらまれています。
 善悪の業のなかで、善業を強化する源泉を求めて、仏法はその第八識をも包括する宇宙生命そのものと一体となった自己自身、すなわち第九識阿摩頼識(根本清浄識)を洞察しております。
 今後の総合的な発展によると思いますが、このような「自己意識」を起点として主体的に深まり拡大しゆく「主体的生命観」は、哲学的側面からの重要な生命観として位置づけられるのではないかと思います。
 ブルジョ 「機械論的生命観」あるいは「生気論的生命観」の両者を比較して、私なりに結論を下すとすれば、次のようなことが言えると思います。
 人間その他の生物の中に生命があることは否定できない事実です。その生命は、つねに新しい経験を積みます。したがって、生命の概念を規定しようとすれば、あるいは生命を理解しようとすれば、生命にはそれ自体が経験的につねに変化し、新しくなっていくという側面があることを無視できません。このことを認識すれば、人間の生命構造が反映されている社会の枠組みと範疇の中で、人間生命は新たに経験を積み重ねたり、物事を理解したりするわけです。
 この究極に主体性の問題も存在すると考えられますが、おっしゃるような「主体的生命観」は、自己の人生にどのような意味をもたせるかは人間自身であるという意味において、重要な視点であると考えます。

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