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日蓮大聖人・池田大作

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3 人類の誕生  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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4  連続性と断絶性をどうとらえるか
 池田 仏法の「有情」「非情」の考え方からすれば、環境への反応である“受陰”や“想陰”“行陰”は動物にもあると思われます。また、これらと“色陰”を合わせた四陰を統合する“識陰”の働きも、その一部は動物にも発現していると思われます。つまり、このような視点からも、人間と動物の間の“連続性”を認めることはできましょう。
 ブルジョ “連続性”はおっしゃるとおりでしょう。一方、“断続性”については、いかがですか。
 池田 生物の生命活動は、物質のメカニズムで条件づけられるにしても、決定されるものではないことも十分に考察されなければならないと思います。
 ちなみに、エクルズ卿は「大脳皮質の物理・化学的過程と意識の心理的過程の間に存在するミゾは、進化の創造的過程をもってしても埋めることはできない」と述べております。また、カナダのペンフィールド博士も「神経の衝撃が何らかの方法で思考に変わり、さらに思考が神経衝撃となる点は疑う余地がないにもかかわらず、こうした知識はこの不思議な精神の本性を決して説明するものではない」と指摘しております。
 ブルジョ 逆に、人間の思考、ここでは「意識」と言ったほうが適切かもしれませんが、それは、この人間という複雑な有機体の機能、とくに頭脳の働きがあるからこそ可能である、とも言えますね。しかも、脳の機能は物理と化学に共通な法則によって研究、測定することは可能であると思われます。たとえば、躁うつ病状態の治療にリチウムが使われ、熱意と不安の間にある深い谷間をコントロールしているわけです。ここにもまた、物質と生命、さらに意識との間にある連続性が現れています。
 池田 仏法では、人間の心と身体の働きを“色心不二”ととらえることは前にも申しましたが、ここに出てくる「不二」とは「而二不二」(二にして二ならず)という意味なのです。つまり、「而二」とは、二つがそれぞれ独自の働きをもっていることを述べたものです。つまりは非連続性です。
 これに対して、「不二」とは一体性、連続性をさします。
 博士があげられた躁うつ病の治療に即していうなら、躁うつの様相を呈している心は、それ自体で精神的次元で一つのまとまったシステムです。また、リチウムは脳や神経系など身体の器官に物理・化学的作用をあたえますが、身体のほうも物質的次元で一つのまとまったシステムです。
 ところが、身体における物理・化学的変化が、心の状態に影響をあたえます。また逆に、心の動揺がホルモンの分泌を左右し、体温を変化させるなど、物理・化学的変化をあたえます。このように、二つのシステムの間で、相互に影響しあっているわけです。二つのシステムが独立性と連続性をそなえているとみるのが、仏法の「而二不二」の視点です。このような関係は、心と身体だけではなく、個人と環境(正報と依報)などにおいても認められます。
5  自己意識の永遠なるものとの邂逅
 ブルジョ よくわかりました。
 要するに、人類の出現とともに新しく「出てきた」と思われるものは、人生に「意味をあたえる能力」です。しかも、そのようにしてあたえられた「意味」が、個人的に、さらに歴史をつくる社会として、人類の生命に印を残すだけにとどまらず、世界そのものの変化をも人類の生命に刻んでいくと思うのです。
 人間の生命は、人生を生きるうえでは最終的には個人の自由であるべきでしょうが、そのために生命をあたかも一つの鏡であるかのように見立て、そこに自己を映し出して見ることができる、と考えることもできるでしょう。この“実存的な投射”を通じて、人間が数世代にわたってもち続け、今後ももち続けると思われる直感力、欲望、勇猛心などに、新しい可能性が開けます。この数十年間に見られた科学・技術の進歩は、ほぼこのような視点に立っていると言えましょう。
 池田 私は、生物進化という背景を考えるとき、「自己意識」の発現には、悠久なる宇宙との関連における自己自身の位置づけという契機が必要であったのではないかと考えております。つまり、人間の意識が宇宙における自己の位置づけを自覚し、宇宙進化を推進しゆく「永遠なるもの」にふれたとき、内省的、反省的な「自己意識」の構造が可能になったのではないかと思うのです。それは、宇宙の側からの生物進化の場への「創発」であるとともに、人類進化の側から言えば、生物進化を通し、それを内在的に超越しての宇宙への帰還であり、「永遠なるもの」との邂逅であった、と言えるのではないでしょうか。
 人間の「生」と「死」、そのような「自己存在への反省」、そして実存的不安、恐怖も、有限なる自己と永遠なるものとの邂逅から生じた深層感情であり、私は、ここに宗教の原点を見いだし得るのではないかと考えております。
 仏法においては、人間の「自己意識」は「永遠なるもの」との邂逅から、この宇宙進化のなかに生を受けた深い「意味」を感受し、それを使命としゆくと説いています。この使命とは何か――あらゆる存在が、相互に関連しあいながら、創造的進化をおりなしている大宇宙の中で、他の人々に慈悲の行動をなしゆくことです。その自覚が、人生に意味をあたえ、「生」と「死」の深淵を超えゆくものではないでしょうか。

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