Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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2 生物進化論をめぐって  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

前後
4  「競争」と「協調」のダイナミズム
 池田 「必然」と「偶然」をともにはらみながら、進化のプロセスはダイナミックな相互作用の連続のなかで、変化し展開していく。仏法者としては納得できます。
 そこで、論点の最後にあげた、進化は「生存競争」か「協調」かということですが、当然、二者択一にはとらえられないということですね。日本の学者で、ダーウィンの「生存競争」に対して、独自の進化論を唱えた人がいます。今西錦司博士で、「今西進化論」(「棲み分け」という現象によって区分される「種社会」を進化の単位とし、「種は変わるべきときがきたら変わる」とする進化論)と言われています。
 今西博士自身による論文はそれまでにも発表されていたのですが、いわゆる「今西進化論」に関してまとめた論文――「日本における反ダーウィン説」――が(今西博士のもとに滞在していたイギリスの古生物学者L・B・ホールステッドにより)、一九八五年に「ネイチャー」誌に発表されて、世界的な論争を巻き起こしたようです。今西博士は京都の加茂川に生息しているヒラタカゲロウの観察から、「棲み分け」と「種社会」を中心的な概念とする進化論を展開したわけです。
 進化の単位が、個体ではなく「種」である点、生存競争による自然淘汰を否定して「協調して棲み分ける」とした点に、その理論の特徴があるとされています。しかし、一方、この進化論に対しては、変化のメカニズムについて提示されていない、との指摘もなされているようです。
 ブルジョ 生存とは「競争」と戦争なのか、あるいは、生態学的観点から「ふさわしい居所」を見つけ、「協調」しあいながら適応していくのか――この問題は、慎重に考えなくてはなりません。
 というのは、この二つのダイナミズムは歴史の上では交互に登場してきた時期もあったが、両方が一緒だったときもあるとしか、私には思えないからです。
 池田 たしかに、人類の歴史上では「競争」と「協調」が、さまざまな形で登場してきていますね。
 ブルジョ われわれの歴史を振り返ってみると、戦争によって先住民を追い立ててその土地を併合し、自分たちの領土の拡大を図ったこともあるし、いわゆる新しい土地を征服して原住民の意思や運命を無視して、そこの資源を搾取したりしました。反面、和解をしたり、平和的な共存を約したこともありました。
 そのすべては過去の出来事であったとは言いきれません。今日でも部族間の闘争や内戦は見られ、多くの国が分裂の憂き目にあっています。激化する多国籍企業間の競争は商業戦争の様相を帯び、弱者は排除されてしまいます。相も変わらずとしか言いようがありません。
 池田 非常にわかりやすい説明です。人類史が、「戦争」と「協調」によってつくられてきたことは事実です。しかし、“地球的問題群”が噴出してきた現在、人類は大きくその方向性を「戦争」から「協調」「共存」へと転換しなければなりません。
5  生物はいかにして「主体性」をもったか
 ブルジョ この項の最後に、多少補足の説明をさせてください。
 池田 どうぞ、十分に論じてください。
 ブルジョ 私はこれまで一貫して、あえて物質と生命の連続性を強調してきました。また事実、生物学とくに分子生物学と遺伝学は長足の進歩を遂げて、この数十年間、生物がどのようにして無生物と同じ物理化学的法則に支配されているか、を明らかにしてきたと思っています。
 池田 私も、仏法の視座から、「非情」と「有情」の連続性を強調してきました。
 ブルジョ しかし、この生物と無生物間の連続性を強調しすぎると、アンドレ・ピショも言っているように、生命や生物を生物学の研究対象から奪い去ってしまう危険性がないとも限りません。
 非連続性についてはあらためて後で述べたいと思いますが、今指摘しておきたいことは、非生物と同じ物理化学的法則に生物はしたがっているけれども、生物はそれらの法則を生物なりのしかたで正確に守って生きており、統合して管理しているという点です。おそらく、異なる種類のさまざまな存在を生んでいった差別化を含めて、生命の進化の過程で生じた生物と非生物間の区別を一貫した理論のなかに位置づけるためには、生物がどのようにして“主体性”をもつようになっていったのか、また、やがて生物が中心となっていった環境とどのような“交流”が必要だったのか、を解明しなくてはならないことを知っておく必要があるでしょう。
 池田 私も博士に合わせて補足させてください。(笑い)
 仏法でも「非情」の存在から、やがて「有情」が登場するのですが、この「非情」と「有情」の連続性と非連続性を、次のように説いています。
 仏法では、「非情」も「有情」も、ともに五陰という五つの要素が仮に和合した存在であると説くのです。
 和合のしかたによって、色陰(物質的存在)が顕在化していて、他の四つの要素が潜在化している存在もあります。これが“非生物”です。
 ところが、生物進化のなかで、環境との連続的な相互関連を通して、色陰にはらまれていた受陰(外界への感受性・感情)や想陰(イメージを想い浮かべる作用)や行陰(この中には意思的作用も入ります)が徐々に顕在化してきます。動物は意思をもち、豊かな感受性をもっていますが、現今では、植物も感受性をもち、感情をもつとされています。
 そして、人類の誕生にともなって、識陰が「意識」として登場してきます。ここに、人間としての「主体性」が確立します。これは次節で話しあいましょう。
 ともあれ、このような理由から、私は、生物の“主体性”や、生物と環境との“交流”の解明を主張される博士の見解に、基本的に賛成です。

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