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日蓮大聖人・池田大作

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1 生命の起源  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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4  “単純”から“複雑”へと進む分子活動
 池田 博士のお考えは、よくわかりました。それでは、地球上における“生命発生”と“進化”の問題に入りたいと思います。
 現在における一般的な進化論は、オパーリンにその端を発すると言われる「分子進化論」ですね。
 一九二四年、モスクワ大学のオパーリンは「生命は地球上で、単純な分子から『分子進化』の過程を経て誕生した」と論じました。“分子進化”とは、簡単にいえば、二酸化炭素や水などの無機分子からアミノ酸やブドウ糖などの有機分子がつくられ、それらがさらに高分子化することですね。とくに、そのプロセス――有機分子から「コアセルベート」(タンパク質や糖、脂肪などの粒子が集合し、溶液中で液筒となったもの)そして「単細胞生物」へ――を科学的に説明しております。オパーリンの説は、その後、実験的にも立証されてきていると言われますね。
 ブルジョ 口火を切ったのは、ミラーとユーリーによる実験です。
 池田 たしかユーリーは、ノーベル化学賞を受賞していますね。また、スタンレー・ミラーはシカゴ大学の大学院生で、その実験は彼の着想で行われたと理解しています。青年の独創性や柔軟性を感じますし、それを包容しながら的確にリードするユーリーの卓越した指導力も感じます。
 ブルジョ 彼らが一九五三年に行った実験は、少なくとも地球という惑星上に存在する生命の起源に関して、科学者の間にかなり広く受け入れられるような、説得力のあるものでした。風や雷雨が大海原に荒れ狂って吹きつけている、というような生命誕生の条件を実験室で再現しようと試みたわけです。
 実験は成功し、原始地球の大気を模した混合ガスに電気火花を通した結果、生命の素材となる分子を実際に合成しました。
 その後、他の科学者がこうした実験を繰り返し、ほぼ同様な結果を得ています。液体として水、それから大気中に最初から存在していたと思われるたんなるガス――この混合物に激しい放電を浴びせた結果、出てきたものは、あるいは彼らが作りだしたものは、アルコール類・糖類・脂肪類・アミノ酸でした。
 池田 一九六〇年には、アメリカ・メリーランド大学のシリル・ポナンペルマ教授が「核酸塩基」(DNAやRNAという核酸を構成しているアデニン、グアニンなど窒素を含む塩基性化合物のこと)を合成していますね。
 ブルジョ そうした有機物は、その時点では、生物だけが作りだすことができると考えられていたものです。したがって、一連の研究結果から、われわれは地球上に最初の有機分子が現れ、その分子は相互に結びついたり離れたりする「分子活動ゲーム」を始めたと考えたわけです。
 分子活動には、生命がかたちとして形成されていく過程も含まれ、その過程が、(ジャック・モノーの著作のタイトルを借用させてもらえば)「偶然と必然」の間を絶えず往復するかたちで急速に進み、単純性から複雑性へと進んでいった、と思われます。
 池田 ジャック・モノーの『偶然と必然』は、日本でもたいへんなセンセーションを引き起こしました。これほど、重厚な内容が一般の読者まで引きつけたのは久方ぶりのことでした。私も仏法者として、真剣に読み、思索しました。
 ブルジョ ジャック・モノーの著作が出版されてこのかた、いわゆる「自然法則」と言われてきたものについて、その考え方に大きな進歩が見られています。それを反映させて、わたしは今、「自然法則」を「ゲームのルール」と呼ぶのがふさわしいように思います。
 「偶然性と必然性」の問題も、このことに関係します。かねてから、大気中の“乱気流”と“株価”は不安定で科学的に解明できるものではない(笑い)、と言われてきました。
 池田 とくに株価については、科学的な解明を期待している人もいるとは思いますが。(笑い)
5  「混沌」と仏法の「縁起」の考え方
 ブルジョ また、「生物」および「生物の生態」について今日までわれわれが得た知識によれば、これらはデカルトの「機械論的生命論」(生物を物質からなる一種の機械と見なし、その仕組みは完全に物質法則のもとにあるとする考え方)の範疇におさまりません。生物自体が、ある意味で不安定な存在です。そうすると、科学では生物は解明できないのか、という疑問が出てくるのも当然です。
 池田 一方、最近の分子生物学によりますと、炭素を骨格としていることや遺伝子がDNAであることは、地球上のあらゆる生物に共通していると言われていますね。すると、「必然性」を志向しているとも思われますが。
 ブルジョ そうとも言えますし、そう考えやすいとも言えるのです。(笑い)
 二十年ほど前に、アメリカとヨーロッパ(とくにフランス)の科学者たちが、「混沌(カオス)」としか言いようがない概念にはどのような事例が入るのかを、いろいろな学問分野ごとに調べたことがあります。その結果、「混沌」がそれまでに科学的考察の対象になったことがまったくなかったことが判明しました。
 それをまとめたのが、「ニューヨーク・タイムズ」の科学記者であるジェイムズ・グリックによる『混沌』(一九八七年)で、アメリカでベストセラーになり、十七カ国語に翻訳されました。著者は、この本の結論部分で、一九七〇年代から八〇年代にかけて「混沌」について科学者が試みた作業は、“一見正当に見える定説をもう一度疑ってみよう”という、科学の原点への回帰につながったと書いています。
 池田 なるほど、それは興味深い結論ですが、具体的に話していただけませんか。
 ブルジョ たとえば、「単純な存在は明確な法則に従うから、単純な行動をする」という、一般的に疑う余地もなく受け入れられている、いわゆる定説があります。
 この法則は、いわば単純な存在は安定し恒常的であり、したがって予測できる行動が期待できるというものです。それとは対照的に、複雑な存在の行動は不安定で予見しにくく、だから、当てにならないというように分別されてしまうのです。ここでも、われわれは必然性を偶然性に優先させています。要するに、いわゆる定説では、異なる存在は当然の帰結として異なる行動をとる、としているわけで
 す。
 しかし、「混沌」について調査した結果では、単純な存在でも複雑な行動をすることがあり得るし、異なる存在の行動の関係にも奇妙な類似性が認められる、ということが判明しているようです。つまり、単純な存在であれ、複雑な存在であれ、いずれの行動も複雑であるというのが自然の法則のようです。
 池田 納得できる考え方です。
 中国の古典(『荘子』応帝王篇)に興味深い話があります。ある人が「混沌」にお世話になったので、そのお礼に、のっぺらぼうな顔に目鼻をつけてあげた。すると、「混沌」は死んでしまった、という話です。“自然”の扱い方を誤ると、“生ける自然”を殺してしまうという警告ですが、複雑な存在である“自然”を「必然性」の視座からのみ律しようとすると破壊してしまうことにもなりかねません。
 仏法では、すべての存在を“相資相依”の視点からとらえております。つまり、“縁起”です。すべての存在は、さまざまな“因”と“縁”が相互に関連しあって生起し、また消滅していくものであると見るのです。すなわち、多くの縁のなかの重要な因果の関連を「必然性」として取り出しておりますが、しかし、すべての存在は因果の「必然性」とともに、多くの縁との相互関連のなかに「偶然性」を包含しながら、流転していくととらえるのです。
 このような仏法の「縁起」の考え方からしても、生物や生命を考えるにあたって、どこまでが必然性でどこまでが偶然性というような二分法的な思考にとらわれるのではなく、博士が言われた「単純な存在であれ、複雑な存在であれ、いずれの行動も複雑である」という視座が肝要であることがよくわかります。
 ブルジョ そのために、今や研究分野の異なる科学者たちはそれぞれの専門分野の殻を打ち破り、学際交流を促進すべきだと考えるようになっています。
 池田 前に博士が話された、アルベール・ジャカールとユベール・レーヴェによる生物学と宇宙物理学の興味ある討論など、その典型であるわけですね。
 ブルジョ そうです。そうした学際交流はもっとひんぱんに行われるべきです。すべてのものが、ダイナミックで多重的な相互依存の複雑な網目のような相関性を保っており、われわれが慎重に見きわめようとすればするほど、思いもよらぬ複雑な様相を露呈するからです。
 ジョエル・ドゥロズネイは一九六六年に『生命の起源』を著し、生命の起源を探索する手段として望遠鏡と顕微鏡をあげ、その後、第三の方法として(望遠鏡という意味ではない)「マクロスコープ」(日本語では「巨視鏡」とでも訳せるか)を提案しました。それは、すべての存在を相互に結びつけている複雑な系のネットワークの相互作用や相互依存が正確に理解できる道具です。それはまだ実現されていませんが、彼は最近の著書『共生する人間』(一九九五年)の中で、「未来の人間は、他の惑星の有機体(地球外生命)と密接に共存していくことになるだろう」と述べています。
 池田 その「マクロスコープ」とは、きわめて興味深いアイデアです。科学の方法によっても、あらゆる存在の相互関連が理解されるようになることを強く期待しています。

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