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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 人類共同体に仕える競争  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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4  「絶対主権」を超える構想
 池田 そのような絶対主権の傾向は、権力一般がやどしている本性でもあり、「権力の魔性」というベきものです。
 かつてホイジンガが、「国家にはすべてが許される。誠実を誓った約束も、権力にとって利益ではないと判断すれば、これを破ってもかまわない。嘘をついても、欺いても、暴虐のかぎりをつくしても、外に対するばあいであれ、内におけるばあいであれ、国家がそうするのであるならば、悪いことだと咎められることはない」(『朝の影のなかに』堀越孝一訳、中央公論社)としたのも、糾弾されるべき「国家悪」を突いています。
 二十世紀には、その種の権力が、凶暴な魔力をふるい、人間の内面世界にいたるまで、ズタズタに切り裂いてきました。「国家」が「社会」をのみつくし、おおいつくしてきた悲劇を思うと、今日ほど権力の魔性を封印するための精神的、制度的課題がさしせまっている時代はありません。
 カズンズ 私が『権力の病理』と題する一書をあらわしたのも、その課題を最重要視しているからです。そのなかでもふれましたが、絶対主権国家がなくなった世界では、世界機構が各国家の自主独立と相対主権を保障できます。その相対主権とは、国家内における生活と活動の仕方に関する管轄権は、国家が保持しうるということです。世界を安全な状態にするためには、国家そのものの解体が必要ということではありません。
 必要なのは、国家主権を有意義なものにすること、つまり世界の無政府状態を助長する国家主権の諸属性については、これを除去し、国家責任を助長する諸属性については、これを確保し保障することです。
 池田 戦後、長らくつづいた冷戦構造下での「パックス・ルッソ・アメリカーナ」と呼ばれる秩序は、軍事力を背景にする「力」によるもので、永続性はもちえませんでした。
 その軛がとりはらわれると、抑圧されていた民族的エネルギーがいっきょに噴出してくるのは、当然の帰結です。「国家」と「民族」はもちろん、そのまま重なりあうものではありませんが、「国民国家」という近代の所産を新たな世界秩序のなかに、どう位置づけていくかという課題はさけては通れません。
 ソ連の「ペレストロイカ」(改革)にしても、当面の最大の難題は経済の再建ですが、長期的な尺度で考えると、バルト三国やアゼルバイジャン等の「民族」の問題のほうが、より重くなってくるかもしれません。
 これも、スターリンのおこなった強引な民族政策に起因してきているので、その解決に拙速だけはさけなくてはなりません。時間をかけてねばり強く取り組むことが、いちばん肝要です。
 カズンズ われわれは皆、いかなる民族や国家に属していようと、まったく相反する二つの世界のなかで生きております。この二つの世界の一番手は古来なじみ深く、現に日のあたりに見えていて、人がつきやすく、手に負えない世界です。ここでは民族がこれまでどおり、民族としての行動を起こします。
 二番手の世界は、まだ新しく複雑にして、要求も厳しく、処しがたい世界です。とともにまた危険もあれば、すえ頼もしい世界ですが、すっかり変わりつつある世界です。この新たな世界では、地球と人間のまず物理的関係が変わってしまいました。広大な距離感もなくなりました。人類の新たな地平と「力」が、触知できる限界をほとんど知らなくなっているのです。
 こういったなかで、最も由々しい事実は、古来の民族問題もさることながら、核のスイッチが押されると、民族も国家もすべてまるごと、地球から抹消されてしまうということでしょう。
 こういう新世界であるかぎり、われわれ全員に課されている条件は厳しいものです。
 第一に高度な英知が要求されます。いつまでも緊張関係にある緊迫した情勢のなかに、この世界を放置してはおけないからです。この世界が客体なら、みずからは動きださないでしょう。われわれが主体なら、世界を動かさなくてはなりません。しかし、それは動かす人たちが、自分たちがやっていることをよくわきまえていないといけません。
 この意味では、最高の科学と同じくらい正確さと、集中力と熟練を要する仕事であり、厳しい課題です。
 こういった世界において緊張と重圧をいちばんかけるものとなり、緊迫点を生じているものが、国家の絶対主権です。
 今、述べた新旧二つの世界が争いあうのも、この緊迫点においてでしょう。民族あるいは国家にとって、陰謀には陰謀を、策略には策略を、自国の利益を、そうして力の均衡をという古い世界にあっては「力」や「力の誇示」によって、絶対主権を主張することが、いかに筋が通り、自然かつ当然と思われようと、もう一方の新たな世界での変わりはてた諸条件が、国家の絶対主権を行使不能なものにします。
 過去において絶対主権の最高の成就であった軍事的勝利は、今日においてはもはやありえません。「国民国家」であれ、「民族国家」であれ、国家が軍事的な力を行使することは、もはや「戦争宣言」や「戦争遂行」にとどまらず、核戦争に結びつく「集団心中」の宣言であり、遂行なのです。
5  結語に代えて
 池田 ようやく米ソ冷戦の終結が、世界にとって大きな過渡期をもたらしました。
 最近ではヨーロッパ情勢とからめて、しばしばエネミーレス(敵性対象の消滅)という言葉が使われています。今までのように東西間に仮想敵国を想定できず、安全保障自体の問い直しが始まっています。
 すなわち、軍事同盟型の安全保障策というものが、意味をもたなくなってきているわけです。その空白に、さまざまな利害による動きがありますが、これがさらに進んでくれば、軍事力や軍隊はいったい「何のため」の存在かということになり、そこから思い切った共存の道が開ける可能性が生まれてくるでしょう。
 絶対主権を主張し、国と国が「力」によって張りあう状況が今、こうして徐々に崩れさっています。
 カズンズ わずか数年前なら民族にとっては、みずからの権益を求めるうえでとるべき、当然にして必然の行動と見られたものでも、今ではもはや意味をなしません。
 いや、それどころか、そうした行動こそ、地球というこの惑星に核の火口をつけるのに、いちばん手っ取りばやい仕方になってしまうでしょう。われわれは皆、二つの相反する世界に生存しているだけに、余儀ない代価をはらっております。もろもろの決め事は、古い世界の水準でなされるかもしれませんが、その結果は、新しい世界に生じてきます。
 自己の権益という歴史的な考えに主導されている民族も、その主たる力を失うだろうということをすみやかに悟るかもしれません。なぜなら、この新しい世界において行使できる力は、民族が地球上のさまざまな民衆に伍していて発揮しうる指導力と、その民族の道義上の立場と、新たな現実を認識する能力と、力そのものを行使するのではなく制御しようとする志向によってこそ、真価をはかれるものだからです。
 もちろん、この新しい世界に生きるということは、現に脅威的なイデオロギーが存在しているのを無視してもいいということではありません。そうではなくて、まさにその種のイデオロギーに対抗する新たな道を切り開いていかねばならないということです。
 つまり、これまでは冷戦構造下での「パックス・ルッソ・アメリカーナ」といった秩序を、軍事力を背景にして維持してきた米国とソ連にしても、これからは意義のある競争のなかでも最大に意義のある競争、すなわち人類共同体につかえる競争に向かうよう、たがいに挑みあえるということに意義があります。おそらく勝利は、この面において得られるにしても、その他の面では決して得られないものです。
 およそこういったことが、この新たな世界から課せられている基本的な条件です。国家の個々の市民は、この新たな世界が突きつけている要請に応えていかねばなりません。
 今日こそ全員が寄り来って「人類党」をささえ、全世界に正気と安全の状態をつくりだす時です。そうしてこそ、安全でいられる唯一の道が生まれ、個人も安心できるというのが、この場の私たちの結論だと思うのですが。
 池田
 また、ただいまのお話のなかで「現に脅威的なイデオロギーが存在しているのを無視してもいいということでは」なく、「その種のイデオロギーに対抗する新たな道を切り開いていかねばならない」と言われましたが、その点にも私は深く賛同じます。今日の世界は、そうした危機を超える機構が要請されることを映しだしているからです。
 さらに申せば、思想には高低、浅深があり、これはしかるべく弁別されていくのではないでしょうか。目的観、生命観、世界観において、高くて深く正しい思想をもって、人間の存在意義そのものを探求しなおしていくことになると思います。意識変革の道においても、究極的には「良心」の柱となる人間精神の本源へ、そしてその表現としての思想ヘと光があたっていくでしょう。
 してみると、思想的にも至高の道へ転換していくことが、まさに「今日の要」ですね。
 カズンズ まさに、然りです。

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