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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 「世界市民」意識の確立へ  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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4  「希望の議会」「人類の議会」への道
 池田 その意味で教授が「回復」という言葉を使われるのは、まさに的確だと思います。
 いわゆる「南北問題」として提起されているものも、その主柱は南、つまり発展途上国における民族の自決と自立であり、経済的、文化的な主権の「回復」であるからです。
 戦前の植民地体制下で宗主国が、これらの国々を利用してきた傷跡は、今でも経済面では「一次産品問題」その他につながる、いわゆる資本形成の困難さというかたちで、途上国の発展に大きな障害となっています。低所得、飢餓、社会構造の硬直化という、発展途上の国々がかかえる問題の大きな要因は、これらの国々が自決、自立の経済的主権をいまだに獲得しえないでいるところにあるといってよいでしょう。国連でうたわれている「新経済秩序」は、この点での経済的主権の「回復」に寄与するものでなくてはなりません。
 また現在、とくにアフリカ諸国で高い関心がはらわれていることに、植民地時代に圧倒的な権威をもって浸透したヨーロッパ文明に対して、各民族の独自性に対する誇りを回復させるような、文化面での伝統性、固有性の発掘、再評価の試みがあります。これも、ご指摘になった事柄の重要な側面であると思います。くわえて、第二次世界大戦後、イデオロギーを異にした超大国の対立のなかで、南の国々は多く利用され、国内の政治的安定すら脅かされてきたという歴史的経緯もあります。
 まことに「回復」という観点を考えただけでも、現代世界は是正されるべき多くの課題をかかえており、国連も対応できる態勢でなくてはなりません。
 カズンズ そうです。そのとおりです。そういう問題が、まったく重くのしかかっているうえに複雑さをはらんでいますから、基本的事実を検討する会議が開かれても開会早々につまずき、バラバラになる危険があるわけです。
 であればこそ、国連のこの「新事態検討会議」では、各論的な実質討議に入るまえに、まず、一会期内だけでは決定的な答えを出しきれないことを、率直に認めることが肝要です。諸問題はきちんと前向きに審議されるべきで、審議期間のタイムリミッ卜(期限)を定めてはなりません。この会議は、たんなる国際会議ではなく、歴史を生かす「希望の議会」であって、規模も多様さも増大している国際社会の単位のなかで、自分自身を統御していく努力の道を学びとっていく会議でなくてはなりません。
 ゆえに、歴史の記録を徹底的に吟味してみるのが必要でしょう。知識には英知を、資料には洞察を、把握には構想を組み合わせていかねばなりません。世界共同体へのこうした奉仕が、三年、四年かかろうと、長すぎるということはないでしょう。アメリカ独立革命のさいのフィラデルフィア会議は二年半余を要しましたし、同会議があつかった議題をめぐる公衆の討論は、さらに数年もつづいたという前例もあるからです。
 池田「人類の議会」たるべき国連を、もっと言論活動の内実ある場にしていきたいものです。構造改革の過程であればこそ、拘束されない言論による説得を第一義として、この過程で国連の面目が失墜しない努力をしていかねばなりません。現に百五十を越える国家が加盟している国連は、いってみれば″国際民主主義″の場そのものですから、徹底した討議がなされて当然です。
 かのガンジーのいわく、「善いことというものは、カタツムリの速度で動く」(坂本徳松『ガンジー』旺文
 社)と。言論による漸進的変革を説いた名言だといえましょう。教授の言われたアメリカの独立革命についていうなら、徹底した討議が主導権をにぎりつづけたという点で、史上まれな事例になりえたからこそ、それは今にいたるアメリカン・デモクラシーの輝かしい原点となっています。
 真実の言論は、暴力や武力よりもよほど困難で勇気のいるものです。人間はつねに力への衝動と戦っており、その衝動に勝つには精神の深みから発する自律と自制が要求されるからです。この意味での自律と自制が失われないかぎり、言論は決して無力ではなく、対話は持続されるでしょう。
 そこで、教授が提示されている国連の「新事態検討会議」が向かうべき具体的な方途についてはいかがでしょう。
5  警察力をいかにそなえるか
 カズンズ まず「新事態検討会議」の組織と機能については、長期的な構想が大切です。そのうえで具体的には、この会議を部門別に分けることができるでしょう。
 最初は総会において全般的な問題と目標について討議をつくし、しかるのちに部門別の作業委員会に分け、これには各国が代表を少なくとも一人はおくようにします。この作業委員会を常設委員会とし、その作業日程に日限はないとします。その間のことは、総会が委員会から中間報告を受け、作業の大筋について勧告するため、少なくとも年二回は総会を開くということにしてはいかがでしょう。
 池田 そうした作業委員会が国連の会議では、重要な役割を果たしますね。
 その作業委員会には、当然、細部まで目くばりのできる専門家を配するのが大事ですが、これは同時に、広い視野から国連の役割を俯障できる人材でもあってほしい。
 ともあれ、長期的に構想し、平和のいしずえを築くには、小事の着実な積みかさねが必要です。徹底した対話をねばり強く積み上げるのが大事ですし、しかもそこには、意識革命が同時に進められねばなりません。
 カズンズ おつしやるとおりです。そこで私が思案するような作業委員会がなしとげねばならない最も困難な、しかし最も大事なことは、世界法にもとづく続轄構が国連に付託されるまで、その途次における警察力をいかにして国連がそなえうるか、その方途を提示することでしょう。
 これには、さしあたって世界の安全を維持していくための計画を、四段階にわたり実行していく予定表が必要ではないでしょうか。
 まず第一の段階では、かつて「韓・朝鮮半島」に国連が駐在させていた軍隊の、少なくとも三倍を動員しうるようにすることが考えられます。そうすることができれば、約百万人の兵力になります。これでも現代の軍隊の規模としては小規模ですが、たとえば朝鮮戦争のときのように、弱い地点にやすやすとつけこもうとする侵略に対しては抑止力になるとともに、象徴的な目的を果たすには十分でしょう。
 国連軍は完全に最新式の装備であるべきで、法を破る国家が出てきた場合は、その軍事力に対抗する武器が手に入らなくてはなりません。それだけの兵力を構築するために参考となる先例が、朝鮮戦争の場合でしたが、朝鮮戦争と新たな国連の平和維持努力とは、次の二点において抜本的な違いがなくてはなりません。
 第一点は、これからは戦争の根本原因に対応しうる国連でなければならないということです。
 第二点は法の執行にあたっても、大半の兵員と物資を積極的に拠出してくれる国に依存する国連であっては、もはやならないということです。
 もちろん、国連が強制する平和に共通の大義があるからには、公平な義務の分担をいやおうのないものにするでしょう。信任・不信任の問題はここにはふくまれません。全関与国は世界への義務と、それぞれに課せられた責任を了解すべきであり、自国の分担のみが全体の努力からすると不釣り合いだという不満をいだく根拠は、もとよりないわけです。
 池田 その場合も、平和維持への圧倒的なコンセンサス(合意)が世界的規模で形成されていなければならないわけですね。また、世界の諸国民が自国の国益にのみ目を奪われていたり、イデオロギーの桎梏にとらわれたりしていては、平和への圧倒的なコンセンサスは形成されないでしょう。
 しかし、最近の世界情勢の変化は、楽観はできないにしろ、その点ではむしろ明るい兆しが見え始めているといえるのではないでしょうか。
 たとえば私は、ソ連のゴルバチョフ大統領が、社会主義のイデオロギー的帰結とされてきた「世界戦争不可避論」を、人類的価値を優先する″新思考″外交にもとづいて、今日の核状況のなかでは放棄していることに注目したい。
 そこで、国連の警察力をいかにすべきかというきわめて現実的な問題ですが、私はそのまえに、現在の「国連無力論」のよってきたゆえんの一つは、おっしゃるように大国への依存という状況があったからだという点を、強調しておきたいと思います。
 国連独自の警察力を現実に確保していくには、さまざまな困難が待ち受けていることは容易に推測できます。これは、世界法をいかに成立させていくかという問題と表裏一体の関係にあるでしょう。
 そこで法といえども強制力をともなわなければ空文化するということ、その強制力の裏づけとなるのが警察力だということを十分ふまえつつ、大国だけに依存するのではない、加盟諸国が国際平和維持の責任を担う新しいかたちの国連の警察力の構想が、真剣に検討されるべき時がきているといえましょう。
 と同時に、その背景には平和を希求する世界市民意識の高まりが、必須の要件となるでしょう。偏狭なナショナリズムを乗り越えて、一つの国家の国民であると同時に、というよりも一つの国家の国民であるまえに、世界市民であるという自覚に立ち、そのうえで一つの国家に属しているという、開かれたナショナリズムヘ意識を変えていかねばなりません。これをたとえて言えば、世界市民意識が「主題」であり、ナショナリズムは「変奏曲」となるでしよう。
 カズンズ まつたく同感です。私が論じている平和維持体制も、まだ途上のもので、究極のものでありません。第二の段階では、実施しうる軍縮計画が上程されるべきです。この段階までに、国連軍が平和の基礎を築くための後ろ楯になるという目的を果たし終わったとするなら、次の一歩は、偏狭なナショナリズムにもとづく国家の軍備を制限する方向へ進むことでしょう。そのさい、軍縮への呼びかけは各国を信頼してなされなければならないと思います。
 この軍縮計画に参加する代償として、各国は、国連が引き受ける安全保障にあずかるべきです。それまでには国連も、実質的な軍事権限とともに、その警察力を必要に応じて補強する権限をもつようになっているでしょう。
 こういう呼びかけには、歴史的に無効になったのとはまったく異なる枠組みのなかで、軍縮問題を討議する余地が残されています。新たな枠組みは条約や協定とは無縁なものでなくてはなりません。歴史的には条約やら協定やらの残骸がごろごろしているわけです。そういうものにはよらず、有効な機構と措置、要するに法にもとづく軍縮に結びつく枠組みを用いるべきです。まさにそのためにこそ世界の諸国民が、条約等を結びあう当事国同士の善意にもまして、確固たる世界市民意識をもつという一点に、軍縮計画の成否がかかっていることを確信しなくては、いかなる軍縮交渉も、軍縮の削減数をめぐるいかなる提案も実を結ばないと思います。

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