Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 コンピューター社会と詩心  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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4  情報化社会に対応するには
 池田 そこで、効率と利便を追い求めてきた近代文明の病理ですが、先進工業社会に蔓延しているのは、「精神の渇き」ともいうべき病ではないでしょうか。人間はたんに生きるのみではなく、善く生きんと本然的に欲して生きている存在です。ところが、コンピューターに象徴される効率と利便の社会にあっては、「意味への渇仰」を満たすものが少なくなっています。私どもの社会は、量的志向から質的志向への転換が、どうしても不可欠になってくるでしょう。
 「善」の領域と「必然」の領域、「価値」の世界と「事実」の世界の対立ないし緊張関係は、ある意味では、ギリシャ哲学以来の人類史的テーマといえます。この問題が、現代の科学技術文明下におけるほど跛行的かつ破局的な様相を呈したことは、空前のことです。
 そうした状況下での質的志向は、科学技術のもつ均質性、非人称性を突き破って、人間の個性、十人いれば十様でしかありようのない個性を、どのように回復し、輝かせていくかという方向をとるべきでしよう。
 カズンズ その質的志向への転換ということを具体的にいえば、人間の美への感応をより豊かなものにする、生命それ自体を十全に尊重する、そうして人間が住む世界そのものを、現在よりも安全なものにすることが課題です。
 今ふたたび言えば、コンピューターは人間がこれらの課題に取り組むのを、今よりも容易にするか、困難にするか。じつはこれこそが、大きな問題ではないでしょうか。
 コンピューターの電子頭脳にも、それなりの可能性があるのはたしかです。たとえば、人間の生活に不可欠な研究が行き詰まっているところでは、その行き詰まりを次々と打開していけるでしょう。しかし、人間の生活のなかで、いまだ経験されたことのない事例に遭遇するときにおかしやすい誤りや、愚かな事故は、電子頭脳にはなくせません。あるいは人間がもともと無関心であってはならないもの、たとえば他者が現実に感じている痛み、自分がみずから成長し価値を創造していく可能性、人類共有の記憶、次につづく世代の権利などに関心をもつことも、電子頭脳にはできないことです。
 これらのことが、コンピューター時代になぜ大切か。それは、人々がたんなる情報を英知とかん違いする傾向に走るかもしれないからです。これまでにも論理を価値と考えたり、知識を洞察と思ったりするような取り違えがありましたが、これからも、それとまったく同じ傾向へ走りだす危険がないとは、いえないからです。
 池田 そこにも「善」に対し「必然」、「価値」に対し「事実」の偏重が見られ、その点が、情報化時代のいちばん恐ろしいところです。あふれかえる情報の洪水のなかで、みずからの思考や判断力を麻痺させられた無気力な人が増えるなら、権力による情報操作、あるいはその裏返しとしての情報攻勢が、いともかんたんに功を奏します。自分では取捨よろしく情報をさばいているようでも、知らぬ間に情報に操られているといった事例が、今日ではしばしば見られます。
 そのさい、留意すべきことは、科学技術のもたらす病弊を警告するあまり、その全否定に走ってしまうことです。人工よりも野性(自然状態)を重んじた思想家ルソーについて、″彼の著作を読んでいると四つの足で歩きたくなる″という、あのヴォルテールの揶揄ではありませんが、科学技術のもたらした成果は、そうかんたんに否定できるものではありません。
 そうしようとするのは、現実的対応とはいえず、机上の夢想に近いでしょう。大切なことは、近代的な知性や科学技術というものを″反時代的″にではなく″弁証法的″にとらえていくアプローチでしょう。
 カズンズ そうしていけば、情報の無限の駆使が価値の無限の創造に通じる場合があるかもしれません。その場合も一定の条件は必要です。つまり、その情報が何を意味し、どういう結果を招くか、この点を見定める意志と能力が情報の駆使にともなってこそ、価値の創造にいたるでしょう。
 この条件を課さずに駆使される情報なら、それは怖いものになります。情報そのものはいわば粗野な材料のなかでも、最も粗野な素材にすぎないので、これは、きちんとした論理によって整理されねばなりません。それなのに、情報そのものが確実な価値であるかのようにみなされる場合があります。しかも、いとも安直に。
5  質的差異への視点
 池田 教授はつとに、「我々が恐れなくてはならない牢獄があるとすれば、それは結局のところ、我々の無気力と優柔不断だけである」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)と述べられています。私もまったく同感です。
 人間が意志の力をしだいに過小評価するようになれば、それはとりもなおさず、われわれの生命力の衰弱を物語っていることにほかなりません。
 カズンズ ちなみにホワイトヘッドは、「事実の分析に取りかかるには、非凡な精神を要する」と言っていますね。
 コンピューターのはじきだす数字が正しかろうと、価値判断がくだされるまでは、まだ的確な数字とはいえないかもしれません。だからこそ、電子頭脳を媒体にした中間作業と、人間自身が最終責任をもってくだすべき価値判断との間には、一線を画さねばなりません。それを怠るなら、先に述べたような人間自身が思いをいたすべき諸関係がぜひとも不可欠であるとの認識は、ややもすればコンピューターによって曇らされ、ついにはその画されるべき一線すら、見失ってしまう結果になりかねません。
 そうなると、人間はただ機能面の問いを事務的に出しているにすぎないのに、あたかも根本的な問いを発しているかのような錯覚を、コンピューターが呼び起こすようになります。またそうなると、コンピューターは人間の脳のいわば外延にすぎないのに、人間は自分自身の脳がなくても、この代用物があるからいいではないか、という馬鹿げたことにもなりかねない。
 それに、コンピューターの出す答えはつねに具体的ですから、その答えを人間が過信するようなことも、起きるかもしれないのです。
 池田 もちろん、コンピューターを駆使する人が非人間的なのではありません。以前、ある本で読んだ話に、将棋を指す機械のことが出ていました。コンピューターの進歩は、その機械をへたな人間ならかなわない、相当の「指し手」にするかもしれません。しかし、その類いの機械同士を戦わせたらどうなるか。先手必勝か先手必敗か、千日手か――いずれにせよ、勝負は始まるまえにわかってしまう。したがって、勝負事のように、熟慮断行といった人間の判断力を要する場合は、コンピューターではおもしろくないというのが、笑い話のようですが、その話の結論でした。やはリコンピューターと人間との違いは、量的な差異ではなく、質的なものだ、と。
 そのうえ、未知の領域への探究と決断がなくなってしまえば、人間が人間でなくなってしまうでしょう。そうなったときには、そこは、もはや生きることの意味を奪われた世界です。死ぬほど退屈な世界には、一日たりとも、とどまることができないのが本来の人間だからです。
6  技師と詩人の協力
 カズンズ「はじめに確信ありきなら、遂には懐疑であろう。はじめに懐疑ありきで、よく懐疑につきあっていくなら、遂には確信にいたるであろう」と、ベーコンは述べています。
 むろん、コンピューターにも誤りをなくす方法はあります。しかし、人間が機械の勝利にうつつをぬかすまえに、人間自身の状況を顧みて、そこには偉大な進歩があったことに思いをめぐらすべきです。実際、人間に過ちがあっても、それに対処するさらによい方途が発見できるまで、思索をつづけ、探究をつづけたからこそ、人間は進歩してきたのですから。
 「我に、よき実りをもたらす過ちを授けたまえ。その過ちを正せる種がはじけるように詰まった過ちを。不毛の真実は、君の手に委ねよう」という言葉を遺したのは、フェリス・グリースレットという人でした。
 池田「不毛の真実」という言葉は、先に紹介したドストエフスキーの「二二が四は死の端緒」というテーゼと符合しているように思います。とはいえ、われわれが科学技術に背を向け、ルソーやソローが憧憬の眼を向けたような「自然」や「森」のなかの生活をめざすなどというのは、およそ非現実的なことです。
 それよりも現実的なのは、コンピューター等の機械類をどう位置づけ、文明の利器としてどう活用していくかという課題に取り組むことです。人類が機械類を生みだしたにもかかわらず、手段そのものを目的と化していく転倒だけは、さけなくてはなりません。
 人間としての証は何か――。シモーニュ・ヴェイユは、他者のために「胸を痛める心」(『デラシヌマン』大木健訳、『現代人の思想』9所収、平凡社)こそ、人類の普遍的感情であるとしています。仏法でも他者への「同苦」や「共苦」を、仏法者であることの絶対的条件としていますが、こうした萱遍的感情を幾重にも掘り起こしていく作業が、日常のなかに求められていくべきです。そうした点にも私は、世界宗教、普遍宗教というものの必要をみております。
 カズンズ よくわかります。技術者の手からは、なにも奪い取る必要はありません。奪い取るのではなくて、コンピューター関係の技師と詩人の間に何らかの橋を架ける手段が講じられるなら、そのときこそ、かの先達が切に望んだ「よき実り」がもたらされるでしょう。現代の諸問題の解決が、電子管とトランジスターにゆだねられても、創造力の源泉は人間自身の想像力ですから、その驚異的な力を解き放てば、それが真の解決になるでしょう。
 つまり、機械を管理する技師が詩人に協力できるなら、人間の可能性は、テクノロジーが描くのよりも、もっと大きな、もっと明るい展望が開けてくるだろうと思います。
 というのも、詩人なればこそ、人間は独自の存在なのだと痛感させうるからです。この独自さを究極的に定義づけたり、定義そのものをこねくりまわす必要はないと思います。大切なのは、定義をこねくりまわすのではなく、人間の独自さ自体に思いをめぐらすことです。これができたなら、それだけでも人間自身が一歩前進したといえるのではないでしょうか。
 池田 同感です。お話をうかがっていて、私は、パスカルの言う「幾何学の精神」と一対の「繊細な精神」を連想します。パスカルは天才的な数学者、物理学者として「幾何学の精神」に通じていた大家であるとともに、人間の心事の委曲をつくした『パンセ(瞑想録)』をあらわすなど「繊細な精神」の持ち主でした。あまりにも有名な話で恐縮ですが、「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」(『パンセ』松浪信三郎訳、『世界の大思想』8所収、河出書房新社)との美しいくだりは、モラリストとしての洞察の深さが、自身の「繊細な精神」とともに躍如としています。
 もとより、われわれ人間の気質はたがいに一様ではなく、またことに専門分化のいちじるしい現代では、なかなか「繊細な精神」をあわせもつことは困難ですが、だからこそ教授の言われる「技師と詩人の協力」が、人間的精神の健全な発展のために強く求められると思います。

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