Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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第四章 首脳会談と民間外交
「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)
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対話がもたらす信頼関係
カズンズ
昨今のソ連の民衆は、もはや自分たちの体制のプロパガンダ(宣伝)に徹するような話は、しなくてもいいように思っているのではないでしょうか。しだいに、そうなってきているようですね。これもまた、私たちにとっては希望のもてる兆しでしょう。
今後は、場合によっては、自国の成果ばかりでなく、いまだいたらない点についても悠揚せまらず、現状をありのまま語ろうとするソ連の人々にまみえることもあるだろうと思います。
とにかく変化は起きていますね。そもそもそのような変化が起きているということ自体に、今後の可能性があると思います。「民間外交の役割」ということでも、そこに希望をつないでいくのが大切ですね。
池田
とくにゴルバチョフ大統領の時代になり、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)ということが叫ばれている現在、ますます民衆が本音で話をする雰囲気が強まっているといえます。
こうした変化の芽を民間人同士の交流のなかで、よい方向に伸ばしていくというのが、今後の課題ではないでしょうか。
カズンズ
そうだと思います。話はもとに戻りますが、ダートマスに始まる米ソ民間人の一連の対話の三回目は、ことに将来への見通しを明るくする会議になりました。
折しもキューバ危機がその極みに達していましたが、米ソ民間のそうそうたる二十数人が、ニューイングランドの私立高校で七日間のアンドーバー会議をもったのです。
キューバ関係のニュース速報が出るたびに緊張は高まり、不安が強まりました。まる一週間にわたる長い会議が終わり、参加者の面々が議場から出てきたときには、見るからに疲労の色が濃かったのですが、それだけにやりがいはあったと、晴ればれとしていました。と言いますのも、根本的に意見の異なる争点だろうとなんら腹蔵なく、すべてを取り上げて率直に話しあうのは可能だということが証明できたからです。それにまた全員一致で、今後もさらに対話をつづけていきたい、ということになりました。
池田
非常に大事な点です。世界中がかたずをのんで見守っていた危機のときに、そのような対話を実らせ、継続させておられたということは、刮目すべき″秘史″です。
私は一九七四年九月、モスクワでコスイギン首相と会談したとき、私の信念にもとづいて、思うところを率直に申しました。
「日本人は、ソ連に親近感をもっておりません。ロシア文学やロシア民謡には親しんでいますが、一方で今のソ連には″怖い国″との印象をもっています。これは、おたがいに不幸です。たがいに、もっと理解しあわないといけません。
そのためには、政治や経済だけの交流では、真の友好はありません。また親ソ派と呼ばれる方々との交流だけでは十分ではありません。
では、どうするのか。もっとはば広い民間交流、人間交流、文化交流を活発に進めていく以外にないのではないでしょうか」と強調しました。
首相は私の真意をよく理解してくださったらしく、後日、ソ連の関係者から「たいへん複雑な問題にふれながらも、話がすっきりできてうれしかった」「初めての会見であったが、いつまでも忘れがたい対面である」等々の首相自身の感想をうかがいました。たがいに腹を割って対話すれば、心は結びあうものだということをあらためて実感したわけです。
民間人の立場では、″政治性″に動かされるのではなく、それを包みこんでいくような″人間性″のふれあいを、どこまで可能にしていくかという点になると思います。
カズンズ
そのような実験的対話のなかで、最も興味ある発展といえるのは、やはり対話者同士の人間関係でしょう。私どものソ連の人たちとの対話でも、意見が食いちがう場合、おたがいの立場は分かれますが、争点がますます明らかになり、議論が白熱しても人間関係は崩れませんでした。というより、むしろ一層、親密になったと思います。
その折は、キューバをめぐる米ソ間の危機が深刻化するにつれ、私たちのテーブルをはさんだ討論も白熱化しましたが、人間と人間の信頼関係は日に日に深まりました。
それは、基本的には人類共同体の一員として運命をともにしているという自覚が、意識下にであろうと各人にあり、この自覚が危機のなかでいっそう深まったからなのか、あるいはたがいに知己となるにつれ、一個一個の人間味の重厚さが引力となって引きあい、その魅力に抗しがたくなったからなのか、そのへんは、いわく言いがたいのですけれども、確言できることが一つありました。
それは日を追って、一週間も終わり近くになりますと、どんな問答をしても、気まずさや気づまりはなくなったということです。
どんなに痛烈な質問を出そうと、どんなに急所を突く応答になろうと、単刀直入ではあっても皮肉にはならない、熱弁はふるうが悪態はつかない、手厳しくても辛辣にはならないで、やりとりができました。
意見の相違は相違として、相手の人格には敬意をはらいつつ、議論を進めることができたわけです。こうして作業も寝食をともにしているうちに、以前は国籍に左右されていたことも、つとに超克しうる各人になっていましたし、討議すべき議題にしても、人類的立場から論じなければいかんともしがたいものがあることを、暗黙のうちに認識しあっていたように思います。
池田
よくわかります。ノーベル平和賞を受賞した核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の両会長、アメリカのラウン博士とソ連のクジン博士にお会いしたことがありますが、この会も、二人のソ連人医師と三人のアメリカ人医師との語りあいから出発したそうです。
「最初はケンカばかりで、なかには捨てゼリフを残し、席をけって出ていった人もいた」と、クジン会長は当時の模様を笑いながら振り返っていました。
しかし語りあっていくうちに、だんだんとおたがいが理解を深め、やがて国家の枠やイデオロギーを超えて、共通の敵である″核兵器″の廃絶への強い連帯が生まれています。
人間は、放っておいて人間に成るのではなく、対話や言葉の海の中でたがいに接しあい、打ちあっていくなかで人間的成長をとげていきます。いわば対話とは、人間が人間たろうとする証といってよい。
ガンジーの非暴力主義にも、対話をとおして発現される精神の力への信頼がありました。彼は言っております。
「非暴力の宗教は、たんに賢者や聖者たちのためのものではない。それは同様に、一般庶民のためのものである。暴力が獣類の法であるように、非暴力は人類の法である。獣類にあっては精神は眠っており、獣類は肉体の力の他には法を知らない。人間の尊厳は、より高い法に、すなわち精神の力に従うことを要求する」(『わたしの非暴カー』森本達雄訳、みすず書房)と。
カズンズ
その意味からも、アンドーバー会議のような人間味のある実験が、キューバ危機にさいして、あのような圧力がくわわった状況下でも、成功しうるのであれば、むしろ非公式な接触の場においてこそ、およそ何事も不可能ではなく、あるいは信じがたいことすら起きうる、と思われます。
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民間の英知の創造的反映
池田
現今、大きな問題となっている環境問題にしろ、核兵器の問題にしろ、民間の英知をどう創造的、建設的に国家の政策に反映させていくかという点を、私たちはさらに真剣に考えるべきときがきています。この点でも、民間人による東西間と南北間の対話、交流がさまざまな分野でもっと重層的に進んでいけば、まさに時代を動かす大きな力になっていくのではないでしょうか。
カズンズ
私どもの民間人会議を発案したのは、元大統領のアイゼンハワー氏です。氏が発案にあたり表明した希望は、双方の政府から信頼されている民間の有識者たちが対話をしていけば、外交官同士の会談ではあれやこれやの理由で浮かびあがってくるとはかぎらない糸口を探求することができるだろうし、そのことによって民間人同士は有益な役割を演じられるだろう、ということでした。
この期待には、民間人が職業的な外交官のまねをしたり、その地位を軽視したりしてもいい、という意味はふくまれてないと思います。その意味するところは、それとはまったく反対の方向でしょう。公式の対話では交わされることのない問いをもちだし、それに対しての答えを探求していくのが、民間人ならではの役割ではないでしょうか。既成の枠組みよりも広く大きな前後の関係をふまえて考えもし、発言もしていけるのが、民間人ですから。
池田
まさに″民間外交″の役割を的確に指摘されており、まったく同感です。たとえば、今の日本のおかれた国際的立場においても、まったく同様のことがいえます。
カズンズ
公式の外交官レベルでおこなわれる活動や決定のすべてを擁護する義務は、民間人にはないだろうと思います。
それよりも、歴史の証明する原理を取り入れた考え方をするゆとりが、民間の有識者にはありますし、このゆとりを生かしていくのが民間人の役割であるはずです。
また、政治的問題であれ政治的対立であれ、その根をなすのは往々にして道義的争点ですが、その点に関しても民間人なら尻ごみしなくてもいいわけです。そこにおのおのの政府を引きこんで直接、関与させることは望めないとしても、問題の道義的対立点をたがいに明確にしあう作業と取り組むなら、まさにそこにこそ、世論が創造的に、建設的に国家の政策に反映されていくプロセスが開拓されてくるでしょう。
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