Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第三章 「希望」の哲学を語る  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

前後
4  ″宇宙空間から地球を眺める″
 カズンズ そこで、とくに近来の、四十五年を顧みてみましょう。この間に人類が容認しなければならなかった急進的な変革は、それこそ有史以来、最大のものでした。
 この変革は科学はもとより、およそ知の体系の全体にわたるものです。たとえば、原子力を解き放つことによってもたらされた変化の代表例は、人間の科学的な英知を活用したいかなる前例よりも、重大な意味をもつものですね。
 また、宇宙の探査に代表される地球引力からの脱出という例では、その影響が物理学を直撃したことはもちろんですが、その波及効果はむしろ哲学に深刻な衝撃を与えました。新しい視野がいきなり開け、考え方そのものにも変革が迫られています。
 池田
 しかしひるがえって、それがはたして統一的な世界像であったかどうかは、疑問であると思います。
 知ることによって支配し、征服する対象であった客観世界が、人々にとって有機的な意味あいをもっていたかどうか。
 かつてポール・ヴァレリーが、「後にいたってわれわれが、われわれの宇宙から一切の生命を排除することに哲学を用いたのと同じ熱意をこめて、古人は宇宙に生命をはびこらせることに彼らの哲学を用いた」(「神話に関する小書簡」伊吹武彦訳、『ヴァレリー全集』9所収、筑摩書房)と述べているように、生命なき世界像とは、世界像の名に値しないからです。
 はたせるかな、今世紀における量子論や相対性理論の登場は、不変かつ不動の主観・主体などというものの足下を掘りくずしました。また、地球引力を脱出して宇宙空間から地球を眺めるという体験は、人間中心的なものの考え方に、よい意味での相対化をもたらしました。
 カズンズ 人間の頭脳がおぼろ気であろうと、初めて宇宙の意味を理解するようになったことは、なんといっても大きいですね。
 地球はもちろん太陽系そのものが、宇宙の全体のなかでは極小な場を占めているにすぎない。それはたとえていえば、地球に対しての原子ほどにも大きな場ではないということでしょう。この点を人間が知覚するのは、じつに初めてのことでしょう。
 こうなると、未来の展望には、単純ならざる要素がふくまれていても、眺望が得られないということではないと思います。
 私たちに必要な見通しがたつか否かは、人間の身体的な資質にかかわる物理学的な問題というより、精神的な資質である想像力のいかんによるところが大きいということになりますね。
5  決定論でなく可能性の追求を
 池田 現在は、宇宙も人間もともにつらぬく万物の一体性というか、よリホーリスティック(全体的)な法則が、模索される時代にきているようです。興味深いことに、私が一九八三年にお会いしたアメリカの元宇宙飛行士のジェラルド・P・カー博士らも、同じ趣旨のことをみずからの宇宙体験をふまえて語っておられました。
 カー博士の強調されたのは、″宇宙の秩序ある運行″という点ですが、私はそこから、仏法のものの見方に非常に近接している、との感触をもちました。宇宙に即して自分をとらえ、また自分に即して宇宙を考察する仏法の知見は、新しい世界観、宇宙観の形成に資するところ大であると私は信じています。とともに、彼ら宇宙飛行士が共通していだいているのは、同じ惑星の住民として、人類は平和をめざすべきだという信念です。
 カズンズ 運命論的な見方も、決定論的な諦観も、無用です。もう手遅れだという必要はまるでないと思います。
 現代の世界の変化に対応していくには、状況の全体的な把握が不可欠ですが、それは不可能であるというのは、悪しき決定論です。人類が生きのびていくには、発想を転換し、種々の転換能力が解きはなたれねばなりませんが、それには何百年もの時間がかかるというのも、また悲観論の悪いところです。そういう論法は、いずれも無用の長物であろうと私は思います。
 私たちは、何が不可能かというよりも、何が可能かを明確に主張すべきですね。
 まず大局観に立つことは可能でしょう。偉大なものに感応する偉大な資質は、すでに人間に内在しています。したがって、その資質を喚起して、顕現していくことだけが、課題です。自己を鍛えて、より完全なあり方に近づき、境涯そのものを大きくしていく。人間には、そうしていける資質が無限にそなわっていますから、詮ずるところは、これらの尊極なる資質を触発していく。そうした生き方ができるからこそ、人間はとくにめぐまれているのだと訴えていけばいいですね。
 池田 その深い自覚が大切でしょうね。
 カズンズ これまでの歴史をみても、偉大な目的にめざめた人たちが輩出して、十分な数に達した時には、突如として状況が変わっています。歴史の教訓のなかでも、実際、これほどめざましい証はありません。人間の尊厳を主張し、やがてつづく世代の主張も受け入れる積極論者には、この目的にめざめた人たちが輩出するときが、えもいえぬ時代開拓の黄金期ではないでしょうか。ああ、生きていてよかった、と歓喜できるのは、その時でしょう。
 池田 カズンズ教授は、いかなる意味でもセクト主義ではなく、数十年間にわたり「人間」を友とし、「人類の未来」を展望されてきました。何が不可能かよりも、何が可能かを明確に主張すべきだという教授の意見に、私は全面的に賛同します。
 とくに人間の「尊極なる資質を触発する」と言われるところには、非常に重大な意味があると思います。そこにこそ、すばらしい可能性がはらまれており、新しい″哲学″が見えてきます。真に人間らしい″詩″と″ロマン″も生まれます。じつのところ、人類の未来を語るには外的な条件よりも、そうした内的要件から始めなければならないでしょう。
 私どもが進めている仏法運動の性格を″人間革命を第一義とし、社会の変革へ″と意義づけているのも、そのためです。

1
4