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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 ヒロシマの世界化  

「世界市民の対話」ノーマン・カズンズ(池田大作全集第14巻)

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5  未来に生きる青年たち
 池田 戦後四十年以上を経過して、「ヒロシマの世界化」ということは、古くて新しい問題だということを、私どもは痛感しております。
 創価学会は、青年部が中心になって「反戦出版集」全八十巻を刊行しました。そのなかで広島関係の本は七冊におよんでいます。こうした反戦出版の抄訳本として英語版、ドイツ語版、フランス語版、ルーマニア語版等が出版されています。
 また創価学会インタナショナルは、国連をはじめ北京やモスクワなど社会主義国をふくむ十六ヵ国二十五都市で「核兵器――現代世界の脅威」展も開催してまいりました。これは、原爆投下の惨状やその影響、核軍拡競争の危険性などを多角的にパネル展示で伝えるものですが、あわせて広島・長崎の被爆物品も展示し、大きな反響を得ました。それも私どもなりに「ヒロシマの世界化」の一助にしたいとの願いからでした。
 私たちは、若い世代へ誇りをもって残していける社会を築き、精神の財産を残していかねばなりません。
 それはそれとして、教授は初めて広島を訪問されてから十数年をへて、ふたたびこの地を訪れておられますね。
 カズンズ 十五年目の一九六四年に、ふたたび広島に飛びました。それも、かの爆弾が炸裂し、いわゆる原子力時代の幕が切って落とされることになった天空を通ってです。早朝の訪問でした。
 そのときの上空は同じであっても、まったく新しい都市を見おろしていました。地上の一帯でことに目に焼きついたのは、広い並木道が走っていることでした。あの旧広島県産業奨励館は保存されて、爆心地のシンボルになっているのが見え、空からもこれは変わっていないと、すぐにわかりました。
 しかし、その周辺はいずこも、明るく頑丈な造りの企業ビルが林立していました。大通りを入ったところには住宅がひしめき、闇市場ならぬ、公設市場の商店が密集しているのが見られました。それに広島の名が由来する伝説的な数本の川が、砂地に指を広げて刻印したように、市内に割り込んでいるのが見えるのは、最初の訪問のさいの第一印象と異なりませんでした。
 空港から車で市の中心部に向かう途中、市長の浜井氏が広島の今昔を種々語ってくれました。その話によると、ヒロシマの歴史的な意義とその立場についての自覚は、今なお市民の意識の中核をなしており、それが生活の底流にあるのは昔と変わらないけれども、この生活意識が市民を束縛することはもはやなくなった、ということでした。
 つまり、昔の古傷を見せたりする向きは、ずっと減りました。これは、市民たち個人にも、市当局についてもいえると思います。原爆体験もまた、人生体験と同様、冷静に受けとめるべき事柄、という向きのほうが強くなった、というのが同市長の分析だったわけです。ある意味では、こともなげなその受けとめ方は、一種の「風化」であろうか、とも思えたのですが‥‥。
 池田 それはむずかしい課題をはらんでおりますね。時の経過というものは、あらゆることを「風化」させてしまう。それを押しとどめるのはきわめて困難です。しかも戦争を知らない世代が過半数を占める時代を迎えては、なおさらでしょう。
 日本は経済のみの大国であってはならない。もっと世界の平和へ貢献する道があるはずです。ヒロシマを八月六日だけで終わらせるのではなく、日本人である私どもがヒロシマヘの思いを「風化」させないことが大切だと思います。
 その意味からも、私は次代をになう若い人向けに、戦争体験を織りこんだ短編小説『ヒロシマヘの旅』を書きました。ヒロシマは未来につづく課題だからです。
 そこで、ほかに何か強い印象はございましたか。
 カズンズ 市内に入り、大きな変化と思えたのは、主に人々の表情でした。どの人も、かつての痛苦の日々の記憶にとらわれているようには見えません。過去のくびきを引きずっているようにも、そのまま過去から抜けだしてきたような歩き方をしているとも思えませんでした。
 被爆以後の新しい世代の人たちが、成人に達していました。このように若い人たちが広島市民の大半近くになっているということが、町の性格と気風と将来をうらなうカギであるような感じがしてきました。
6  民衆の絶えざる応戦
 池田 よくわかります。ところで、八七年末のINF(中距離核戦力)全廃条約の調印によって戦後初めて米ソが実質的な核削減に合意した背景には、民衆の広範な反核運動が大きな影響力を発揮した面があります。とくにヨーロッパでは、政治を動かす要因になったことは広く認められております。
 最近の東欧情勢の激動を見てもわかるように、民衆のエネルギーが国を変え、時代を動かし、歴史を塗りかえております。
 その意味では、戦後初めて「民衆」が主役の時代を今、迎えている気がしてなりません。
 世界がこのまま一直線に変わるという楽観主義はいましめねばなりませんが、時代の変化は加速度を増しています。それだけにこの好機を生かしていくための、知恵と行動力とリーダーシップが要請されているといえるでしょう。
 今後の課題はヒロシマ、ナガサキを原点としつつ、いかにして若い世代にも連動させていくかということではないでしょうか。
 カズンズ まことにそのとおりです。
 原爆を広島に投下すべきであるとした、あの決定に投影されていたもの、それは主に「力の示威こそが対外政策では機能するのだ」という理念でした。これは、たんに理念というよりも、ほとんど信念に近く、確固たる信条だったとすら言わねばなりません。
 そうした信条にもとづく対外政策にひそむ種々の危険のタネは、相手国もまた同じ信条に固執するとき、まさに爆発します。
 もちろん、こういう人たちもいます。つまり、日本の都市に原爆投下の決定がなされたそもそもの端緒は、日本側の「パール・ハーバー攻撃」にあったと思えばいいのだ、と。
 その意味での報復や仇討ちがここでは正論であるとすれば、その場合は、東京を第一とする日本の他の都市部への空襲だけで事はたりたであろう、という反論が当然、できるはずです。すなわち、ヒロシマは埒外の沙汰だったのです。
 池田 つまり、投下しなくてもすんだはずの原爆を投下してしまう過ちにみちびいた対外政策の中心には、″力の示威″″力の論理″があるということですね。それは、今日までつづいている課題です。
 八九年十二月、マルタでおこなわれた米ソ首脳会談での冷戦の終結宣言に色濃く見られたものは、もはや「軍事力」に過度に依存する時代は終わりを迎えつつあるということです。
 私は今後、いちだんと軍縮が進むのではないかと予想しております。
 しかし、同時に核兵器の廃絶にはまだしばらく時間がかかると思います。
 たとえ戦略核兵器が半減されたとしても、人類絶滅の脅威は依然として残る。この現実をつねに直視する民衆の側からの絶えざる″応戦″こそ必要不可欠だと思っております。
 カズンズ 原爆が広島に投下されたときは、たんに一つの都市だけが破壊されたのでなく、それ以上のものが破壊されました。
 それは、社会の集団形態である民族国家が機能しうるという概念、それがあの日に破壊されました。
 国別の政府が、それ以前の歴史で果たしてきた機能、すなわち自国の市民に十分な保護と安全の保障を与えていく機能、ヒロシマ以後は、それを果たしていくにもいけなくなりました。
 池田 ヒロシマ以前とそれ以後との決定的な違いが、そこにあります。
 かつてアインシュタインは「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」(0・ネーサン、H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡2』金子敏男訳、みすず書一房)と述べました。
 今、要請されているのは、従来の安全保障の思考様式から脱却することです。
 カズンズ そうです。それは、各国家の手には負えなくなったわけです。もはや、その役割を果たしていける手段が国家にはなくなったのです。
 もともと国家の自己存命のための主要手段が、戦争だったのですから。しかし、核兵器が出現するにおよんでは、戦争という手段そのものが、交戦国同士の自殺手段、つまり変態的な心中行為と異ならない。
 ゆえに、核兵器時代が意味するのは、それこそ全人類の運命が、原始時代の状態に還元されたということでしょう。
 万人がこの運命にさらされています。少なくとも自己防衛という基本的な条件からすれば、そう言わざるをえないと思います。もはや、自己防衛ということが意味をなさない時代になっています。
 それでも「防衛」と言いたいなら、まさに「平和」のみしかありえません。ここにまた「ヒロシマの世界化」ということの、もう一つの面があると思います。
 池田 そこから結論的にみちびかれるものは、「世界不戦」ということです。時代の潮流は、まさにその一点を志向しております。
 核戦争に勝者はありえない。核時代の人類生存の絶対的条件とは、あらゆる戦争を否定することでなくてはなりません。たとえ核兵器を使用しない戦争であっても、それがいつ核戦争にエスカレートするかわからないのですから、「不戦」こそ人類が生き残るための不可欠の条件です。
 それを全世界の人々に訴えつづけていくことが、「ヒロシマの世界化」にほかならず、とくに二十世紀最後の十年は、流転を繰り返してきた歴史の大転換期に入ったと私は見ております。

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