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日蓮大聖人・池田大作

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九、世界の諸宗教の協力は可能か  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

前後
6  たしかに、これまで──あなたも挙げられているキリスト教や仏教などの──いわゆる高等宗教は、人間が相互に理解し合い、慈しみ合っていくよう“愛”や“慈悲”を教えました。それは、本来は、人種やイデオロギーの相違を超えて人間同士を結び合わせうる絆であったはずです。しかし、生命の内にある貪・瞋・癡を解消できなかったため、現実にはそうした結合の働きをしたことも稀にはあっても、多くは逆に他の宗教を信仰する人びとに対する憎しみや軽蔑の心を駆り立てたり、さらには、同じ宗教の中にあっても、些細な教義解釈や儀式作法の違いから、他教徒に対するより以上の憎悪を駆り立て、否、ときには他の生き物に対するより以上に生命軽視の行動を誘発したことも少なくありません。
 したがって、宗教者が繰り広げてきたこうした醜い歴史も、宗教の説いた“愛”や“慈悲”の理念に原因があるのではないことは明らかであり、その原因は、人間の内にある憎しみの心や貪欲、愚かさ自体にあるのです。もちろん「そうした人間の心の醜い側面を抑制できるのが宗教の力であるはずだ。ところが、それができなかったのは、宗教の無力を物語るのではないか」との反論は、当然、成り立ちうるでしょう。そして、まさに、そこに重要な問題があります。つまり、真実の宗教は、たんに“愛”や“慈悲”を説くだけではなく、人びとに“愛”や“慈悲”の心を起こさせ、生命の貪・瞋・癡を克服できるようにするものでなければなりません。そこに私が“人間革命の宗教”を強調するゆえんがあります。
 しかも、宗教の教えそれ自体が、一方的、他力的に人間の心の醜い面を抑える力をもっているのでなく、宗教の教えを通じて自己の内に確立された力が、その人自身の意思力と相まって、抑制の働きを表すのだということを忘れてはなりません。
 このことをしっかりと弁えたうえで、高等宗教──とくにいま申し上げた人間革命の宗教──が、いま再び、人類の心の中に浸透されなければならないと私は考えます。なぜなら、人びとに貪欲や憎悪・愚かさと対抗して、人間の相互理解と相互尊重への道を歩ませうるものは、この高等宗教を除いてはないと思われるからです。
7  とくに、今日においては、世界人類全体の規模で相互尊重の平和社会が実現される以外に、核兵器等による戦争を食い止め、人類を破滅の淵から救う道はありえないと考えます。そして、その人類全体の相互尊重の基盤として、この高等宗教の信仰が世界的に確立されることが、なんとしても必要であると私は信じています。
 宗教者は、安易な妥協をするのではなく、自らの正当性を堂々と主張すべきです。ただ、その場合、大切なことは、それを争いのための争いとするのでなく、たとえば争った場合、自分のほうが劣っているとわかれば、率直にすぐれている相手に従おうとする姿勢です。言うまでもなく、この争いは、あくまで言論という平和的手段によるのでなければなりません。また、その宗教の教義を正しく実践したことにより、現代社会がもたらしている危機を克服できることが、信仰している人びとの現実の姿によって示されなければなりません。
 こうした宗教本来の実践によって、個々の人間が危機的状況を克服するとともに、緊急の世界的課題に対しては、人類の一員として、その課題解決のために、宗教上の対立を超えて協力していくべきでしょう。私は、宗教的次元での独自性の主張と、世界市民としての次元での協調は、両立が可能であると考えています。

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