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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 哲学と世界  

「平和と人生と哲学を語る」H・A・キッシンジャー(全集102)

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13  「世界共同体」への可能性
 政治的な統合が先か、精神的な変革が先か
 池田 博士は、「世界は相互に関連のある部分である」という信条のもとに行動され、世界というものを地球的な視野に立って把握しようとされるリーダーの一人である、と私はかねがね思ってきました。私も、「世界市民」をモットーにし、普遍的視野に立ち、世界の平和に寄与することを念願する一人です。
 いわゆる「主権国家」間の健全な関係が、現代および今後の世界の安定の最も大きな要素であることは、間違いのない事実でしょう。
 なおかつこの中には、主権国家の利害の調整ということだけでは、すべてを解決できない時代に入っている、という事実も含まれております。そして今後とも、新たな国際秩序を模索、創出しようとする趨勢が増大していくことは、だれの目にも明らかではないでしょうか。
 このような状況を直視し、その視点から世界を眺望するとき、いわゆる「世界国家」なり、「世界共同体」なりへの構想が歴史のこれからの段階においては、やはり追求されてしかるべきではないか――こうした考察もいよいよ意味をもつようになってきているように思われます。
 もちろん賛否両論ありますし、その方向へ進むにしても曲折はさまざまありましょうが、その可能性についてはどのようにお考えでしょうか。
 そこで、もしそういったものを構想するには、当然、その具体的プロセスが大きな問題になります。かつてアーノルド・トインビー博士と対談した折、その過程に話がおよび、政治的な統合が先か、精神的な変革が先か、という点で論じあうことになりました。
 トインビー博士は、一時期、政治的統合が先で、過渡的な「世界帝国」が出現し、その後に高等宗教による精神変革を経て、世界共同体へ向かうと考えておられたようです。
 しかし今後の世界には過去のような世界帝国はもはや成立しないであろう、という点を博士の見解に加えられておりました。
 いずれにしても、「世界国家」であれ「世界共同体」であれ、それが成立するためには、世界宗教による精神の変革が不可欠の前提となる点においては一致しました。
 キッシンジャー 私はトインビー博士の考えに全面的に賛成するものではない、と申し上げなければなりません。
 第一に、世界共同体がよく話題になりますが、人類の歴史を俯瞰すると、有史数千年の中で、二十年間一度も戦争が起きなかった事例を見いだすことは、不可能とは言わないまでも、まことに稀有であります。
 したがって、歴史的にみれば、世界共同体というのは例外的な状態である、と言わねばなりません。それを実現するためには、優れた教育、それにまた精神の変革が必要であります。
 第二に、私の確信ですが、多数の政府が併存する場合よりも、単独の政府の場合のほうが、人間の苦しみが軽減されるというのは真実ではありません。たとえば、カンボジアにおいては、政府が殺戮した自国民の数は、十五年にわたる外国人との戦争で死んだ同胞の数よりも多いのです。クメール・ルージュはおそらくカンボジア人の四〇パーセントを殺害しました。
 この事実は、世界政府を樹立する前に、哲学的、精神的変革が必要であることを示しております。
 池田 ポイントです。この一点については、トインビー博士とも一時間、二時間と論じあいました。またトインビー博士がこの問題において東洋の仏教、なかんずく大乗仏教を志向していたことも事実です。
14  カントの平和論
 「国際法は自由な諸国家の連合の上に基礎を置くべきである」
 池田 この対談を終えるにあたり、やはり博士が「最も深く影響を受けた哲学者」と言われるカントについて、若干触れておきたいと思います。かのカントには、周知のように「恒久平和論」があり、またスピノザも「平和とは戦争の不在ではなく、心の強さから生ずる徳なのである」(『政治論』井上庄七訳、『世界の大思想9スピノザ』所収、河出書房新社)という思想を残しております。
 とともにスピノザの『エティカ』はまた、字義どおり倫理・宗教の書であり、人間いかに生きるべきか、を明晰に説かんとしたわけですが……。
 カントの平和論に関しては、私なりに感じていることがありますので、次に少々論じることにし、まずカントの哲学の、とくに何が博士に最も深い影響を与えたか、ということですが。
 キッシンジャー まずカントも私に大きな影響を与えました。読書をしていると、時折、読み終わった後に、こんなことはわかりきったことだ、自明の理だ、と思うことがあります。もちろん、読むまでは考えもしなかったのですが。
 カントについて興味ぶかく感じたことがあります。カント以前の哲学者たちは、数千年にわたって、実在の本質について議論を繰り返してきました。「実在とは何か」「因果とは何か」「どれがどの結果の原因なのか」等々と論じてきたのです。
 しかし、カントは、これらの範疇は必ずしも実在の属性ではなく、人間精神の属性であると喝破しました。
 つまり人間精神は、あるものごとをある範疇としてとらえるようにできていると。近代科学はすべてこのことを確認したのです。
 たとえば、エスキモー(イヌイット)の言語には、雪を表す言葉が十もあります。エスキモーは、十種類の雪を見分けているのです。しかし、西洋の私たちが見る雪は、たった一種類です。私たちには、雪はすべて同じに見えます。ですから、私はこの認識の理論という問題に啓発されるところが大きかったのです。
 池田 カントの哲学について言えば、とくに人間の知力を厳密に行使していく点など、私も教えられる点が多々ありました。
 なかでも、今世紀に入ってから有名になった著作『永遠平和の為に』は、示唆的でした。「草案」段階にとどまった小冊子であり、カントの思索の過程からすれば傍流であったにもかかわらず、そこには、今なお新しい教訓が含まれていると思います。
 その論著から私がくみとった特徴は、大別して、以下の三点に要約できると思う。
 第一に、カントは、人間同士あるいは国家間の自然な状態をとらえるのに、ロックのようにではなく、つまりそこに自然法の働いている状態としてではなく、ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」に近い、戦争状態として位置づけました。
 にもかかわらずカントは、そこから平和的秩序をつくりだしていくために、戦争等による力の行使を極力排し、契約にもとづく法の支配を説きました。
 これは、彼のフランス革命観などにも、はっきり表れております。急進的革命よりも、漸進的変革をとる彼の方法は、現代において、いっそう重要度を増してきていると思います。
 第二に、カントは、国際秩序のあり方を、国内の政治、社会体制のあり方と密接不可分なものと考えておりました。
 たとえば「国際法は自由な諸国家の連合の上に基礎を置くべきである」(『永遠平和のために』遠山義孝訳、『カント全集』14所収、岩波書店)という言葉に明らかなように、国際秩序といっても、国際契約による国家主権(現代の民族自決権にも通じてくるそれ)の確立ということが、はっきり位置づけられております。
 さらに、「国家連合」を形成するそれぞれの国家は、共和制でなければ「自由な諸国家」とは言えないとされており、その根底には、さまざまな隘路はあるにしても、民衆自身による意思決定の尊重、それへの信頼が横たわっております。
 カントの眼は、国際秩序のような大きな問題を考察するさいも、個々の人間、個々の民衆から離れていません。それはまた「共和制はその本性上、永遠平和に傾くべきはずのもの」という彼の言にも、よく表出されております。
 第三に、カントは、個々の共和国が連合して形成する「世界共和国の積極的理念」を強く主張していますが、より以上に、そこにいたる過程を重視しておりました。
 そして、好戦的な傾向を抑制しつつ法の支配に服せしめていくには、「持続的にしてかつ絶えず拡大する連盟の消極的代用物の理念が現れなければならない」と述べております。
 以上三点について、彼の思索のあとをたどってみると、現代における国際秩序、とくに世界連邦の理想などを遠望するにさいしても、非常に示唆されるところが多いのではないでしょうか。
 これらは、私の所感にすぎません。一方において、カントの啓蒙的理性主義が現代の目から見れば、やや楽観的にすぎることも、十分承知しております。
 しかしながら、なおかつ彼の平和論には、捨てがたい、何点かの貴重な示唆を見いだすことができると思うのであります。
 キッシンジャー 平和の問題について、カントに興味をそそられたことは、社会の価値観と世界平和の諸問題との関係性でした。カントの見解は、国家が定言命令の原理にしたがって行動しなければ、国際社会の平和を維持する一員として永続的に行動することはできない、というものです。
 したがって、カントは、国家は彼の言う共和制と、国内の道徳的秩序を必要とする、と考えたのです。

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