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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 生と死――はてしな…  

「科学と宗教」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
15  池田 日蓮大聖人は「一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」と、仏を希求する人の心それ自体に、内在している仏が現出してくることを説いています。
 すなわち、仏法を希求しゆく人間の実践によってこそ、仏の慈悲と智慧は、現実のこの世界に永遠に常住する。そして、人々を救い、導いていくことができる。
 実践の人があって初めて、法はその功力を顕現できる。ゆえに、仏法では「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」としております。
 ログノフ たしかに、どれほど高邁な教えでも、人がいて初めて弘まるものです。
 ―― ところで、“仏の生命”は永遠ということですが、個々の人間の生命はどうでしょうか。
 池田 だれもが永遠なる“仏の生命”を内蔵しているのですから、当然、私たちの生命そのものも永遠でなければなりません。
 『法華経』の「寿量品」に、「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出有ることなく」とあります。
 これは、本質的には「生」も「死」もなく、生命は無始無終の永遠なる存在であることを示しています。
 ログノフ 宇宙が「無始無終」であるように、生命も「無始無終」で永遠の存在ということですか。
 池田 そうです。この永遠の生命が「生」と「死」を繰り返すというあり方が、「本有の生死」なのです。
 日蓮大聖人は、「本有の生死とみれば無有生死なり」と述べられています。
 「本有の生死」、すなわち人間の「生」と「死」が、永遠の生命に本来的に具わっている“変化相”であるとわかれば、生死の苦しみにとらわれることはない。悠々と生死の二相を乗りきっていくことができる。
 ―― 仏法の真髄ですね。
16  池田 また、日蓮大聖人は“仏の智慧の眼を開けて見るならば、すべての人生の苦しみは、「本有の病痛」であると明らかになる”とも言われている。
 「本有の生死」「永遠なる生命」に根ざした生死流転に眼を開くとき、この世における苦しみといっても、すべてが「本有の劇」ととらえられる。いかなる宿業も苦難も、自身の生命を鍛え、不壊の幸福を築く発条と転じていける。
 「永遠なる生命」という舞台の上で、悲喜こもごもの人生の一幕、一幕を演じながら、「成仏」という自己完成の境涯をめざしていくのです。
 ログノフ なるほど。信仰というのは、人間の力を生みだしますね。
 池田 苦しみも悲しみもすべて喜びに変えて、人生を最高に価値あらしめていくことができる。『法華経』ではこの世界を“衆生の遊楽する所なり”と位置づけています。
 ログノフ 人間が“生きる”こと、“よく生きる”ことについての、含蓄の深い哲理であると思います。「クオリティ・オブ・ライフ(生の質)」についての関心が、社会的にもいちだんと高まっている現在、こうした仏法的な知見は、大きな光明を投げかけることでしょう。
 池田 つまるところ、人生とは何か――トルストイの次のような言葉を、私は思い起こします。
 「喜べ!喜べ!人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい」(小沼文彦訳編『人生の知恵トルストイの言葉』彌生書房)
 ログノフ すばらしい言葉です。
 池田 仏法は、現実から逃避した“哲学者”をつくるものではない。この現実の人生の“成功者”“幸福者”をつくるためにある。本来、科学の探究も信仰の求道も、この「宇宙」と「社会」と「人間」のすべてを“開かれた心”で見つめ、「喜び」の名曲を奏でゆくものです。
 ログノフ そうです。科学といい、宗教といっても、すべて人生の「喜び」を実現するためにあります。科学と宗教の共存、協力も、そうした目的観に立つとき、おのずと道が開かれるのではないでしょうか。

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