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第十章 壮大なる人類誕生のド…  

「科学と宗教」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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7  「宗教」の起源をめぐって
 ―― 歴史的にみて、脳の容積はどのように増えていったのでしょうか。
 ログノフ 人類の「進化」の過程は、脳の容積の増大に現れています。
 ホモ・ハビリスとは“器用なヒト”という意味です。彼らは旧石器の文化をもっていた。そして、ホモ・エレクトス(“直立したヒト”の意)になると、火を使用し、簡単な言葉も話せたようです。このホモ・エレクトスは、アフリカから全世界へ広がっています。
 ―― ジャワ原人、北京原人などがそうですね。
 池田 約十万年前のネアンデルタール人までくると、脳の大きさは現在の人間とほとんど変わりませんね。
 ログノフ 不思議なことに、初期のネアンデルタール人の頭骨は、後期のものより、むしろ私たちの頭骨と似ています。後期の様態は、その方向性における「進化」の行き止まりであったかもしれません。彼らはかなり短期間に消滅してしまいました。それは三万年ないし四万年前のことですが、いちばん最後のネアンデルタール人は、生きた時代が現在の人類の“種”とも重なっていたようです。
 ―― 現在のヒトを「新人」というのに対して、ネアンデルタール人は「旧人」と呼ばれますね。
 池田 ネアンデルタール人がホモ・サピエンス(“知恵あるヒト”の意)に属していたとされるのは、脳の大きさもさることながら、彼らが残した「文化」に、人間としての“精神性の曙光”をかいま見ることができるからだと思います。
 アメリカの人類学者ラルフ・S・ソレッキー博士の指導のもとに発掘された、ネアンデルタール人の遺跡からは、花で囲まれて埋葬された遺骨が発見されています。
 ログノフ その遺跡からは、多量の花粉が見つかっていますね。おそらく死者に花を捧げたのでしょう。また、ある墓には、遺体の周囲に動物の骨や火打ち石が置かれていました。これは、死者に対する儀式が行われていたことを物語っています。
 池田 人間の“自己意識”について、精神分析医のフロムは、「ヒトは自分自身に関して、その過去に関して、その未来、すなわち死に関して知っている。ヒトが他のあらゆる生物を超えているのは、自己自身を知っている最初の生命だからである」(『悪について』鈴木重吉訳、紀伊國屋書店)と述べています。
 自己を見つめる“自己意識”は、人間の基本的な特性の一つであり、それは同時に、未来に対する不安や恐怖、そして死の認識を、必然的にともなってきたはずです。ネアンデルタール人が死者への「儀礼」を行ったということは、彼らに“自己意識”の目覚めがあった証拠といえるでしょう。
 ―― ドイツの哲学者ハイデッガーは「人間とは死への存在である」と言っています。ひとたび大自然の猛威が襲いかかれば、集団全体が絶滅してしまいかねなかった当時において、「死」は、現代人が考えるよりも、さらに切迫したものだったでしょうね。
 池田 本能のままに生きる動物であれば、「死」を深く意識することはないかもしれない。しかし、“自己意識”に目覚めた彼らは、来るべき「死」を自覚していた。
 彼らは愛する肉親や仲間の「死」をとおして、自分自身の「生と死」に対しても、深遠な“まなざし”を注いでいたにちがいない。
 ログノフ また遺跡からは、他人の助けを借りなければ生きていけないような、腕のない老人の遺骨も発見されています。弱い者を守りながら、共同体として生活していたことが想像できます。
 池田 そうですね。“思いやり”や“憐れみ”といった感情も、彼らはもっていたのだと思います。そこには、倫理性・道徳性にも通じる“精神の光”を見いだすことができる。
 ―― こうした点については、私もかつて名誉会長の『生命を語る』を読んで、認識を新たにしたことを覚えております。彼らは「死」を、どのようにとらえていたのでしょうか。
 池田 先ほどのソレッキー博士は、発見した化石骨をもとに、ネアンデルタール人の女性を描いています。博士はそこに“Heavenwasnotunknown”という注釈をくわえている。つまり、彼らにとって「天とは未知なるものではなかった」(永井博『生命論の哲学的基礎』岩波書店)というのです。
 ログノフ ある考古学者は、彼らのそうした内面の深まりをさして、「ネアンデルタール人の頭蓋骨は、同じほど容易に、チンパンジーの容貌とも哲学者の人相ともいうことができる」と述べています。(笑い)
 ―― 文化人類学者のオットーは、あらゆる「宗教」がもつ“本質”を、「ヌミノーゼ」(dasNuminose、『聖なるもの』山谷省吾訳、岩波書店)と呼んでいます。この言葉は、「ヌーメン」という“超越的な力”をさすラテン語から作った新語です。
 オットーは、宗教史の始まりにおいて、すでに“超越的な宇宙的心情”ともいうべき、「ヌミノーゼ」の感情が表れていると指摘しています。
 池田 太古のネアンデルタール人も「生死」を見つめ、大自然や宇宙への畏敬、恐れ、魅了といった「ヌミノーゼ的心情」に満たされていたのではないでしょうか。
 人類の祖先は、「死」の直視を契機として“自己意識”に目覚めていった。そして、“個”の存在を超えゆく「超越的宇宙存在」、すなわち「宇宙生命」そのものに肉薄していくなかで、“宗教的心情”が芽生え、動物的生命を超えて、新たなる“創造と開拓の道”“人類への道”を歩んでいった。
 ログノフ ネアンデルタール人も、その「超越的宇宙存在」をとらえていたんですね。
 池田 素朴ではあるが、自己を超えた本源的なる「宇宙的存在」への志向性が、「ヌミノーゼ的心情」をともなって、「宗教」を創出していったのでしょう。その「宗教」を軸として「文化」が形成され、人類の「進化」が促進されていく――そこに人間のみが「宗教」をもつ根拠があり、人類の始まりとともに、「宗教」が存在した理由があるといえます。
 ―― 人類と動物との“決定的分岐点”となるのは、“宗教的感情”をもつか否かにあるということですね。
8  「レリジョン」と「宗教」
 ログノフ 「宗教」について申し上げれば、今世紀、わが国では社会主義政権のなかで、「宗教」は国家からまったく切り離されて、どちらかというと抑圧された状況でした。
 池田 ロシア正教会は、どういう状況だったのですか。
 ログノフ 国の指導者たちは、間違った判断をしていました。教会はそのうちなくなるだろうと思っていたのです。教会には主に年をとった人たちが通っていましたが、その人たちが亡くなると、次の世代の人たちが行くようになった。だから、人は変わっても、つねに教会に通う人はいたわけです。もちろん、若い人も行っていましたが。
 池田 日本では、こうしたことは、今まであまり知られていませんでした。
 ログノフ いずれにしても、教会は国家に対して忠誠の態度をとっていたわけです。教会がそうした態度をとったことに対する批判もありますが、私はそれは正しかったと思います。
 もしそうでなければ、もっと過酷な状況になっていたかもしれません。
 ―― 過酷な状況と言いますと。
 ログノフ もしも教会が正面切って戦いを挑んでいたら、絶滅させられていたかもしれません。
 ローマ時代のカタコンベのような地下教会もありました。そういうふうに教会は存続しながら、国民に助けの手を差しのべ、人々が良いことをするように呼びかけました。
 池田 なるほど、貴重な歴史の証言です。
 ログノフ そこでうかがいたいのは、ロシア正教の場合、「宗教」とはキリスト教一般の定義と同様、「神」との“再結合”をさします。
 しかし、「宗教の定義」が学者によって多種多様であるように、「宗教の本質」のとらえ方も千差万別ですが。
 池田 重要なポイントです。仏教とキリスト教では、「宗教」という言葉一つとってみても、大きな違いがあります。英語の「レリジョン」(religion)はラテン語の「レリギオ」(religio)に由来する言葉で、もともとは“強く結びつける”という意味です。
 紀元前一世紀のローマで活躍した哲学者キケロは、「レ」は“再び”の意味であり、「リギオン」は“拾う、読む”という意味の「レギレ」からできたとして、“再び読むこと”、つまり“再考すること”“吟味しなおすこと”という意義であるとしています。(川田熊太郎『文化と宗教』レグルス文庫を参照)
 ログノフ キリスト神学と結びつくと、それが「神」との“再結合”という意味になりました。
 池田 そうですね。“本来、神と結びついていた人間が、いったん神から離れて、再び、イエスを通じて神に結びつくこと”を意味すると考えられるようになりました。この解釈は、ローマ帝国末期のアウグスティヌスや中世の神学者トマス・アクィナスらにも支持され、キリスト教での正統とされていった。
 ログノフ ロシア正教でも、同様の解釈をしています。
 池田 東洋の「宗教」という言葉は、漢字では「宗」と「教」の二文字で書きます。漢字はいうまでもなく表意文字です。「宗」というのは“根本となるもの”という意味があり、根本として尊敬すべき法理・要諦をいいます。これに対して、「教」とは、この「宗」となる「法」を説きあらわすための表現・言葉です。
 ですから、人々に理解させ、導くための具体的な教えが「教」であり、「宗」に基づき「教」を展開するのが、「宗教」ということになります。
 ログノフ なるほど。「宗教」の概念も、東洋と西洋ではかなり違いますね。
 池田 中国の天台大師は『法華玄義』の中で、「宗」について、「法華経の『宗』というのは、すべての人々に仏となる因(仏因)と、仏として現れる果(仏果)が本来、具わっているということである」と述べています。すべての人間に“仏因・仏果”が内在していることを、「宗」とするのです。
 ログノフ それが根本になるということですか。
 池田 そうです。すべての人間に“内在”しつつ、同時に「永劫の過去」から「永遠の未来」へと、“個”を“超越”して、脈動している根源の“法”――その「久遠の法」を、法華経ではすべての変化相の奥底に見いだしています。仏法でいう「宗教」とは、まさしくこの「久遠の法」を根本として、展開される教えのことです。
 ログノフ なるほど。非常に明快ですね。
 池田 日蓮大聖人は「我が心の妙法蓮華経の一乗は十方の浄土に周徧しゅうへんしてくること無し」「此の心の一法より国土世間も出来する事なり」と、自身の生命に“内在”しつつ、十方の国土、宇宙へと広がりゆく根源の“一法”を説いています。この“内在”と“超越”を包摂した「久遠の法」から展開される法理は、「生命進化」「宇宙進化」の解明とともに、今後、大きく光が当てられていくものと思います。
 ―― 日本では、明治時代から西洋文明の輸入にともなって、「レリジョン」の訳語として「宗教」という言葉を使うようになりましたが、仏教本来の意味とは、かなり変わってきておりますね。
 池田 そうです。仏法における「宗教」という言葉のもつ、本来の意味を再発見していくことが、今後の「科学」と「宗教」の“対話”に、重要な示唆を与えうると私は考えています。

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