Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第八章 アインシュタインを超…  

「科学と宗教」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

前後
5  「成住壊空」と仏法の宇宙観
 池田 仏法の宇宙論では、いわゆる「成住壊空」というとらえ方が、一つの基盤になっています。宇宙、生命、その他一切のものの流転の方軌を、「成劫」「住劫」「壊劫」「空劫」の四つの段階に分けています。
 ログノフ それぞれの段階の宇宙は、どのような状態でしょうか。
 池田 龍樹の『大智度論』では、この現象界にまず、「器世間」(国土世間)が成立します。そして、そこにさまざまな有情(生物)が生まれて、「有情世間」(衆生世間)を形成していく時期を「成劫」とする。次に、この二つの「世間」が維持されていく段階を「住劫」といいます。その後、「壊劫」になると、「有情世間」「器世間」の順に壊滅していき、宇宙全体に溶け込んでいく時期を「空劫」というのです。そして、宇宙はこの成・住・壊・空を繰り返して、尽きることがない。
 ―― そうしますと、宇宙が膨張しているときは「成」「住」の時期、収縮していくのは「住」から「壊」の時期にあたるのですか。
 池田 そのようにもとらえられますね。とすれば、「空劫」の段階は、物質的エネルギーが充満した状態、そのエネルギーが次の「成劫」にいたって、クォークとか素粒子などの物質生成へと転じていく……。
 ログノフ 私どもの理論でいえば、宇宙が収縮する過程の最後に現出する最高の密度、物質が生成される高エネルギーの状態を経て、宇宙はふたたび膨張を始めます。
 ―― 「成住壊空」のサイクルは、どのくらいの時間と考えられているのでしょうか。
 池田 「成住壊空」の一つのサイクルを「一大劫」。「成」「住」「壊」「空」のそれぞれを「一中劫」。そして、「一中劫」は二十の「小劫」からなるとします。
 「一小劫」の長さを表したものとして、『大智度論』に次のような譬喩があります。
 「芥子(からし菜の種)」というたいへん微細な種子を、一由旬四方――七キロ四方くらいでしょうか――の大きな城に満杯にして、百年に一度だけ、一粒の芥子を取り出す。そうして芥子が全部なくなっても、まだ終わらないほど長い時間とされています。
 ―― 「成」「住」「壊」「空」のそれぞれの長さとされる「一中劫」はその二十倍。「一大劫」はさらにその四倍になりますね。
 ログノフ おもしろい譬えです。
 池田 また、『倶舎論』などには、仏法の宇宙観の広がりが、「三千大千世界」として端的に述べられています。須弥山を中心に、太陽や月などを含んだ範囲を「一世界」とします。これは一つの太陽系と考えられます。この「一世界」が千個集まって「小千世界」になります。
 ―― すると、これは数は別として、考え方としては、銀河系くらいの世界にあたるのでしょうか。
 池田 そうですね。さらに「小千世界」が一千個集まって「中千世界」、「中千世界」が一千個集まって「大千世界」となります。これは超大銀河ともいうべきものでしょう。この「大千世界」を「三千大千世界」ともいいます。
 ログノフ 一千の三乗だと……十億個の太陽系ということですか。
 池田 「吾が今化する所の百億の須弥・百億の日月・一一の須弥に四天下有り……」と、多くの世界があることを説いている仏典(仁王経)もあります。
 当然、細かい数値は、現代の科学と違いもあるでしょう。大事なことは、数限りない星々や銀河系からなる宇宙の広がりを、階層的に仏法ではとらえていたということです。
 ログノフ 中世ヨーロッパでは、十六世紀のコペルニクスが現れるまで、地球を宇宙の中心と考えてきました。
 それに対して仏教では、人間が住むこの地球をも相対化した壮大な宇宙観が、すでに紀元前に説かれていたとすれば、驚くべきことです。
6  池田 無限の広がりのなかで、「成住壊空」という永遠の生死のリズムを奏でる大宇宙――その深遠さに思いをはせるとき、私たち人間の存在はあまりにも小さく、はかない。
 こうしたはるかな宇宙の出来事は、人間世界と直接にはかかわりなく見えます。しかし、現実には、宇宙を離れて人類の歴史を語ることはできない。もしできるというのなら、それは人間の傲慢です。
 ―― アインシュタインは哲学的思索の果てに、「宇宙的宗教感情」を志向していきましたね。
 池田 人間生命という壮大な内なる世界を探究しぬいた仏法においては、現代の科学の知見と合致する世界観・宇宙観が展開されている。私の恩師は、「宇宙も生命も、ともに永遠なるものである」「宇宙自体が生命そのものである」と、よく言っていました。
 ―― 人間と宇宙との深い関連を、仏法は説いていますが、そこには科学と哲学の新しい「知」の方向性への、大きな示唆が含まれているように思います。
 ログノフ それは多くの科学者が、いだいている考えでもあります。
 池田 さらに、『法華経』の「如来寿量品」においては、“五百塵点劫の譬え”によって、仏の生命の永遠性が劇的に説かれています。
 ログノフ それはどのような譬えですか。
 池田 「五百千万億那由佗阿僧祇」という、天文学的な数の「三千大千世界」を粉々にして、東のほうへ五百千万億那由佗阿僧祇の国土の過ぎるごとにその塵を一粒ずつ落とし続けていって、すべての塵がなくなるまで過ぎ去ったあと、今度は塵を落とした国土も、落とさなかった国土も合わせて微塵とします。
 仏が成仏して以来、その一塵を一劫とした時間、すなわち、すべての塵の数だけの劫、無量無辺五百千万億那由佗阿僧祇劫が経っているというのです。
 ―― これは仏法の生命観ですね。
 池田 これほどまでに徹底して仏の生命の長遠さを譬えているのは、有限性の世界観を打ち破り、さらに生命の永遠性と、「久遠」にして「無始無終」なる宇宙観を、仏法が確立しているからです。
 ログノフ 宇宙のはるかなる広がりと、悠久の時の流れは、宇宙の片隅の地球の上で、人間同士が争い合うことが、あまりにも愚かなことを教えています。
 池田 そのとおりです。私たちは同じ宇宙の中に生き、地球家族として生きなければならない運命にある。“開かれた宇宙観”には、“開かれた人間観”と“開かれた哲学”が求められているのではないでしょうか。

1
5