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第五章 光と鏡と「量子」の不…  

「科学と宗教」アナトーリ・A・ログノフ(池田大作全集第7巻)

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9  量子力学の描く「ミクロの世界」
 ―― それにしても、光が「波」であり、かつ「粒子」であるとは、科学者は困ったでしょうね。
 ログノフ ええ。しかし、これは光に限りません。フランスのド・ブロイは、光および自然界のすべての物質は、波動性および粒子性を、同時にもつにちがいないという考えを提起しました。
 池田 これはどういう実験で確認されましたか。
 ログノフ 一例をあげれば、先ほどのヤングのスリットの実験で、「粒子」である電子を使った場合でも、スクリーンには縞模様ができます。奇妙なことに、電子が二つのスリットを同時に通って、「波」のように“干渉”を起こすのです。
 池田 電子のように「粒」であり、「波」でもあるというのは、いったい、どういうことなんでしょうか。
 ログノフ 古典物理学の概念から説明しようとすると、完全に行き詰まってしまいます。
 量子力学では、その実体が何であるかは、ひとまず問題にしません。それよりも、何が実験的に首尾一貫してわかるかを問題にします。そのために持ち込まれたのが「状態」という概念です。
 池田 なるほど、なるほど……。
 ログノフ 量子力学では「数学」という道具を使って、その「状態」を表します。少々専門的になりますが、シュレーディンガーは状態の時間的変化をとらえ、ハイゼンベルクは同じことを、違った立場から表現しています。
 池田 実体としてはとらえられないけれども、その「状態」はきちんと表現できるということですか。
 ログノフ そのとおりです。
 「状態」についての解釈はさまざまあります。現在、最も標準的な解釈では、「状態」を数値に表現したものは、「確率」を表しているとしています。
 ―― 現代物理は「数学」になってしまったといわれるのも、うなずけますね。
 ログノフ ミクロの世界では、実際の現象に、古典的な意味の因果律は成り立ちません。しかし、実際の現象とは直接的に関係のない「抽象的な状態」という概念を導入することによって、ミクロの世界の因果律が正確に表現できるのです。
 量子力学への移行とは、ミクロ世界の抽象的な記述への大いなる飛躍です。それは数多くの実験的な事実によって完全に裏づけられ、私たちの自然認識を豊かにしてくれています。
 池田 先ほども紹介したイギリスのホイル博士は、「大きな辞書一冊の言葉をマスターしていれば、非常に多くのことがらを明快に表現できる。“詩”の大家にもなれる。それと同じように数字を駆使することによって、多くを表現できます」と、数学のおもしろさを語っていました。
 宇宙の真理に迫るうえで、数学は量子の世界のような、人間のイメージを超えた状態も、表現できるということですね。
 ログノフ さらに確認されたことは、ミクロの世界では、観測することによって、そのもの自体の状態が変わってしまうのです。
 ―― と言いますと……。
 ログノフ 普通、私たちが物を“見る”というのは、対象に当たった光の反射を、視覚がとらえることです。そこでは、対象と観測する主体とは、まったく別の存在です。
 しかし、ミクロの世界では事情は異なります。電子の位置を測ろうとして光子(光の粒子)をぶつけると、電子は光子にはじき飛ばされ、前とは別の運動状態になります。
 池田 観測すること自体が、対象そのものの姿を変えてしまうのですね。
 ログノフ ええ。物理的にいうと、観測者は電子の位置と運動の様子を、同時に知ることはできないのです。
 池田 それが「不確定性原理」ですか。
 ログノフ そのとおりです。電子そのものにまったく影響を与えず、観測することは不可能です。言い換えると、観測するしないに関係なく、客観的に存在するはずの電子の本来の姿を、知ることはできないということです。
 主体と客体の独立を前提とする、デカルト以来の科学の方法が成り立たないのです。
 池田 きわめて哲学的な問題にかかわってくるということですね。量子力学の登場は、ミクロの世界における実在性への疑問であり、このことは、私たちの住むこの宇宙や自然さえも、素朴な客観的実在と考えることを許さない、思想的な問題をも含んでいます。
10  万物の実相を解く「円融三諦論」
 池田 この量子力学の描くミクロの世界の様相と、先ほどもふれた仏法に説かれる「円融三諦論」との、物質的側面での“類似性”に、私は着目したい。
 ―― 「三諦論」ですか。
 池田 中国の天台が法華経にもとづいて体系化した「円融三諦論」は、“観念観法”を主軸として、人間自身を含む万物の実相を洞察した仏法哲理の一つです。
 一方、量子力学は観測によって現象を把握し、「抽象的な状態」の概念によって表現しえた、ミクロ世界の法則といえるでしょう。
 対象に迫る方法論はまったく違っていても、そこに浮かび上がる「万物の様相」には重なり合うものがあるように思われます。
 ログノフ それはおもしろい。量子力学と仏法哲理に“類似性”が見いだせるならば、私にとっても、きわめてすばらしい発見です。
 池田 天台が「円融三諦」という万物の有り様についての思惟を導き出した“観念観法”のなかに、「三観」という認識法があります。つまり、万物の実相を「三観」という方法によって、洞察しようとしたのです。「三観」というのは、“空観”“仮観”“中観”という三つの側面からの認識の仕方です。
 まず“仮観”ですが、私はこの見方を、量子力学の方法論と比べてみたとき、物理学的な「観測」にあたるのではないかと思うのです。「観測」の方法に応じて、素粒子はこの大宇宙の物質場から、あるときは「粒子」として出現したり、またあるときは「波動」として現象面での姿を見せる。
 しかし、それは「観測」の方法によって左右される以上、当体そのものの姿とは異なる。これは万物が因と縁との和合によって仮に成り立っているとみる“仮観”に通じる。
 ログノフ それでは、「抽象的な状態」や「波動方程式」といったものは、仏法からみると……。
 池田 ミクロの世界では、実体そのものはわからないが、そこにそなわる抽象的な「状態」や「性質」は、シュレーディンガーやハイゼンベルクの方程式によって正しく表せます。
 “空観”とは物事に固定的な実体はないとして、万物をつらぬく性分を見ていくものですが、これらの方程式は、その「空諦」の一分にあたるのではないか……。
 そして、現象とそれをつらぬく普遍の理――その両方を統合しつつ、物事の本質へと迫る探究の姿勢が“中観”に相当するといえます。この「三観」「三諦」は、存在と認識の一体性を的確にとらえつつ、人間と宇宙をつらぬく万法の当体を把握しゆく、ダイナミックな哲学だと思います。
 ログノフ たいへんに興味がわくお話です。
 池田 西洋においては、科学と宗教は長い間対立してきた歴史があります。大乗仏教という東洋の英知との出合いは、科学と宗教が協力しあう大いなる土壌を作っていくと、私は確信しております。

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