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日蓮大聖人・池田大作

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不渡余行法華経の本迹 本因下種の妙法を直ちに修行

「百六箇抄」講義

前後
13  諸仏は久遠の本仏から生じた影
 次に、本抄の文は「久遠は本・今日は迹なり」と続いております。これは表題に掲げられた「下種の今此三界の主」たる日蓮大聖人の生命を「本」と「迹」とに立て分けられているところです。すなわち、久遠元初の自受用報身如来が「本」であるのに対して、3000年前に出現したインド応誕の釈迦仏は「迹」であるということであります。
 ここにおける「本」と「迹」の関係は、従本垂迹であります。つまり、インド応誕の今日の仏は、久遠元初の自受用報身如来から出生した影の仏であるということです。更にいえば、久遠元初の自受用報身如来を「体」とすれば、今日の釈迦は「用」となるのであります。
 否、単に今日の釈迦のみならず、五百塵点劫本果第一番成道道の釈迦をはじめ三世十方の諸仏すべてが、久遠元初の自受用報身如来の「用」の仏となるのであります。
 日寛上人は、この関係を「当流行事抄」において、玄文第意七の「三世乃ち殊なれども毘廬遮那一本異らず。百千枝葉同じく一根に趣くが如し」の文を引いて「若し文底の意は久遠元初を以て本地と為す。故に唯一仏のみにして余仏無し、何となれば本地自受用身は天の一月の如く木の一根の如し、故に余仏無し、当に知るべし余仏は皆是れ自受用の垂迹なり」と、明快に論じられている。
 更に「横に十方に徧し竪に三世に亘り微塵の衆生を利益したもう垂迹化他の功、皆同じく久遠元初の一仏一法の本地に帰趣するなり」ともいわれています。
 すなわち日蓮大聖人は、あらゆる仏の本種である南無妙法蓮華経を所持された根源の御本仏ということであります。
 しかも、日蓮大聖人は、あらゆる仏を出生させた根源仏であるが故に、もはや脱益本果の釈迦仏のごとく、我が身を飾り、色相を荘厳する必要はないのであります。
14  凡夫の姿で人々を救う末法の仏
 後の文である「三世常住の日蓮は名字の理生なり」とは、まさに、諸仏能生の根源法たる久遠元初自受用身即日蓮大聖人が我が身を飾らず、ありのままの凡夫として、一切衆女を救われているところであります。
 「三世常住の日蓮」とは、御本仏・日蓮大聖人こそ、久遠元初の自受用報身如来であり、三世にわたって常住する根源の仏であるということです。
 これを生命論で述べるならば、宇宙と生命の根源・南無妙法蓮華経の一法が無始無終に躍動し、その力用を、生きとし生けるものすべてに及ぼしていることを表しているのでありあす。したがって、私たちが妙法を唱えつつ、苦楽の交差のなかで生活している今ここに妙法の慈悲と智慧の力用は脈々とあらわれているのであります。
 まさに、如々として来たっているか、三世常住の南無妙法蓮華経の如来なのです。
 この如来が、700年前に日蓮大聖人と顕現され、名字即極のお姿のまま、暗闇の末法の悩みに打ち沈む衆生を救済された。そのお姿こそ「名字の利生」になるのであります。
 そして、今日において、私たちが妙法即御本尊に題目を唱えたとき、凡夫そのままの我が生命の奥底から、宇宙生命がふつふつと湧き上がり、我が身即南無妙法蓮華経如来とあらわれたとき、その瞬間、日蓮大聖人の「名字の利生」の功徳に浴したことになるのであります。
 もったいないことに、私たちは日夜、御本尊を縁として、三世常住におわします日蓮大聖人の「名字の利生」にあずかっているのであります。今度は、私たちが妙法即御本尊を根底に、名字即の凡夫の姿のままで、人々を利益し、救っていくことが、私たちの「名字の利生」になっていく、それはすなわち、三世常住の日蓮大聖人の御生命を一切衆生に継がしめる崇高な活動なのであります。
 私たちは今日もまた、日蓮大聖人の「名字の利生」を担うため、輝ける地涌の菩薩の使命をはたしゆくことを、ともどもに誓い合おうではありませんか。

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