Nichiren・Ikeda
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久遠従果向因の本迹
本仏の本因の振る舞いを判別
「百六箇抄」講義
前後
5 従果向因を実践した戸田前会長
ところで日蓮大聖人の従果向因の行き方を現代において、ありのままに実践されたのが、恩師戸田先生の悟達であったといえるのでありましょう。
戸田先生は当時興隆しつつあった仏教学の経典の捉え方を、十分に知っておられながらも、決してこの学問の研究方法によられなかったのであります。それは、仏教を歴史的、発展的に捉えていく従因至果的な仏教学の行き方によっては決して真髄を捉えられないことを見抜かれていたからであります。
戸田先生はあくまで、日蓮大聖人の御書にのっとり、大御本尊への唱題の行を持続させながら、久遠の仏法によって法華経を読みきられたのであります。まさにあの「仏とは生命である」との悟達は、この従果向因の行き方から生まれたのであります。
そしてその悟達をもとに、法華経並びに一切の経典を生命論の立場から捉え直され、仏教を現代的に開く画期的な展開をされたのもまた、従果向因であります。ここに未曾有の創価仏法運動の原点があったことは、もはや申すまでもありません。
今日まで世界の多くの人々が幸福を語り、平和を語り、勇気や希望を語ってきた。しかしながら、はたしてそれらの言葉のなかに、生命の奥に光る真実の悟達があったであろうか。否、それらはことごとく無明の闇に閉ざされ、迷いの暗雲に覆われた力弱い哀音にすぎなかったといえる。
所詮は、悟達からほとばしりでる従果向因の発言ではない。絶えず九界の迷いのなかに浮沈するうたかたのごときものであった。まさにそれは、なんらかの方向性をももたず流れに漂う、悟達の主人なき船にたとえることができる。
それに対しいて私たちの哲学には、その淵源なる末法御本仏・日蓮大聖人の悟達がある。すなわち、創価学会の仏法運動が、地道な道程を歩みながらも力強き建設の足音を高く前進しているのは、ひとえに従果向因の革命的な運動であったからであります。
6 また、今度は私たちの信心と実践に展開するならば、私たちの日々の勤行・唱題は、一往は九界から仏界に至るための修行であり、従因至果といえます。しかし再往考えるならば、それ自体が即仏界であり、社会・生活への妙法の湧現活動になっていく。これ、従果向因であります。
また私たちの勤行・唱題において御本尊に帰していく、すなわち妙法に帰していく姿は、従因至果であります。しかし同時に、因果俱時に仏界を湧現して妙法の智慧に命いていく姿は、従果向因といえるでありましょう。
すなわち帰命の二字のなかに従因至果・従果向因の二方向が同時に包含されているところに、日蓮大聖人の仏法の卓越性があるのであります。
ともかく、毎日の御本尊に唱題し、学会の諸活動に邁進している事実自体、内証は日蓮大聖人の本眷属たる地涌の菩薩としての久遠元初の本地に住しているのであり、その元初の本地から、外用の振る舞いとして民衆救済の活動を展開していくのであると捉えて、久遠の流れに棹さして前進していきたいものであります。それが「久遠従果向因」を身で読みきっていく実践なのであります。