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日蓮大聖人・池田大作

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久遠実成直体の本迹 久遠成道の生命を本迹に立て分ける

「百六箇抄」講義

前後
8  直に唱える題目で元初の生命開く
 「持つ処」の“処”とは、凡夫の生命がそのまま妙法の体であることを表すが故に「直躰の本尊」となるのであります。
 したがって、凡夫の私たちが題目を“直”に唱えるということは、自身の生命を、つねに「本」へ「本」へと回転せしめる原動力となっているのであります。
 「直に」とは間に雑物を入れないこと、純粋、強盛な信心で御本尊に直結していく姿勢をいわれている。この「直に」の姿勢が大切なことは改めて論ずるまでもないでしょう。
 傅大士の釈にいわく「朝朝・仏と共に起き夕夕仏と共に臥し、時時に成道し、時時に顕本す」と。
 御義口伝に「第四与如来共宿の事」において引用された余りにも有名な文であります。
 仏とは、いうまでもなく御本尊であり、同時に私たちの奥底より“如々として来る”元初の生命であります。
 それ故、妙法を唱える私たちは、朝になれば元初の生命とともに起き、夜になれば元初の生命とともに床に臥すのであります。すなわち、私たちが行住坐臥と振る舞う一挙手一投足に、久遠元初の生命に脈打っているということであります。
 どんなに苦悩の限界にあるときも、また行き詰まっての働きのとれないようなときにも、私たちの直下に元初の生命は如々として来っているからであります。
 仏法の肝要は、この妙法の直躰を開くか否かの問題しかない。
 「開とは信心の異名」とある通り、御本尊に向かって“直に”題目を唱えるとき、そのまま元初の生命が開かれるのであります。
 それは同時に苦海を克服し、行き詰まりを打開する雄々しい生命力と智慧が湧き出ずることを意味しているのであります。これまさに「時時に成道」の姿であり「時時に顕本」の姿なのであります。
 「時時に顕本」とは、私たちが題目を唱えるたびごとに、凡夫としてのこの生命に、その本地たる南無妙法蓮華経如来を顕現することであり、直躰の本門を開顕することであります。
 「時時に成道」とは、私たちが題目を唱えるたびごとに、久遠本果の成道を果たしていくということであります。
 ともかく、行動・実践・振る舞いという外面にあらわれた姿を「迹」、その内側にあって、無始無終の常住に本有の妙法を「本」として立てわけられたのであるが「久遠本果成道の本迹」なのであります。
 この観点に立てば、先にふれたごとく、仏といっても、その振る舞い、行動は、全く凡夫のそれと異なるものではない。否、外面からみるかぎり、凡夫そのものの振る舞いなのであります。
9  妙法に生きぬく中に自在の境涯
 末法の御本仏・日蓮大聖人も、食事をされたり、歩かれたり、横になられたり、などの所作は、全くありのままの凡夫の振る舞いと、なんら変わるものではない。この外面の姿だけを見れば「迹」でありますが、そこに、即南無妙法蓮華経如来、御本仏の大生命が貫かれていたのであります。
 「諸法実相抄」にもいわれているが「日蓮をこそ・にくむとも内証には・いかが及ばん」と日本国の上下万民から迫害されている凡夫僧としてのお姿は“迹”であり、この内証の御本仏としての御境涯は見抜くこともできないし、いかなる権力をもってしても如何ともできない金剛不壊の境地であることを吐露されているのであります。
 総じて私たちも、生死流転の姿は免れない。笑うときもあれば、泣くときもあろう。その次元では人間は全て同じであるといってよい。
 しかし、妙法を受持しない他の人々は、その次元、立場にとどまり、胸中にある常住の妙法を開く鍵を持たないのであります。その結果は、波浪に呑み込まれて、木の葉のごとく翻弄される人生を歩む以外にない。
 それに対して、私たちは同じ凡夫であっても、胸中に妙法をたもち、日蓮大聖人の御命を抱いているのであります。
 この大地に根を下ろした盤石の根の上に、常識人、社会人としての振る舞いをまっとういているのが私たちなのであります。
 体外の人々と体内の私たちの間には、同じ人間凡夫としての外面の姿は同じです。そのよって立つ基盤が全く異なることを私たちは深く認識したいものであります。
 再び「総勘文抄」の文を引用すれば「一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為しふるまいとふるまう行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う」とあります。
 これは、妙法に生き抜く私たちの作々発々と振る舞うところ以外に、真実の自在の境地、生命の根源の自由、したがって、真の人間尊厳の現実はないという御教示であります。
 妙法に生きる私たちの行住坐臥は、こんこんと湧き出る元初の生命に照らされて「過も無く障りも無き」自由自在の境涯になっていくのであります。自在な振る舞い。それは決して外なる条件をいかに変革しようとしても、得られるものではない。己が生命の内から本然と発する無作三身如来の躍動により顕現するものなのであります。
 また「一切の法は皆是れ仏法なりと知る」とは、名字即のことであります。それはまた、単に観念で知るということではなく、受持即観心であり、大御本尊を信受し、題目を唱えることによってのみ開かれる生命自体の智慧であります。
 そのときのわが身は、日蓮大聖人即御本尊と境智冥合して行住坐臥の振る舞い、ことごとくが、大宇宙のリズムと合致した、真実の自由の境涯、自在な境地になるとの仰せであります。
 私たちは、この自身の生命の宝庫、「直躰の本門」を常に開くことができる己が福運に目覚め、誇りを持ち続けたいものであります。いかなる障魔が競いおころうとも、いかなる悪口、罵詈にあおうとも“内証にはいかんが及ばん”との決意も固く、不退・不動の信心を貫き通していただきたいことを、切に望むものであります。

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