Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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久遠元初直行の本迹 久遠即末法の原理を展開

「百六箇抄」講義

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4  革命的な凡夫即極の思想
 では、いったいどうして本果妙の仏は余行に渡るのでありましょうか。なぜ、久遠元初の妙法を直ちに衆生に示すことができないのでありましょうか。
 一つには、凡夫名字即のままで仏となる妙法を説くには、大難が競い起こることが必定であり、本果妙の仏には大難に打ち勝つ力と資格に欠けていたからであるというべきでありましょう。
 それ故、釈迦にせよ、天台にせよ、自らを高く持して、深遠な法は、あくまで奥にひそませている形をとらざるを得なかった。そして、民衆に渇仰の心を起こさせて衆生を導く以外になかったのであります。
 また、民衆こそ本当の仏であると宣言するには、いまだ、時代、社会が許さなかったといえるかもしれない。内にはそれを知っていたとしても時代性、民衆の機、歴史の推移の上から、やがて末法に出現するであろう御本仏に一切を託しつつ間接的な説き方にとどめたのでありましょう。これに対し、大聖人は末法万年にわたる崩れざる大法としての民衆こそ、凡夫こそ、本仏であると、我が身に大難がふりかかるにも顧みず、宣言されたのであります。「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」と「諸法実相抄」で明らかにされた通りであります。
 本果の仏と本因の仏との相違は、まさに「教弥実なれば位弥よ下く、教弥よ厳なれば位弥よ高し」の言葉に要約されております。
 その教が深く真実を究めれば究めるほど、その法を説く人は、自らを民衆の大地に置いていくのであります。逆に経が権であれば虚栄虚飾で自分を高く見せなければならないというのであります。
 その意味で、御自身凡夫位のままにおいて、凡夫こそ本仏なり、と宣言された日蓮大聖人の仏法は、それまでの宗教の考え方を転換した宗教革命であるとともに、この革命を生き抜かれた大聖人の生涯こそ壮大なる宗教の逆転劇であったと申し上げてもよかろうと思うのであります。
 「久遠釈尊の口唱を日蓮直に唱うるなり」の文は「久遠即末法」「久末一同」を表されたものであり、まさに日蓮大聖人の仏法の革命性、本源性を余すところがありません。
 「直に」とは「即」と同義であります。「今」とは末法であり、したがってこの文の意は久遠即末法ということであり、日蓮大聖人は、久遠元初の妙法の直体であられる、ことを意味します。それは正像末と次第に教法の移りゆく夕日の如き、宗教ではない。あたかも、元初の太陽の生命をはらんだ黎明として御本尊の出現があったのであります。
 この大聖人の仏法の本義に立てば、ただ今が久遠元初であります。この瞬間瞬間の生命以外に南無妙法蓮華経という大仏法はないのであります。
5  妙法広布に戦う現在こそ久遠元初
 久遠元初とは歴史的過去ではない。遠きかなたのことでもない。この瞬間に永遠を凝結させている、大海のごとき大生命そのものであり、満々たる力と息吹をたたえているものであります。「御義口伝」にいわく「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」とあります。久遠は通常「時の無窮なこと」「遠い昔」「永遠」というように理解されております。
 しかし、日蓮大聖人の仏法の眼からみるならば、久遠とは時間的な意味も含めて、大宇宙の本源、生命の根源の意義にまで及ぶのであります。無作本有常住の生命、無始無終の生命であり、久遠元初自受用報身如来の御生命を指すのであります。同じく「御義口伝」に「久遠とは南無妙法蓮華経なり」とあるごとく、久遠元初とは、一言にしていうならば南無妙法蓮華経それ自体であります。
 さらに南無妙法蓮華経と唱うる私達の生命もまた久遠元初を開いているというべきでありあす。
 故に、私達が常に御本尊を受持し広布のために戦うことこそ自体が、久遠の仏法兄弟の姿となっていくのであります。この元初の生命に綴られた尊い歴史というものは、永遠に消えることなき信心の元初の経典として輝いていくに違いありません。私達は今こそ、元初の朝の日の出を迎えている信行学の日々と銘記したい。

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