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日蓮大聖人・池田大作

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牧口先生の御書 確固不動の「人格の背骨」を作れ!

2005.10.13 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
3  「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり
 この有名な一節に、牧口先生は朱線を引かれ、さらに、ページの余白には、「勝負」「賞罰」と赤ペンで強く書き込まれている。
 また、「瞋恚しんには善悪に通ずる者なり」の上には、「公瞋と私瞋か」と記された。「瞋恚」とは怒りである。
 「大慢のものは敵に随う」の上には、「大慢敵にしたがふ」と、御文を確かめるように書き込んでおられる。
 「公のため」「国のため」とうそぶき、実体は「私利私欲」を貪り、敵となっていく「大慢」の連中に、激怒した先生であられた。
 そして現実に、正義の行動を起こし、無理解の非難中傷のなかで、尊き殉教の生涯を終えられたのである。
 その遺志を継いだ戸田先生は、仏敵に対して阿修羅の如く反撃された。
 戸田先生のもとで薫陶を受けた私もまた、健気な学会員を苦しめる輩を、絶対に許さなかった。
 キューバ独立の父ホセ・マルティは訴えた。
 「(正義に)対立する新聞には、(正義を)擁護する新聞を。敵対する書籍には、正義の書籍を。慎重に、かつ鋭く、すべて攻撃的な言葉で応戦するのだ。敵が攻めてくる可能性があるならば、どこであれ、常に戦いの旗印を掲げなければならない」(Nuevas cartas de Nueva York, Siglo veintiuno editores)
 勝ってこそ正義だ。大悪と戦ってこそ大善である。
 大いなる理想のために戦った先人は、皆、その冷厳なる事実を命に刻んでいる。
 ましてや創価の言論には、大聖人がそうであられたように、極悪に対する一片の妥協もあってはならない。
 文豪・魯迅は、狡猾な悪人を激しく追撃した。譬喩的に、こうも書いている。
 「まず水のなかへ打ち落とし、さらに追いかけて打つべきである。もし自分で水へ落ちたにしても、追い打ちしていっこう差支えない」(『「フェアプレイ」はまだ早い』、竹内好訳、『魯迅全集』3所収、筑摩書房)と。
 責められると改悛したふりをし、許せばまた民衆を裏切って悪事を働く……そんな悪党を、魯迅はペンの剣で斬りまくった。牧口先生が言われた"公瞋"にも通ずる正義の怒りは、私もよくわかる。
 今の日本社会でも、嫉妬の中傷が、いかに横行していることか! 怨嫉の毒をまき散らす輩に、いかに庶民が苦しめられていることか!
 転倒した社会を「民衆のための社会」に戻すためには、「民衆のための言論」を強くし、正義が勝つしかない。
 そこに、「立正安国」の現実の前進もあるのだ。
4  フランスの大文豪ロマン・ロランは言った。
 「他人の上に太陽の光を注がんためには、自分のうちにそれをもっていなければいけない」(『ジャン・クリストフ』4、豊島与志雄、岩波文章)――その「太陽」を、私たちはもっている。自分が縁した人びとに、燦たる希望の大光を送る「太陽の仏法」を受持しているのだ!
 偉大な力があるのだ。
 偉大な使命があるのだ。
 さあ、世界最高峰の大仏法哲学を胸に抱いた、誇り高き創価の闘士たちよ!
 輝く人間世紀を創る、広宣流布の思想戦に、共に勇んで打って出ようではないか!

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