Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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青春の思い出 大仏法を奉じた青年は世界一の富める者なり

2005.7.18 随筆 人間世紀の光3(池田大作全集第137巻)

前後
2  私はこの時より、権力者を軽蔑するようになってしまった。政治家は信用できないと思い込んでしまった。
 庶民ほど尊い、黄金の魂をもった人間はいないと思い始めた。権力者たちは暗く濁った魂であると、感じてしまったのである。
 そして、いつも権力者や政治家に利用されている貧しき庶民、多くの正直にして賢明なる庶民の味方になっていくことを心に決めた。
 十九歳の夏――昭和二十二年、大田区の糀谷で開かれた座談会で、私の一生の師である戸田城聖先生とお会いして、私の青春の決意は、いやまして固まっていった。
 私の考えは、すべて正しかったことが、確認されたからである。
 貧しき無名の一青年は、奮然として、決意も固く立ち上がったのだ。
3  私が入信した時、真言宗の深い信心家であった、厳格にして寡黙な父は、猛烈に反対した。
 「どうして、うちの宗教を継いでくれないのか」と怒鳴っていた。
 母は、この親子喧嘩が、どのように展開していくのか、悲しそうに状況を案じていたようだ。いな、可哀想なぐらい真剣に見つめていた。
 母は、父を大切にしていた。そして、子どもも大切にしていた。
 それだけに、夫に賛成していいのか、子どもに賛成していいのか、悩んでいた。
 今でも、その白いかっぽう着の、いじらしい働き者の母の姿が、目から離れない。
 その時の悩み苦しんでいた母の日々を思うと、私の胸は痛む。
 母は、私に、ただ一言、父に加勢するような格好で、「家にある代々の宗教を大切にすることが大事じゃないの」と、声を静かに言った。
 そして反対に、母は、父に向かっては、困り抜いた姿で一言っていた。
 「立派な戸田先生のもとで、勉強している大作の方が、正しい宗教かもしれないね」と。
4  「開目抄」には、「仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」と説かれている。
 今世だけの親孝行では、断じてない。
 生死を超え、三世永遠にわたって、父母を「常楽我浄」の香風に包むことができる。これが、妙法である。
 日蓮大聖人は、熱原の法難のなか、勇敢に信仰を貫いていた若き南条時光に仰せである。
 「貴辺は日本国・第一の孝養の人なり・梵天・帝釈をり下りて左右の羽となり・四方の地神は足をいただいて父母とあをぎ給うらん
 どうか、わが青年部の皆さんもまた、両親が信心をしている、していないにかかわらず、諸天善神からも喝采されゆく最極の「親孝行の道」を、誇り高く歩んでいただきたい。
5  今年は、戦後六十年――。
 昭和二十年の七月三日、軍部政府の権力の弾圧を勝ち越えて、師・戸田先生は出獄された。
 敗戦の焼け野原に踏み出された「広宣流布」の一歩は、今や、壮大な平和と文化と教育の大道となって広がった。
 世界平和をリードする科学者の集い「パグウォッシュ会議」のスワミナサン会長も、語ってくださっている。
 「戸田城聖氏は、核兵器の使用と戦いました。
 池田博士は、核の危機なき世界を目指す人類の先頭に立ってこられました。
 百九十カ国・地域の一千二百万を超える創価学会のメンバーは、平和が広がり、飢餓が消え、精神の寿命を価値あるものにする、人類史上の新たな時代の指導者です」と。
 私は、この立派な科学者の言葉に感動した。
 私の人生には、何も後悔することはない。すべての日々が、すべての戦いが、すべての激戦が、みな、悔いなき前進であったからである。
6  「よき広宣流布の闘士として、末代にまで、自己の名を歴史に残していただきたい」
 これは、五十年前(昭和三十年)、降りしきる雨のなか、「一万人の大結集」の壮挙を成し遂げた私たち青年に、戸田先生が語ってくださった指導である。
 そして、五十年後の今、悪戦苦闘を突き抜けて、堂々たる、晴れ晴れしき完勝の歴史を刻んだ若き弟子たちよ!
 私もまた、未来を託す青年諸君に贈りたい。
 「君よ、一生涯、広宣流布の大闘士たれ!」と。

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