Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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雄々しき学会歌とともに
2005.4.28 随筆 人間世紀の光2(池田大作全集第136巻)
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創価の前進は、常に、民衆の歌声とともにあった。わが音楽隊、鼓笛隊、合唱団の皆様が響かす、大音声とともにあった。
四十五年前、私が第三代会長に就任した昭和三十五年は「前進の年」であった。その時、広宣流布の大進軍の歌声を轟かせ、勝利、勝利、また勝利と、全同志を鼓舞していったのが、「威風堂々の歌」である。
♪濁悪の此の世行く 学会の
…… ……
威風堂々と 正法かざし
駒を進めば 草木もなびく
歌には、師子王の誇りと情熱がみなぎる、勝利への行進があった。
我らは宗教界の王者なり! 我らは思想界の王者なり! ゆえに我らが、邪悪を打ち破り、苦悩の民衆を救わん! 正義の道を、いつまでも悠然と! 苦しみ悲しむ人びとを包みながら行進する、尊き足音よ!
一見、激烈とも思える歌詞は、人間を不幸にする邪悪と戦う心が燃えているからだ。
大聖人は、「たとえ強い言葉であっても、人を助け救うならば、真実の言葉であり、柔らかい言葉である」(御書八九〇ページ、通解)と言われいる。この宗教革命、破邪顕正の闘魂こそ、我らの「威風堂々の歌」の魂であった。だからこそ、半世紀前、猛然と折伏に戦う京都地区の歌として生まれたこの歌は、時を得て、全日本の同志の闘争歌となっていったのだ。
そして、あの晴れ渡る五月三日、私の会長就任式の掉尾を飾り、新たな出陣を告げる銅鑼の如く、両国・日大講堂の大鉄傘を揺るがした、この我らの歌声こそ、「威風堂々の歌」であった。
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イギリスの作曲家エルガーの傑作「威風堂々」の曲名が、偉大な劇作家シェークスピアの『オセロー』の台詞に由来することは有名だ。その『オセロー』には――人間の嫉妬が、「みずからはらんでみずから生まれる化け物」であり、「人の心を餌食とし、それをもてあそぶ」怪物である等々、その本性が鋭く描き出されている。(小田島雄志訳、『シェークスピア全集』1所収、白水社)
ともあれ、濁悪の世の中に生き抜く以上、卑劣な嫉妬の攻撃は必ずある。いわんや、広宣流布の前進には、「猶多怨嫉」の大難は必然だ。
ゆえに、何も恐れるな! 我らは王者だ。品性下劣な嫉妬の群雲など、悠然と見下ろしながら、痛快に蹴散らしながら、澄み渡る正義の大空を進むのだ!
シェークスピアは、人間の高貴な魂をこう活写した。
「私の王冠はこの胸のなかにある、(中略)
『満足』という王冠だ、
この王冠を胸に抱く王はめったにいるものではない」(『ヘンリー六世』小田島雄志訳、同全集7所収)
仏法の偉大さも、仏法の深遠なる人生観も同じだ。この一点を示している。つまり、三世にわたるこの永遠の生命にあって、「大満足」「大勝利」の宝冠を、自らの頭にかぶせるための信仰であるのだ。そのための、断じて勝たねばならぬ、誉れある今世の戦いだ。
わが男子部よ、学生部よ、「紅燃ゆる」勝利王たれ! 勝利の若き王者たれ!
わが女子部よ、「緑の栄冠」の幸福女王たれ!
尊き大切な人生を、永遠にわたるわが生命を、「勝利の王者」「幸福の王者」と、人間革命していく。これが――「仏法」なのだ! 「信仰」なのだ! 「信心」なのだ!
ゆえに今日も、断固として立ち上がれ! 創価の久遠の同志たちと、尊き我らの最高峰のこの道をば、威風堂々と胸を張って、前進していくのだ!
ゲーテは、『ファウスト』に綴った。
「最高の生き方をめざして絶えず努力をつづけよ」(『ファウスト』上、手塚富雄訳、中央公論社)
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