Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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米デラウェア大学教授 ノートン博士 勇気があれば人助けができる

随筆 世界交友録Ⅱ(後半)(池田大作全集第123巻)

前後
7  九五年、博士に突然、ガンの宣告が下された。そのときにはもう、なすすべはなかったようである。
 後に、メアリー夫人が語ってくださった。
 「死が迫ったことを知った夫に、一抹の不安があったことは確かです。ガンによる痛みが精神を弱めてしまうかもしれない、自分の哲学を揺るがせてしまうかもしれない、と。
 しかし痛みのつけ入るスキはありませんでした。死に直面した彼は、かつてスモーク・ジャンパーとして自身の恐怖を克服した体験を思い出していたのかもしれません。
 死を迎えた彼のふるまいは、優雅でさえありました」
 ある友人が博士に「ガンと戦うのだ。勝つのだ」と励ますと、博士は「私は、すでに勝っているよ」と微笑まれたという。
 「私(夫人)が『死ぬのが怖くありませんか』と聞くと、穏やかに言いました。
 『私は、死を孤独や静寂とは思っていない。私の胸には、多くの友人がいる。池田先生、そしてソロー、エマーソン、ソクラテス、プラトン。
 私は、そうした啓発に満ちた人格を友に、“にぎやかな死”を迎えようとしているんだ。
 だからまったく恐怖など感じない。死もまた、新たな世界への冒険にすぎない』と。
 夫にとって『冒険』とは自分自身への挑戦でした。何が起きるか予測できて、未来に何の心配もないような『安逸な環境』から、あえて自分を引きずり出す生き方です。
 その挑戦をしてこそ自分の可能性がわかり、何をなすべきかがわかるのです。
 夫は『なすべきことはすべてなした。私はつねに自分自身であり続けた。人生から学びたいものを学び取った』と満足していました。そして、新たな勇気をもって、未知の“死”に立ち向かっていったのです」
 六十五歳であった。
 博士は、通常の学者のコースとは違った道を歩まれた。
 だからこそ、その分、「人生」の内奥に深く入っていかれたのかもしれない。博士の学問は体験、人格と一体であった。
 博士が尊敬した牧口会長も同じであった。苦学の人であり、帝大も出ていなかった。
 創価教育学説を発表するにあたっても「小学校長風情が教育学なんどと、世界的大学者でも容易に企てないことを……おこがましくはないか、生意気千万な」と妬まれ、役人からは「ふん、そんな研究は職を去て、隠居仕事にでもやったらどうだ」と蔑まれた。
 しかし何を言われようと牧口先生は「入学難、試験地獄、就職難等で一千万の児童や生徒が修羅の巷に喘いで居る現代の悩みを、次代に持越させたくないと思うと、心は狂せんばかり」(『牧口常三郎全集』第五巻、第三文明社)とのあふれる愛情から、「全ての子どもを幸福にする教育」を追究されたのである。
8  「どんな劣等生でも必ず優等生に」
 それは、「将来、幸福になる」だけでなく、「今、学ぶ幸福を満喫させる」ための教育技術であった。いわば練達の「教育道」である。
 私の恩師戸田先生が牧口先生と邂逅したときに言った「私は、どんな劣等生でも必ず優等生にしてみせます」という言葉に、すでに創価教育の真髄があったと言えまいか。
 それは、「劣等生なんて、後からつくられたものだ。考える基本をしっかり教えれば、だれでも優等生になるのだ」という確信であった。
 人間の可能性への不屈の信頼であった。
 「桜梅桃李」と対極にある「画一主義」「序列主義」「切り捨て主義」への怒りの炎であった。
 ノートン博士は言われていた。
 「世界で一番ひどい言葉。それは『いつか、この知識が必要になるから』と言って、子どもの関心を引き出すこともなく、押しつけることです。食欲もないのに口に詰めこまれるの
 は悲劇です。学ぶ喜びを与えるべきです。『初めて歩けた日』のあの顔の輝きを失わせてはならないのです」
 そのための挑戦を、博士は創価の運動に見いだされたのである。
 訪問した創価学園でも「生徒一人一人の目が輝いていて感動した」と言っておられた。
 「創価(価値創造)という名前が私は大好きです。学会との出あいは、私の最高の誇りです」
 博士は死の床にあっても、贈られた創価大学のバッジを最期まで胸から離されなかった。

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