Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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世界的物理学者 銭偉長上海大学学長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
2  アポロ計画の基礎をつくる
 銭先生は若くしてすでに、ロケット工学の最高峰であった。
 公費留学生として、二十七歳でカナダへ渡った新婚の妻と、生まれたばかりの長男を残して。以来、アメリカもふくめて六年間の海外生活であった。
 その間に、応用数学の分野で今なお「必読の資料」とされる画期的な研究成果を発表。
 カリフォルニア工科大学では、ジェット工学研究所で、ロケット工学を大きく進歩させた。後のアポロ計画の基礎をつくった一人であった。
 「なぜ中国へ帰るのか?」。世界最高の設備と超一流の研究陣。学者にとって、これ以上の環境はない。
 「しかし私は決めたのです。『祖国の人民と苦楽をともにして生きよう』と。どんなに、ここで成果を上げても、祖国に貢献しなければ意味がないのです」
 自分だけが有名になり、地位を得ても、そんなことが何になろうか。
 科学を志したのは「何のため」か。それは「科学で祖国を救おう!」と決心したからだ。
 清華大学に入学してまもなく「九・一八」事件(満州事変)が起こった。わがもの顔の侵略者に憤慨した銭青年は、急遽、コースを文系から理系に変えた。「これから一番必要なのは科学技術だ」
 コースの変更は無謀であったが、恩師の呉先生は、青年の憂国の思いに動かされたのか、「一年後に理系の科目すべてが七十点以上になること」を条件に許可してくれたのだった。
 その自分が、このまま異国で、どんなに偉くなったところで、何になろう。
 焦燥する銭青年のもとに、「抗日戦勝利」の朗報が届いた。帰ろう! 帰ろう! ずたずたにされた祖国は、今まさに「建設」を必要としているのだ。帰ろう! すぐに!
 「ちょうど、そのころ、ロケット工学研究を軍事用に転換しようとして、アメリカ政府が介入してきたことにも反発しました。私は、池田先生の友人であるポーリング博士と一緒に研究したこともありますが、博士も戦争のための科学に反対していました。そのために、ずい分、いじめられた。私も同じでした」
 銭先生は中国の人々に向かって叫んだ。
 「私は、戻ってきました。一切を捨てて。物質面での楽しみなんか浮雲のようなものです。知識を祖国にささげ、人民にささげることだけが私の望みです。私の持ち場は、ここにあります! この九百六十万平方キロの祖国の大地の上にあるのです」
 しかし、その祖国が、発展の道から大きく逸脱しようとしていた。
3  「二十六年間の迫害」に耐えて
 「銭偉長! 五分以内に出頭せよ!」
 文化大革命中である。高音のスピーカーが突然、がなり始める。
 駆け足で、批判集会の舞台に行かねばならない。屈辱的な姿勢で、ひざまずかされ、いつ終わるともしれぬ口汚い侮辱にさらされた。
 ″国の宝″である世界的名望の人を、かくも虐げる異常さ。しかし、異常な社会状況のなかで、人々には何が善で、何が悪なのか、わからなくなっていた。
 銭先生のすごさは、こんな状況のなかでも、研究を投げ出さなかったことである。
 労働や批判集会から帰宅すると、踏み荒らされた部屋を整理し、勉強を始める。
 窓明かりが漏れぬよう、紙でしっかりおおった。明かりが見えると″革命派″が、どなりこんでくるのである。「何をやっとる! 死にてえのか!」
 深夜にも、武闘グループ同士の銃声や弾弓のうなり声、拡声器での罵声が屋根の上を飛びかった。
 そのなかで、先生は疲れた体に鞭打ち、机に向かった。そして後に国際的な評価を受ける数学の研究を、まとめ上げたのである。
4  「立ち止まれば 人間は駄目になる」
 だから銭学長が青年にこう言うとき、その励ましは、まったく先生の歴史そのものである。
 「私は、条件がどうあれ、環境がどうあれ、とにかく一生懸命に努力してきた。人間はだれでも、天分がいかに優れていようが、また、これまで、いかに大きな業績を残していようが、一旦、努力をやめれば、進歩は止まる。今日、努力しなければ、明日には取り残されてしまう。長い間、努力を怠れば、必ずだめになってしまう。
 ゆえに私は二十数年来、ありとあらゆる苦しみをなめながらも、決して努力をやめなかった。私は自分の専門において、つねに最先端であり続けたという自信があります」
 「私は、天才なんて信じたことがない。人間の才能を伸ばすのは、ただ、苦しみに満ちた労働だけだと信じている。そう、天才は勤勉から生まれるのである」
 前へ前へ、つねに、自分の現状を突き抜けよ! 学問においても。境遇においても。
 これが先生の人生を貫く創造的精神だと私は思う。
 「私は幼いころ、家が貧乏で、相前後して四、五ヵ所の小学校に通い、中学校には二年間、高校には、ほんの短い間しか行っていないのです」
 小学校を卒業したとき、母と祖母は、心を鬼にして銭少年に「働いておくれ」と言った。「弟や妹たちもおるんじゃ。家にお金を入れてくれんか‥‥」
 少年は進学の夢に胸をこがしていたが、家計のつらさはわかっていた。
 涙をぽろぽろ、こぼしながら、「うん」と、うなずくしかなかった。
 しかし父が、断じて進学させると言い切って、進路が変わった。蘇州の中学の教頭をしていた叔父が面倒をみることになったのである。この叔父・銭穆せんぼく氏は後に「国学大師」と呼ばれる大学者となった。
5  「時を空しく使うな」と父の声が
 中学校入学の日、霧雨が降りしきっていた。見送りの父と、一本の破れた傘に入り、船に乗った。体をこわしていた父は、せき込みながら、とぎれとぎれに話した。
 「家がどんなに苦しくても‥‥わしは何としても、お前に勉強させてやりたい。お前も、しっかりと努力するんだぞ。‥‥決して、時を空しく使うな。だれにしたって‥‥苦しいなかを頑張り続けて、初めて、ことを成就できるのだ。忘れるな」
 父の言葉は、はからずも遺言となった。
 父は、まもなく三十九歳の若さで倒れ、この日の別れが永別となったのである。
 学長夫人が語ってくださった。
 「文革が終わって、迫害は、ほとんどなくなったものの、冤罪が晴れたのは八三年。(五七年から)二十六年間の道のりでした。
 当時、自殺したり、離婚したりと、悲惨なことが周囲に、いっぱいありました。
 でも私たちは幸せなことに、夫婦ともに学者であり、集中できる学問と精神世界がありました。(夫人は中国古典文学が専門)
 そして、夫婦も、親子も仲が良かったことに助けられました。どんなに迫害されても励ましあい、助けあって生きてきたのです」
 お子さんも皆、苦労を重ねて勉強し、現在、立派に活躍されている。
6  「日本の国家主義が残念」
 銭学長と私は、時を惜しんで語りあった。
 周総理の「人の心を知る努力」について。金庸氏(中国の文豪)、ノーマン・カズンズ氏など共通の友人について。東洋文明について。そして古代の歴史から中国の現代史にいたるまで、話題が尽きなかった。
 語れば語るほど、該博な知識と、海のように広いお心がわかった。
 「私は日本の人民の感情を傷つけたくはありません。しかし、あえて言いたい。日本は若い人に正しい歴史を教えるべきです。
 中国と日本が力を合わせて、偉大なる東アジアを建設すべきです。唯一、残念なのが日本の国家主義なのです」と強く強く話しておられた。
 その場所は、上海大学の中心キャンパス。かつて日本軍の攻撃により破壊されつくした場所であった。
 学長に就任して以来、銭先生は、時代の急速な進歩を先取りすべく、かつての理想そのままに上海大学を改革し、着々と成果を上げておられる。
 今、昇龍のごとく栄えゆく中国。生涯かけて追い続けてきた新世紀が、ようやく見えてきたのだ。
 学長は決意しておられる。
 「生ある限り、夜を日に継いで働とう! たとえ、わずかであろうと、私自身の流した汗を、祖国の怒涛のごとき発展の大河に注ぎこむのだ!」
 今、との意気で働いている日本の指導者は、どれだけいるであろうか。
 偉大なるかな、立ち止まらぬ人生。
 学長が自分の活動を紹介した文章のタイトルは、「疾駆前進」であった。
 (一九九七年七月二十日 「聖教新聞」掲載)

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