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日蓮大聖人・池田大作

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世界的数学者 蘇歩青 復旦大学名誉学長

随筆 世界交友録Ⅰ Ⅱ(前半)(池田大作全集第122巻)

前後
3  文革の嵐を生き抜いて
 文化大革命。「十年の内乱」と呼ばれる狂気の時代にふれるのは、あまりにも痛ましい。
 一家も嵐に巻きこまれた。紅衛兵が押しかけ、家中をひっくり返した。蘇学長は毎朝、″見せしめ″として一人、衆人環視のなかで大学の芝刈りを強要された。
 それはまだ耐えられた。ひどかったのは、自宅のそばから大学までの道である。「日本のスパイ」と書いた旗竿を持たされ、三角の帽子をかぶって歩かされた。名前にバツ印をつけた紙も首から下げて、市民の罵りの中を毎朝、毎夕、歩くのである。
 博士は夫人には極力、実情を知らせないよう努力した。大学に軟禁され連日、屈辱的な尋問や大集会での攻撃を受けた。農村に連行され、農民の前に立たされて″批判″を受けなければならなかった。
 博士には耐えがたかった。しかし、子どもたちが言った。「お父さん! 死なないでください。生きてください。お母さんのために、歯を食いしばって、どうか生き抜いてください」
 夫人との愛情が博士を生につなぎとめた。夫人ほど博士の真実を知っている人はいなかった。何が起ころうと、この一筋さえあれば、いいではないか──。
 子息の蘇徳昌氏(現・奈良大学教授)は言われる。
 「父の人柄を一言で言うと『剛直』ではないでしょうか。自分を曲げません。曲げないから文革中にも、ひどくやられた。曲げないからこそ、文革の後、また復帰できた。妥協しないのです。信念を貫くのですから敵もいます。敵がいるから、自分も前進できるのです。敵がいなかったら前進は止まります。創価学会や池田名誉会長に迫害がある理由も同じと思います。そのことを、父はよく理解しています」
 米子夫人は逝去の前、三年間、病床にあった。博士は毎日、午後四時半になると病院に駆けつけ、二時間余もつき添われた。ミカンの皮をむき、一つ一つ白い筋も取ってあげた。食事も一口一口、食べさせてあげた。見ただれもが厳粛な思いに打たれる光景であった。
 それ以前──金婚式の春であった。その日、博士は北京から夫人に思いを馳せて一詩をつづった。
  桜花の時節に愛情は深し
  はるか万里を共にわたりて臨む
  紅顔に白髪の添えるもかまわ
  金婚の佳日は金よりも貴し
4  仙台での出会いから六十年。八十一歳で亡くなった夫人に、博士は一着の服を着せてあげた。それは七年前に、やっと新調した二着のうちの一着であった。夫人は袖も通していなかった。今こそ「使命を果たした」夫人の晴れ姿であった。
 博士の一日は今も、夫人への呼びかけから始まる。遺影の前に立って目を閉じ、夫人と無言の語らいをされるという。思い出だけでなく、今のこと、これからのこと。博士には夫人の声が聞こえるのだろうか。
 戦前の上海で、通信社の支局長をされていた松本重治氏は、「東亜の一大悲劇たる日中戦争が惹き起された最大の原因」は「当時の日本人の多くが、中国人の気持を理解し得なかたことにある」とされ、″遺言″として叫ばれた。
 「日本人は、隣国人の気持をもっとよく理解して欲しい」(『上海時代 ジャーナリストの回想』中央公論社)と。
 蘇博士は、創価大学の名誉博士になられたとき、言われた。
 「人生は人類にどれだけ貢献したかで決まります。無為徒食ではいけない。その意味で、私は創価という名前が好きです。そこには人類のために価値を創造しようという心がこめられているからです」
 ご夫妻の人生こそ、価値創造の一生であられた。運命をも変えられた。日本の侵略で日中が引き裂かれるなか、日本と中国が必ず仲良くできるのだという証明をしてくださった。気持ちがひとつに通いあう人間の絆の強さ、美しさを象徴として示してくださったのである。
 理想夫婦──その芳しき名は、日中の歴史に永遠に薫っていくにちがいない。
 (一九九五年六月十一日 「聖教新聞」掲載)

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