Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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パリ国際会議「寛容の教育」での講演 信頼と友情の種子を植えよ

2003.5.14 提言・講演・論文 (池田大作全集第150巻)

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3  「法」による統治で平和の時代が
 釈尊と同じ時代、「アングリマーラ(人の指の首飾りごという、渾名の付いた凶悪な強盗がいました。彼の元の名は「アヒンサカ(非暴力者)」でした。バラモンに師事していた時、師の妻の讒言により放逐され、人間不信に陥り、目的を喪失し、悪行を重ねていったのです。
 そのアングリマーラを改心させ、再びアヒンサカへと蘇生させたのが、釈尊でした。
 釈尊はアングリマーラと出会った時、じっと立つ彼に近づいては離れ、離れては近づきます。苛立つアングリマーラに対し、釈尊は語ります。
 「アングリマーラよ。わたしは、一切の生きとし生けるものどもに対する暴力を抑制して、つねに立っています。しかるに、そなたは生きものどもに対して〔害する心を〕抑制していない。それ故に、わたしは(静かに)立っているが、そなたは(静かに)立ってはいないのです」(『仏弟子の告白』中村元訳、岩波文庫)
 釈尊は、この言葉によって、彼の心の底に潜む恐怖と不安を剔抉し(=えぐり出し)、根源から取り除きました。釈尊にそれを可能ならしめたのは、人間の本性、すなわち仏性への深い信頼でした。自他の根源的悪の闇を突き抜けた奥底に厳然と輝き、人々をも照らす「善の太陽」を見つめていたからです。
 まことに、心とは不思議な力のもち主であります。一見、些細なエピソードのように見えますが、この「善の太陽」がアショーカ王の心中に豁然と昇った時、あの仏教史に燦然と輝く「法」による統治が実現し、平和の時代が招き寄せられたという人類史の遺訓、つまり胸中の制覇がもたらす偉大な力、起爆力を忘れてはならないと思います。
 ちなみに、ヤスパースが『偉大な哲学者たち』で取り上げたもう一人の仏教者である大乗の大論師・竜樹は、シャータヴアーハナ王朝の王に宛てた著作『宝行王正論』で興味深い進言を行っています。悪を犯した者に対して、憎悪や利害に基づいて、裁き罰するのではなく、慈悲の親心で教え導くよう、訴えているのです。
 私どもが信奉する日蓮大聖人は、主著の一つ『立正安国論』で、人間の善性に背く悪に対しては徹底して糾弾すべきであるとするが、死をもって報いることは退けています。
 悪の行いは断じて許さないし徹底して糾弾するが、悪の行いをした人にも秘められている尊厳性は認める。それゆえ糾弾自体が、その内なる尊厳性に気づかせ開花させるための慈悲の行為となるのです。
 こうした寛恕、寛容の心性が、時代精神にまで昇華されゆく時、「刑は刑無きに期す」という刑法の理想は、見果てぬ夢から、ようやく現実味を帯びてくるであろうことを、私は疑いません。
4  自他ともの幸福を目指す実践を
 この普遍的な尊厳性に限界を設ける意識が、「差別」です。先に「自他の対立による競争原理」について触れましたが、人間には、自分(我)と自分に属するもの(我有)とを特別視し、それをすべてよりも優先すべき価値あるものと見なす心情があります。仏教では、この「我のみ尊し」とする自己中心的なエゴイズム(我執)を、差別意識の根源と見なしています。
 そして釈尊は、”同苦”こそ、この自己中心性を克服すると教えています。同苦とは、他の人の苦しみを共有しその解決を願って行動するという慈悲の行動です。
 あらゆる人に開かれた慈悲の連鎖の広がりによってこそ、寛容という人類の真のセーフティー・ネット(安全網)が確立できるのではないでしょうか。
 その意味で、今回のセッションのテーマである「信仰に基づく行動としての寛容」を、仏法者の立場に即していうならば、次のように要約できるかと思います。
 すなわち、互いの差異を”対立の原因”にするのではなく、その差異を尊重し、切磋琢磨を”新しい価値創造への源泉”としながら、「自他ともの幸福」を目指していく菩薩道の実践にほかならない、と。
 先ほども論じた通り、この菩薩道は、どこまでも現実社会の問題から離れることなく、むしろ社会の中で苦しみ、悩んでいる人々の中に飛び込み、ともに前へと進んでいく生き方を要請するものです。
 今、求められている「寛容」の精神も、こうした人間と人間同士の魂の打ち合いの中でしか、真の意味で鍛え上げることはできないのではないでしょうか。
5  語り合え! 人間的な世界へ
 私自身、これまでキリスト教やユダヤ教、イスラムやヒンドゥー教をはじめ、さまざまな宗教や文化的背景を持つ世界の識者の方々と語り合い、多くの対談集も編んできました。
 SGI(創価学会インタナショナル)としても、その基本理念を定めたSGI憲章で「仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく」との項目を特に設けております。そして、世界百八十六カ国・地域において、一人一人がよき市民としての道を歩みながら、平和と共存の社会を築き上げるための挑戦を重ねてきました。
 私どもが、グローバルな対話の場である国連を一貫して支援し、また近年では「地球憲章」の運動に協力してきたのも、そうした菩薩道的な生き方の当然の帰結であります。
 なかでも「地球憲章」は、それ自体、長年にわたる民衆レベルでの”グローバルな対話の結晶”ともいうべきものであり、二十一世紀の人類の共通規範となりうるものと確信しております。
 そのためにも、”憎しみの種子”ではなく”信頼と友情の種子”を人々の心に植えゆく、「対話」という地道な作業に日々取り組んでいくことが、私たち宗教者に等しく求められている姿勢ではないでしょうか。
 最後に、思想家ハンナ・アレントの「ただ世界が人間的となるのはそれが語りあいの対象となった場合に限ります」(『暗い時代の人々』安部斉訳、河出書房新社)との言葉を、彼女の師である冒頭のヤスパースの呼びかけに呼応させ、私の話を終わらせていただきます。
 ご清聴、ありがとうございました。
 (パリ・ユネスコ本部代読、「聖教新聞」掲載)

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