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日蓮大聖人・池田大作

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憂愁  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
16  「絶対確実といえる治療法は、現在のところありません。今は、安静にし、食事療法をしておりますが、この病気は、患者自身の自然治癒力をどう助けるかが、大事なポイントといえます」
 「そうすると、患者の生命力が決め手ということになりますな」
 「生命力?……そう言ってもよいと思います」
 「生命力の問題となれば、私には絶対の確信がある。まあ、命を少し延ばすぐらいのことは、私にとっては造作のないことですよ」
 木田医師は、怪訝な顔をしながら、メガネ越しに、戸田をまじまじと見つめた。
 戸田は、そんな木田医師の表情を見て、愉快そうに笑いを浮かべた。
 「『更賜寿命』(法華経四八五ページ)といってね、既に定まっている人間の寿命をも延ばすことができるのが、仏法の力なんです」
 木田医師は、戸田の言葉を理解しかねているようだった。
 戸田は笑いながら、重ねて尋ねた。
 「寿命を延ばすということを、医学的には、どう考えますかね」
 「老化という観点から見ますと、動脈硬化などが死を早めることにつながりますから、それらを子防することが、寿命を延ばす道ではないかと思います」
 「確かに医学的には、予防ということが大事になるでしょうが、普段から、かなり健康に気をつかってきた人が、予期せぬ病気や事故で、突然、早死にしてしまうこともある。いわば宿命ですな。それをも転換していく方途を教えているのが仏法です。人間の一念の転換によって、自分の宿命のみならず、環境をも変えていく力が、まことの信仰なんですよ」
 戸田はそれから、来年三月に、総本山大石寺に大講堂が落成し、そこで記念の式典を行うことを述べた。そして、自分は、それまでに病気を治して、元気な姿で出席し、一カ月にわたって総本山に滞在すると言いだした。
 「はあ、三月ですか……」
 木田医師は、三月までに、戸田の体がそこまで回復するとは、とても思えなかった。このところ驚異的な回復ぶりを示しているとはいえ、重篤な肝硬変症である。木田は、医師としての経験から、まだまだ長い静養が必要であると考えていた。
 しかし、戸田は、確信に満ちた口調で言った。
 「あなたは信じないかもしれないが、人間の一念によって、病だって克服することができるんです。まぁ、見ていなさい。
 世の中には、不思議と思えることは、いくらでもある。あの総本山の一帯は、溶岩層のために、湧き水はいたって少なかった。地質学者たちに頼んで、何度も調査をしてもらったが、いつも、溶岩層の下には水脈はない、という結論だった。
 しかし、今後の登山者の増加を考えると、飲料水を確保するうえでも、水が出ないと困ることになる。そこで、私は祈りに祈りました。すると、どうですか。ボーリングをしたところ、わずか二十六メートルで水が湧き出してきた。不思議といえば不思議だが、それが仏法なんです。
 人間の体についても同じですよ。三月の総本山の記念式典は、必ず、私が指揮を執る。それが、私の最後の使命なんです。あなたには、この戸田が、身をもって仏法の不可思議なことを教えましょう」
 戸田城聖は、若い前途有望な、人柄のよい木田が好きだった。彼は、取り立てて病状の変化がない時も、しばしば、木田の自宅に電話をさせ、往診を頼んでいた。
 そして、病状が好転するにつれて、「診察はいいから」と言って、現代医学の問題点などについて、矢継ぎ早に質問することが多くなっていた。木田医師の医学の知識を借りながら、生命について、思索をめぐらしていたのである。
 戸田は、木田医師に言うのだった。
 「あまり診察もさせないのに、忙しいあなたを、たびたび呼んで悪いな。それも、君と話をしていると面白くて、愉快になるからなんだよ」
 戸田は、病との苦しい戦いの治療期間をも、いつか楽しいものに変えていた。
 この日、木田医師が診察と語らいを終えて、階下に降りてみると、応接間には、既に数人の幹部が、戸田への報告と指示を仰ぐために待機していた。木田医師は、″会長も、なかなか大変なんだな。これでは静養にならないではないか″と案じながら、戸田の自宅を後にした。
 戸田城聖の病状は、日を追って回復に向かっていった。
 十二月も下旬に入ったころには、食欲は、ほとんど以前と変わらなくなり、四八もあった血清黄疸指数も二〇に減じ、腹水も、ほとんどなくなっていた。肝臓機能は蘇りつつあったといってよい。
 この短日月での回復は、医師たちの予測を、はるかに超えるものであり、奇跡的な回復ぶりといってよかった。木田医師も、矢部医師も、ほっと安堵の息をつくとともに、戸田の生命力の強さに驚嘆せざるを得なかった。
 そのころ、戸田のもとに、統監部長の原山幸一から、集計の結果、学会の世帯数は、遂に七十五万世帯を達成し、七十六万五千世帯になったことが報告されてきた。
 戸田は、まだ病の床に臥してはいたが、願業成就の満足に、法悦ともいうべき喜びが、心の底から込み上げてくるのを覚えた。
 思えば、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、第二代会長就任の席で、戸田が、彼の生涯の願業として、七十五万世帯の達成を宣言した時には、会員は、いまだ、実質三千余にすぎなかった。それから、わずか六年と七カ月で、見事に彼の大願は成就したのである。
 あの日、戸田城聖は、こう宣言した。
 「私の自覚にまかせて言うならば、私は、広宣流布のために、この身を捨てます! 私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします。……もし、私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい! よろしいか!」
 この宣言のように、まさに彼は、七十五万世帯達成という、広宣流布の第一歩の確実な基盤を築くために、わが身を捨ててきた。すべては、彼の一念の発心から始まったことであったが、戸田は、彼と苦楽を共にし、戦ってくれた同志のことが、頭から離れなかった。大願を成就した喜びのなかで、感謝の唱題をしながら、愛する同志の永遠の幸せを祈った。しかし、その同志とも、間もなく別れなくてはならぬ時が迫っていることを、戸田は予感していたのである。
 冬の夜は、なかなか明けなかった。
 戸田は、早朝、目覚めると、布団に体を横たえたまま、闇のなかの凍てた静寂のなかで、ひとり思索していた。
 昨日、七十五万世帯の達成の報告を受けて以来、彼は、同志を幸せの彼岸へと導くために、今、何を打ち込んでおくべきかを考えていた。
 ″彼らの大部分は、ここ数年の入会である。十年、二十年と、揺るぎない信心を全うしてきた同志であれば、間違いなく、このまま人生の勝利者となるであろう。
 しかし、多くの同志は、いまだ絶対の確信はなく、苦悩のなかにあって、御本尊を抱きしめ、世間の嘲笑に歯をくいしばって耐えながら、懸命に信心に励んでいる。人生の勝負は、彼らが、このまま、どこまでも健気に、信心を励み通せるかどうかにかかっていよう。
 そのためには、何を訴えておかなくてはならないのか。組織としての折伏の目標は、これから新たに打ち出すにしても、一人ひとりの、めざすべき信心の在り方を、なんのための信心かを、今、指標として述べておくことが肝要ではないか……″
 ここまで考えてきた時、彼の脳裏には、今、全同志に与えるべき指針が浮かんできた。
 学会員のなかには、一家のなかで自分だけが信心し、家族の目を気遣いつつ、その幸せを念じて、活動に励んでいる人も少なくない。社会の基盤は、家庭にある。そして、盤石な家庭を建設していく源泉は、一家和楽の信心である。それこそが、一家の幸せのためにも、社会の繁栄のためにも、不可欠な要件といってよい
 戸田は、ふと窓を見た。外は、いつの間にか、しらじらと明け始めていた。彼方で、電車の走る音が聞こえた。
 ″そして、家族そろって信心をしていく目的は、一人ひとりが幸福をつかむためだ。また、それが私の願いである。仏の使いとして、利他の行に励むということは、人のために尽くしているように見えるが、自己の崩れざる幸せを築く要諦なのだ。
 一家和楽の信心は、家族のそれぞれの幸せを、約束していくであろう。しかし、それには、幾つもの難という試練に勝たねばならない。一生成仏という大空に、悠々と舞い上がっていくには、難という烈風に向かって飛び立たねばならぬ。その難に負けない信心こそが、永遠の幸福の城を築きゆく力なのだ。
 信心で越えられぬ難など、断じてない。七十五万世帯の同志が、誰一人として、負けずに信心を全うしてもらいたいものだ″
 戸田は、枕元に置かれたメモ用紙を取ると、鉛筆で書きつけていった。
  「一、一家和楽の信心
   二、各人が幸福をつかむ信心
   三、難を乗り越える信心」
 彼は、この指針を読み返すと、満足そうに頷いた。
17  一九五七年(昭和三十二年)の悼尾を飾る本部幹部会は、十二月二十五日夜、東京・池袋の豊島公会堂で開催されることになっていた。その日の昼過ぎ、理事長の小西武雄が、戸田の自宅にやって来た。
 「先生、今晩の幹部会で、七十五万世帯を達成したことを発表しますが、あわせて、来年は百万世帯をめざすことを打ち出したいと思いますが、いかがでしょうか」
 「目標を掲げて進むことは大事だが、ここで、しっかりと足もとを固めておく必要があるだろうな」
 「はあ、足もとを固めると申しますと?……」
 「ここらで、なんのための信心なのか、また、一人ひとりが信仰を確立するために、何をめざせばよいかを明らかにして、しっかり確認し合っておくことだよ。数を打ち出すのはよいが、みんなが、組織のために折伏に追い立てられているように思いでもしたら、歓喜もなくなるし、力も入らない。そんなことにでもなれば、みんな、功徳を受けられなくなってしまうからね。
 ぼくは、今夜は欠席するが、元旦には必ず本部へ行く。今夜は、出席できない代わりに、みんなに伝えてほしいことがある」
 戸田は、こう言うと、小西理事長に、あの三つの指針を書いたメモを手渡した。
 十二月度本部幹部会は、午後六時十五分に開会された。
 統監部長の原山幸一が、今月は七十五万世帯を達成し、現在、七十六万五千世帯に及んだことを発表した時、歓喜のどよめきと、怒濡のような大拍手が湧き起こった。
 しかし、この一、二年に登用された新しい幹部たちの多くは、戸田の生涯の願業が成就したという実感には乏しかった。ただ、今月も、壇上に戸田の姿が見られないことが気にかかっていた。
 小西理事長は、多事多難であった慌ただしい五七年(同三十二年)を振り返るとともに、今、いよいよ法華本門大講堂が完成しつつあることを語ってから、戸田の容体について話していった。
 「戸田先生が、しばらく、お見えになられないことから、一抹の寂しさがおありかと思いますが、先生は、大変にお元気になられております。今日も、先生とお会いしてまいりましたが、先生は、七十五万世帯の折伏が達成できたことは、第六天の魔王から見れば、容易ならざることであり、『魔競はずは正法と知るべからず』との御聖訓に照らして、魔が競い起こることは間違いないと仰せでした。そして、先生の今度のご病気も魔の所為であると言われ、『私は、魔になど負けない。正月には必ず行く』とおっしゃっておりましたので、どうか、ご安心ください」
 場内は、安堵の拍手につつまれた。
 小西は、最後に、会長・戸田城聖からの伝言として、あの三指針を発表した。
 「本年はじめ、戸田先生は、『楽しい信心』『楽しい折伏』『楽しい教学』という、信心の三項目を発表してくださいましたが、明年度の新たな出発にあたり、信心の指標として、学会の三指針を決めてくださいました。
  一、一家和楽の信心
  二、各人が幸福をつかむ信心
  三、難を乗り越える信心
 この三つでございます。来年は、この三指針のもとに、しっかり頑張っていこうではありませんか」
 参加者は、一つ一つの指針を胸にとどめたが、これが「永遠の三指針」として、深く人びとの心に刻まれるようになったのは、戸田の逝去後のことである。
18  厳たる七十五万世帯の願業を成就した戸田城聖は、年の瀬の病床にあって、静かに、深い思いをめぐらしていた。
 戸田は、広宣流布の未来を眺望する時、彼が、この七年間にわたって築き上げた基盤が、揺るがざる堅固さをもっていることを強く確信できた。
 一人の男が、この地球上に生を受けて、広宣流布の戦を起こし、かくも多くの民衆の救済を、実際に可能にしたのである。戸田は、誰人もなし得なかった大業を、成就するにいたった自分を振り返ると、不可思議な思いに駆られるのであった。
 ″今、私は、ここに、こうしている。病みながら、広宣流布の行き末を考えている。この世にあって、戸田城聖と名乗るこの俺は、いったい何者なのだろうか。いずこから来て、いっずこへ行こうとしているのか″
 彼は、五十七年間の人生の来し方をたどっていた。その一つ一つが、決して偶然ではなく、すべては、この大業の成就に結びついているように思われた。
 石川県の漁港に生まれ、幼時、北海道の厚田村に移住する。すべて、彼の意志ではない。何か大きな力に導かれてのことであったのかもしれない。
 厚田の厳しい自然のなかで自立の心を培い、雪に閉ざされた海辺の村から、都会への飛翔を考えた少年時代……。
 彼は、憧れの都会であった札幌の商店に、いわゆる丁稚奉公に入り、働きながら、暇を盗むようにして独学を重ね、尋常小学校の准教員の資格を取得する。資格は職を与え、夕張炭鉱の真谷地の尋常小学校に奉職したが、向学の思いやみがたく、臥竜がりょうは、突如、東京に飛び立った。
 東京で同郷の人びとをたどっていくうちに、西町尋常小学校の校長をしていた牧口常三郎に出会った。程なく戸田は、この西町尋常小学校に奉職し、牧口と、生涯にわたる師弟の絆を結ぶことになる。
 ここに、創価の光源をともした牧口と戸田という、二人の巨人の二人三脚が始まるのである。
 戸田城聖は、牧口が西町尋常小学校から左遷されたことに義憤を感じ、牧口と行動を共にした。やがて、戸田は教職を去って、時習学館という私塾を経営し、傍ら出版業を始める。そして、教育者としての牧口の思想の集大成となる、教育学体系の完成のため、援助を決意する。
 一九二八年(昭和三年)、牧口と戸田は、日蓮正宗に入信した。牧口の教育学の根幹をなす価値論は、日蓮大聖人の仏法の光彩を浴びて結実し、『創価教育学体系』の発刊となり、三〇年(同五年)、創価教育学会という団体を生んだ。
 創価教育学会の、教育を基盤とした社会の革新運動は、必然的に、根本義たる宗教にいたり、いつか斬新な宗教運動となっていった。そのため、軍部政府の過酷な弾圧にさらされなければならなかったが、二人の師弟の絆は牢獄にまで及んだ。
 四三年(同十八年)七月六日、二人は官憲に連行、投獄され、翌四四年(同十九年)十一月十八日、牧口常三郎は獄死する――戸田は、独房で呻吟のなかに唱題に唱題を重ね、法華経への眼を聞き、不可思議な境地を会得し、地涌の菩薩の使命を自覚するにいたったのである。
 出獄、そして、敗戦。戸田城聖は、″時は来れり″と、広宣流布に一人立った。敗戦後の激動のなかで、日蓮大聖人の仏法を高らかに掲げて、不幸に苦しむ同胞の救済に挺身していった。
 かつての創価教育学会が壊滅したのは、教学という柱がなかったからであることを痛感していた彼は、牢獄で唱題のなかに会得した法華経の講義を開始した。
 さらに、戦後の荒廃のなかで、苦悩にあえぐ民衆の蘇生のために、一人、また一人と折伏を重ねていった。それが、やっと軌道に乗るかと恩われた時、彼の事業は大挫折をきたした。すべては水泡に帰したかに見えたが、彼は大いなる信力を奮い起こして大難を脱した。
 わが身にかかる広宣流布の一切の責任を自覚した彼は、五一年(同二十六年)五月三日、三千人余の会員に推されて、会長に就任した。
 以来、六年七カ月の慌ただしい歳月のうちに、七十五万世帯の達成をみたのだ。
 これこそ、日蓮大聖人の仏法の歴史上、類を見ない壮挙であり、これによって広宣流布という大業は、決して虚妄ではないことが証明されたのである。人類は、遂に、崩れざる平和と幸福への確実な方途をつかんだといってよい。
 ″まさに、この俺の人生の一つ一つの出来事は、七十五万世帯の広布の大願を果たすためにあったのだ! 生まれ育った環境も、人との出会いも、精進も、辛労も、挫折さえも、何一つとして無駄なことはなく、すべては連続し、この大業へとつながっていたのだ……″
 戸田城聖は、深い感慨のなかで、自らの人生の不思議さを痛感せざるを得なかった。そして、自分ばかりでなく、彼の周囲の人たち、一人ひとりもまた、自分と同じように、不思議な使命をもっていることに気づいた。
 そして、山本伸一をはじめとする弟子たちも、彼の家族も、一人ひとりが独特な存在であり、実に不思議な絆によって彼と結ばれていることを、あらためて感じた。
 彼は、皆の顔を思い浮かべながら、今、しみじみと、懐かしさのなかに、親近感を覚えるのであった。
 彼の脳裏に、あの獄中で身で拝した、「御義口伝」の「霊山一会儼然未散」の御文が浮かんだ。
 ――そうだ、霊山の一会は厳然として未だ散らぬがゆえに、この世に私たちは集い来たのだ。私は、あの法華経の会座に、確かにいたことを、身をもって知った。私だけでなく、皆、あの座にいた久遠の兄弟、姉妹であり、同志なのだ。生死を超えて、あの久遠の儀式は永遠に続いているのだ……。
 それゆえに、大聖人の御生まれになった日本という地球の一角に、創価学会が生まれ、七十五万世帯を成し遂げることができたのだ。そこに、私の生涯の使命があったことは間違いあるまい。
 私は、学会を組織化し、広宣流布を敢行した。そこに、大きな広がりが生まれ、「地涌の義」を現実のうえに現す、一つの方程式を示すことができたといえる。広宣流布の方程式を確実なものとすることができたからには、あとは臨機応変な応用、展開の時代に入っていこう。そして、この広宣流布の潮は、日本から世界へと広がり、五大陸の岸辺を洗う日も、そう遠くはないはずである。
 日蓮大聖人は、御本尊を御図顕あそばされ、末法の衆生のために、御本仏の大生命をとどめ置かれた。まさに「我常在此裟婆世界、説法教化」(法華経四七九ページ)の経文のごとく、仏が常に此の裟婆世界にあって、説法教化されている御姿である。
 創価学会は、その大法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏の御使いとして出現した。そして、大聖人の御精神のままに、苦悩にあえぐ人びとを救い、菩薩道を行じてきた唯一の団体である。それは、未来永遠に続くであろう。
 すると、学会の存在もまた、「我常在此裟婆世界、説法教化」の姿ではないか。してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう――。
 戸田の胸に、熱い感動が込み上げ、あふれ出る感涙が枕を濡らした。
 彼は、この不思議なる創価学会の存在の意義と大使命を、後事を託す青年たちの生命に刻印し、永遠に伝え残すことが、自分の最後の仕事になろうと思った。
 戸田は、勇み立つ心を抑えながら、ともかく元旦から活動に復帰することを心に深く期した。
 それからの数日間、彼は、昼間は起きて座っているように努め、また、家のなかで歩行練習をして過ごした。病苦は去ったかに見えたが、表弱した体の不安定さに、われながら愕然とする瞬間もあった。しかし、彼の胸には、生涯の総仕上げに向かって、使命の炎が燃え盛っていた。

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