Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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宣言  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
10  彼は、腕時計を見た。時間は、まだ、たっぷりあった。
 「私が話すだけでは、十分な意思の疎通は図れませんから、今日は質問会にしたいと思います。聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください」
 場内から大きな拍手が湧き起こった。
 「壇上だと、皆さんから遠くて、質問が聞こえないので、私が下に行きます」
 こう言うと伸一は、壇上を降り、会場の中央に進んでいった。男子部の役員が、すぐに机とイスを用意し、伸一を会場中の人びとが取り囲むようにして、質問会が行われた。
 勢いよく、何人かの参加者の手があがった。経済苦の問題、病気の悩み、夫婦仲のことなど、どれも深刻な問題であった。
 悩み、苦しみ、その活路を仏法に求めて、健気に信仰に励もうとする同志に、伸一は全精魂を傾けて、勇気と励ましの指導を続けた。この人たちを苦悩から救い、断じて幸せにしてみせるとの、熱き思いをたぎらせて。
 皆、無名の庶民である。しかし、広宣流布の使命を担うために出現した、尊き地涌の仏子なのだ。
 彼は、一言一言に愛情を込め、誠実を込め、責任を込めて、一期一会の思いで語っていった。
 四、五問の質問を受けたあと、伸一は、会場の同志に促すように言った。
 「今日は、葛飾総ブロックの出発となりましたが、組織といっても、人間と人間のつながりです。タテ線に比べて、これまで、なぜブロックの組織が弱かったかといえば、それは、人間関係が希薄であったからです。互いに悩みを分かち合い、喜びを分かち合いながら、広宣流布をめざす、麗しく強い、人の和こそが、組織の強さです。
 創価学会といっても、それは皆さんを離れてはありません。皆さんの大ブロックが、ブロックが、そのまま創価学会です。そこが歓喜にあふれでいるか、功徳に満ちているか、温かい人間の交流があるか――それ以外に広宣流布の実像はありません。創価学会も、広宣流布も、どこか別の遠い世界にあるのではない。それは、皆さんの日々の活動のなかに、さらに言えば、皆さん自身の生き方のなかにあります。
 どうか、『私が創価学会の代表です』と言える一人ひとりになってください。また、最高のブロック、大ブロックをつくってください。自分の担った分野で、最高のものをつくりあげていく――それが、戸田先生との共戦の姿であり、弟子としての戦いです。やろうじゃありませんか!」
 伸一の指導は、参加者を奮い立たせていった。割烹着姿の婦人も、油の染みついた作業服の青年も、どの顔も紅潮していた。そして、決意に輝いていた。
 「最後に、私たちが戦いを起こすうえで、最も大切なものは何かを述べておきたいと思います。それは勇気です。朝起きるにも、勤行をするにも勇気が必要です。また、悪いことを悪いと言い切るにも、折伏をするにも、勇気がいります。人生も、広宣流布も、すべては勇気の二字で決まってしまう。
 信心とは、勇気の異名です。どうか、勇気をもって、自分の弱さに勝ち、宿命に打ち勝ってください。そして、『私は、こんなに幸せだ』と言える境涯になろうではありませんか。それが、戸田先生の願望です」
 心に染み渡るような指導であった。
 「それでは、元気いっぱいに戦って、また、お会いしましょう!」
 伸一は、こう話を結んだ
 葛飾総ブロック結成大会は、喜びのなかにその幕を閉じた。会場を後にする人びとの足取りは軽く、胸には、希望のかがり火が赤々と燃えていた。葛飾にブロックの模範を――これが、その日以来、葛飾の同志の合言葉となったのである。
 伸一は、青年部の室長として、全国各地を東奔西走しながら、月数回のブロックの日には、勇んで葛飾にやって来た。
 当時、ブロックの日は、毎週水曜日になっていた。伸一は、そのつど、指導会、座談会、御書講義と、全力で奔走した。時には、自転車を借りて、駆け巡ることもあった。
 彼は、言うのであった。
 「私は、皆さんにとっては、『水曜日の男』だね。水曜には葛飾で元気を取り戻して、また、タテ線に行って、力いっぱい頑張ろうよ」
 また、伸一は、会合のあとには、必ずといってよいほど、家庭指導に回った。家庭を訪ねれば、その人の生活の様子がわかる。家庭内の深刻な悩みを知ることもできよう。また、会合では見ることのできなかった、人間の素顔を見ることもできる。それらを知らずしては、一人ひとりに対する適切な指導の手を差し伸べることはできない。
 この家庭指導を重ねていくなかから、心と心が解け合い、結ばれ、創価の同志の金剛不壊の絆が固く結ばれていく。ゆえに、家庭指導のない組織には、真の団結も生まれることはない。
 伸一は、仕事や家族のことなどを尋ねながら、十分に相手の話を聞いた。そして、悩める人には勇気を、迷える人には確信を与え、全精力を注いで激励していった。
 また、幹部の家を訪問した時は、家族に、ねぎらいと励ましの言葉をかけることを忘れなかった。幹部としての存分な活躍ができるのは、家族の協力が必要だからである。特に妻が幹部である場合には、夫に丁重に礼を述べ、心から感謝の意を表した。
 仏法が人の振る舞いを説くものである限り、感謝の心をもち、礼儀と常識をわきまえることは、信仰者の必須の要件であり、そこから共感の輪も広がっていく。
 伸一は、自ら家庭指導を実践し、範を示しながら、その大切さを訴えていった。
 「会合に出席している人だけが学会員ではありません。出たくとも、仕事など、さまざまな事情で参加できない人もいる。
 また、悩みをかかえて悶々として、信心の喜びさえも失せ、会合に出席する気力さえ、なくなってしまった人もいるかもしれない。
 その人たちにこそ、最も温かい真剣な励ましが必要なんです。
 もし、会合の参加者にのみ焦点を合わせ、組織が運営されていくなら、本来、指導の手を差し伸べるべき多くの人を、見落としてしまうことになる。
 ひとたび、組織の責任者の任命を受けたということは、戸田先生の大事な弟子を、先生からお預かりしたということです。その人たちを悲しませたり、退転させてしまうようなことがあっては、絶対になりません」
 伸一の意識は、むしろ、会合に参加できなかった人に向けられていたといってよい。彼は、会合終了後の家庭指導こそが、勝負であると心に決めていた。そして、同志が元気になり、希望と勇気をもてるためには、どんなことでもした。共に記念のカメラに納まるととも、色紙に励ましの言葉を揮毫して贈るとともあった。さらに、寸暇を惜しんで、激励の手紙を書いた。
 信心とは希望である。同志である会員に、大いなる希望を与えてこそ、真実の仏法のリーダーといえる。
 同志は、一歩、社会に出れば、冷たく厳しい世間の風にさらされながら、必死に生き、戦っている。そうであればあるほど、学会は、兄弟、姉妹、家族以上の思いやりにあふれた、温かい同志愛の世界でなければならないと、伸一は思った。
 彼の行くところ、どこでも明るい対話の花が咲いた。その対話のなかから、新たな創意工夫が生まれていった。
 たとえば、勤行の正しい仕方を教えられていない会員が数多くいることを語り合ううちに、勤行の仕方を書いた手引を、印刷して配布するという案が出され、直ちに実行に移された。
 一人ひとりの心に兆した強い責任感は、智慧を生み、創意と工夫とを育んでいくにちがいない。
 伸一は、懸命に動いた。自分が動いた分だけが、広宣流布の前進につながるというのが、これまでの戦いを通して、彼がつかんだ確信であった。
 会合終了後、家庭指導をして、自宅に帰ると、深夜になることも少なくなかった。葛飾区内といっても、場所によっては、大田区の自宅まで、二時間近くを要したのである。
 しかし、彼は、丈夫ではない自らの体をかばおうとも、労を惜しもうともしなかった。広宣流布の新時代の幕を開くために、この葛飾に、ブロックの模範を築き上げることが、自分に課せられた使命であると、強く、深く、決意していたからである。
11  山本伸一が、葛飾の同志と語り合うなかで実感したことは、戸田城聖や本部を身近に感じている人が、極めて少ないということであった。何かあれば本部へ、という雰囲気が之しいのである。
 葛飾は、東京二十三区のなかでは、地理的にも学会本部から遠いことは確かである。しかし、問題は決してそれだけではなかった。同志の多くは、自分たちの上には、支部長や地区部長など、幾重にも幹部がいるのだから、直接、本部を訪ねたりするのは、恐れ多いことであり、控えるべきであるとの思いをいだいてきた。
 つまり、会員と本部とを隔てる、心の壁ができているのである。支部中心のタテ線の活動が定着していくにつれて、いつの間にか、一人ひとりが本部に直結していくという意識が、薄らいでいってしまったのであろうか。
 もし、幹部が会員の上に君臨して組織を私物化し、会員が、師を求めて、本部に行くことも樺るような組織であれば、戸田の精神とは、全くかけ離れた、硬直化した官僚組織であり、広宣流布を阻害するものとなってしまう。
 学会の広宣流布への原動力は、一九五一年(昭和二十六年)五月三日、戸田城聖が第二代会長に就任した日の、あの七十五万世帯への大師子吼にほかならない。「七十五万世帯の折伏は、私の手でいたします」と、一人立った戸田の決意と確信に触れ、全同志がそれに相呼応することによって、広宣流布の未曾有の伸展があったのである。
 つまり、戸田城聖の広宣流布への一念こそが、学会の戦いの電源であり、それにつながることによって、戦いの歯車は、勢いよく回転してきたといってよい。
 伸一は、同志の心に立ちはだかる壁を、まず、取り除かなければならないと思った。
 彼は、懇談のたびごとに訴えていった。
 「組織を図に表す時には、便宜上、ピラミッド型にしますが、それは精神の在り方を示すものではありません。学会の組織の本義からいえば、戸田先生を中心にした円形組織といえます。皆さんと戸田先生との間には、なんの隔たりもありません。皆さん方一人ひとりが、その精神においては、本来、先生と直結しているんです。
 戸田先生は、『会員は会長のためにいるのではない。会長が会員のためにいるのだ。幹部もまた同じである』とよく言われますが、皆さんのために先生はいらっしゃる。
 ですから、ブロック長の皆さんであれば、月々のブロックの活動を、お手紙で報告してもよいでしょうし、自分自身のことや、家庭のことを報告することもかまいません。誰にも遠慮などする必要はないんです。皆さんは、戸田先生の弟子ではありませんか。
 また、私も、なるべく本部に行っているようにしますから、私を訪ねて、どんどん本部に来てください。幹部のための本部ではなく、会員のための、皆さんのための本部なんですから」
 伸一は、それから、幹部の在り方について、語っていった。
 「皆さん方一人ひとりを、直接、指導してさしあげたいというのが、戸田先生のお気持ちです。しかし、時間的にも、それは不可能なので、先生のパイプ役として、私が葛飾に来ているんです。
 ですから、皆さんのことは、逐一、戸田先生にご報告し、一つ一つ私が指導を受けております。幹部は、どこまでも、先生と会員をつなぐパイプなんです。
 したがって、幹部は、同志を自分に付けようとするのではなく、先生にどうすれば近づけられるかを、常に考えていくことです」
 伸一自身、そのために、戸田の了解を得て、学会本部で葛飾の大ブロック長会を開くなど、ありとあらゆる努力を払っていったのである。
 学会の強さは、戸田城聖と一人ひとりの同志との精神の結合にこそあった。広宣流布の大願に生きる、戸田との共戦の気概が脈打っていない組織であれば、それは、もはや、烏合の衆に等しいといえよう。
 葛飾の同志は、次第に戸田を、そして、本部を身近に感じ始めるようになった。彼らは自らの心のなかに、戸田城聖の息づかいを感じ、戸田の指導を、自分に対する指導であると、思えるようになっていった。そして、一人、また一人と、己心の戸田に誓い、その誓いを果たすべく、自発的に戦いを開始したのである。
 伸一の戦いは、時間との戦いでもあった
 限られたブロック活動の日を使って、一人でも多くの会員と会い、信心の覚醒を促すことは容易ではなかった。
 しかも、そのうえ伸一は、そのころ、『大白蓮華』誌上に七回にわたって「男子青年部の歩み」を執筆していた。画板を携えて歩き、活動のなかで、わずかな時間を見つけては、画板を机代わりに原稿を書いた。そして、さらに夜更けに、自宅で原稿用紙に向かう日が続いていた。
 青年部の室長としての激務のうえに加わった葛飾での戦いは、彼の疲労をいたく募らせ、微熱にさいなまれた。
 しかし、伸一は、ますます闘志を燃やし、祈りには一段と力がこもった。
 活動から拠点に戻ると、彼は真っ先に仏壇の前に座り、唱題に励んだ。同志のトラックに乗せてもらい、会場から会場に移動する間さえも、心のなかで題目を唱え続けたのである。一分一秒の時間を惜しんでの唱題であった。
 葛飾の総ブロック長としての伸一の戦いは、戸田城聖が逝去し、伸一が会長に就任する前年の五九年(同三十四年)七月まで続けられた。
 伸一によって、一人ひとりの同志に植えられた信心の苗は、幹を伸ばし、大きく枝を茂らせ、葛飾は六〇年(同三十五年)の十二月、三総ブロックに発展している。
 山本伸一が、葛飾総ブロック長として活動を開始し始めて間もないある日、戸田城聖は伸一に言った。
 「伸一、また、君の朝の授業を始めよう。将来のために、私は、もっと多くのことを教えておかなければならないと思っている。君を、世界一流の大指導者に育て上げるのが、私の責任だからな」
 戸田は、彼の事業が不振に陥り、その再建のために、伸一が夜学に通うことを断念せざるを得なかった五〇年(同二十五年)ごろから、ほぼ毎朝、伸一のために、さまざまな分野の学問の講義を続けてきた。しかし、ここしばらく、朝の授業は中断されていた。広宣流布の伸展にともない、会長として、戸田のなすべきことが激増し、伸一への講義の時間が取れなくなったためである。
 今も、戸田の忙しさは、決して変わってはいなかった。しかも、彼の肉体は、間違いなく衰弱しつつあった。その戸田が、また再び、朝の講義を行おうというのである。
 「しかし、それでは先生のお体が……」
 伸一が言うと、戸田は答えた。
 「そんなことは、君の心配することではない」
 驚くほど厳しい口調であった。
 それから戸田は静かに、胸の思いを吐露するように言うのだった。
 「伸一、私は人間をつくらなければならないのだよ。広宣流布を成し遂げる本当の後継者を。命をかけても、私は、それをしなければならぬ。伸一、学べ。すべてを学んでいくんだよ」
 烈々たる気迫のこもる言葉であった。
 伸一は、「はい!」と言うと、深く頭を垂れた。
 戸田の限りなく大きな慈愛に胸が締めつけられる思いがし、目頭が熱くなった。
 真剣勝負の朝の授業が再び始まった。
 戸田は、死力を振り絞るようにして、講義を続けていった。彼の授業は、歴史の話から政治、経済、文学へと広がり、哲学にいたり、さらに、仏法の眼から、それらの事象をいかにとらえるかに及んだ。縦横無尽な広がりをもち、それでいて深遠な講義であった。
 日ごと、戸田は伸一の顔を見ると、「昨日は何の本を読んだか」と、厳しく尋ねた。
 窓から差し込む朝の光のなかで、師は一人の愛弟子に、自らの知識と、智慧と、思想と、魂とを注いでいった。
 伸一は、師の白熱の慈愛を浴びる思いで、感動に打ち震えながら、一心不乱に学びに学んだ。戸田は、彼の後継の、分身ともいうべき山本伸一の大成の総仕上げのために、命を削るようにして、最後の薫陶を開始したのである。

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