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日蓮大聖人・池田大作

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涼風  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
2  一九五七年(昭和三十二年)八月十三日、戸田城聖は、浅間山の鬼押出に立っていた。黒褐色の奇岩が連なるとの鬼押出は、一七八三年(天明三年)、浅間山の大噴火によって噴き出した溶岩の跡である。
 戸田城聖は、この夏、東京の盛夏の暑熱を避けて、軽井沢に滞在していた。
 彼は、自身の体調の異変に気づいていた。例年になく、東京の暑さが耐えがたいのであった。体力の衰弱を察知した彼は、八月上旬、夏季講習会を終えると、家族を伴い、軽井沢にやって来た。彼にとっては珍しいことであった。
 戸田は軽井沢に来て、数日ほどたったころ、東京へ電話をかけ、山本伸一に、こちらに来るように伝えた。彼は、大阪の事件での、伸一の労苦をねぎらってやりたかったのである。
 伸一は、八月八日から十四日までの一週間にわたって実施された夏季ブロック指導で、東京・荒川区の最高責任者として指揮を執っていた。その渦中ではあったが、戸田の電話を受けると、直ちに、軽井沢に向かった。伸一も、数日後に、戸田と訪問することになっていた北海道での諸行事などについて、決裁を受けたいことがあった。
 彼は、戸田の了解を得て、森川一正と一緒に、軽井沢にやって来たのだ。
 鬼押出の荒涼たる景観に見入る戸田の傍らには、伸一と森川がいた。二人は深く息をついて、無言のまま、地獄を思わせる奇岩を眺めていた。
 戸田は、二、三日前にも、ここに来ていたが、伸一たちにも、ぜひ、との景観を見せてやりたいと思い、ホテルから車を飛ばしてやってきたのだった。
 浅間山の頂には、淡い噴煙が立ち上っているのが見えた。その山頂から、黒々とした奇怪な溶岩が、幾重にも山腹を覆っている。
 「これは、自然界における地獄界の痕跡といえるだろう。この景観を見て、君たちはどう思うかね」
 戸田は、二人の青年に語りかけた。
 「すごいですね」
 森川は、こう言ったきり、次の言葉が続かなかった。
 「大自然の猛威を痛感します。私は、噴火のなかで、人びとがなす術もなく逃げ惑う姿を想像しながら、『立正安国論』を思い起こしておりました」
 伸一が答えた。
 「そうか。大自然の不可思議な現象も、仏法に照らしてみれば、すべて明らかになるものだ」
 戸田は、静かに言うと、奇岩の間を縫うように歩きだした。二人の青年は、彼を両側から支えるようにして、ついて行った。戸田の足取りは弱く、どことなく、おぼつかなかった。あの昔日の堂々とした彼の闊歩を見ることは、既にできなかった。
 空は晴れ、西に傾いた夏の太陽が照りつけていたが、山の中腹だけに大気は涼しく、風はさわやかであった。
 浅間山の大噴火が起こったのは、一七八三年(天明三年)のことであった。
 この年、旧暦の四月九日に噴火が始まり、その後、断続的に爆発を繰り返していたが、七月に入ると、噴火は激しさを増し、七日から八日にかけて大爆発を起こしたのである。大音響とともに火口は火煙を噴き上げ、灼熱の火砕流が流れ下り、瞬く間に上野国吾妻郡の鎌原村をのみ込んでいった。
 このため、高台に立つ観音堂の五十段の石段のうち、十五段を残して、村ごと火砕流に埋もれた。村人四百数十人が死亡し、生き残った者は、この観音堂に避難していた人など、わずか百人前後にすぎなかったといわれる。
 さらに、火砕流は吾妻川に流れ込み、川をせき止め、やがて、川が氾濫して大洪水を引き起こしていった。火の燃える泥流が煙を上げて流れ、空は黒煙に覆われ、降り注ぐ焼けた石と灰……。逃げ惑う人びとの姿は、この世の地獄絵さながらであったにちがいない。
 浅間山の噴火による死者は、幕府の正史である『徳川実紀』によれば、およそ二万人とされている。そして、この火砕流に続いて流れ出た溶岩流が固まってできたのが、鬼押出である。
 降灰は江戸にまで及び、農作物に甚大な被害を及ぼした。さらに噴き上げた火山灰は空を覆い、太陽の光をさえぎった。
 この年は、アイスランドの火山の大噴火なども起こっており、ヨーロッパや北アメリカで、異常気象が凶作をもたらしていた。
 日本でも、前年の八二年(同二年)から、冷害が各地を襲い、飢饉が広がった。天明の大飢饉と呼ばれるものである。浅間山の噴火は、その大飢饉に追い打ちをかけるものとなったのである。
 この大飢饉で、津軽藩では餓死者八万人余、南部藩でも四万人余を出した。冷害、長雨による凶作は、八八年(同八年)まで続き、全国の各藩で、一撲や、打ちこわしが、相次いで起こっている。
 ヨーロッパでも、異常気象が数年にわたって続き、農作物に深刻な影響をもたらした。蔓延する飢餓と貧困は、あの八九年のフランス革命の遠因にもなったといわれる。天明期は、異常気象や火山の大噴火など、自然界の異変が、地球的規模で人間社会を脅かしていた時代であった。
3  戸田城聖は、近くの岩石の上に腰を下ろした。鬼押出は、いつしか夏の夕焼けにつつまれていた。夕映えの空にそよぐ、涼風が心地よかった。
 戸田が言った。
 「何か、私に聞いておきたいことがあったら、遠慮しないで聞きなさい」
 森川一正が、口を聞いた。
 「先生、御書には『万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず』と仰せですが、広宣流布の暁には、こうした噴火なども起こらなくなるのでしょうか」
 「山も、成・住・壊・空という変化を繰り返しているのだから、その過程で噴火を起こすことは、なくなりはしないだろう。しかし、たとえ、噴火を起こしたとしても、それによって、民衆が苦しむという事態を、避けることはできるはずだ」
 浅間の山肌は、薄紫に染まり、山頂から立ち上る淡い噴煙は、東になびいていた。
 噴煙の流れを見ながら、戸田がつぶやいた。軽井沢では、浅間の山頂に西風が吹き、煙が東に流れれば、翌日は晴れるといわれる。
 戸田は、二人の青年に言った。
 「ほかに、何か聞きたいことはないかね」
 伸一には、疲弊しながらも、愛する弟子のために、力を振り絞るようにして、仏法の法理を語り説こうとする戸田の慈愛が、痛いほど胸に染みた。
 伸一が尋ねた
 「先生、自然災害の脅威もさることながら、現代では、戦争などの人災の方が、はるかに大きな脅威になってきているのではないかと思います。
 なかでも最大の脅威は、原水爆ではないでしょうか。広島や長崎の原爆で命を失った人の数は、近年の火山の噴火や台風などの犠牲者の比ではありませし……」
 戸田の目が光った。
 「そうだ。そうなんだよ。私も、最近、この問題について、考え続けているんだよ。今や世界の大国は、核実験を繰り返し、熾烈な競争をしているだけに、このままいけば、原水爆は、人類を滅亡させ、地球を破滅させることにもなりかねないだろう。
 仏法は、人類のため、全世界の民衆の幸福のための大法だ。そうであるならば、人類のかかえる課題の一つ一つは、そのまま仏法者の避けがたいテーマとなるはずだ。なんとしても、原水爆の廃絶への道を開かねばならぬ。そこに創価学会の使命もあるんだよ。
 私は、この決意を、青年諸君に託しておかなくてはならないと思っている」
 その言葉には、底知れぬ深い決意が秘められていた。
 戸田は、待たせてあった車の方に向かって歩きだした。真っ赤な夕日が、辺りをつつんでいた。吹き抜ける風は、肌寒さを感じさせた。
 三人は、車に乗ると、戸田が滞在しているホテルに向かった。
 戸田は、二人の青年と共に、ホテルの食堂で食事をしようと思った。しかし、ホテルに着いてみると、夕食時だけに、食堂は人で賑わっていた。
 戸田は、部屋に食事を取り寄せることにした。体力の衰えを感じていた彼にとって、食堂の混雑は耐えがたかったからである。
 伸一は、食事をしながら、当面する地方指導について、戸田の指示を仰いだ。
 やがて話題は、発刊されて間もない、戸田が妙悟空のペンネームで書いた小説『人間革命』に及んだ。
 戸田は、興味深そうに尋ねた。
 「君たちの感想はどうかね」
 森川が即座に答えた。
 「はい、面白く読ませていただきました。巌さんの生き方に感動いたしました」
 伸一は、なぜか黙ったままだった。戸田は、伸一に顔を向け、答えを促すように口をつぐんでいた。
 伸一は、戸田の書いた小説『人間革命』を心の糧としながら、獄中生活を送った直後だけに、その感動を、どうまとめ、表現したらよいのかに手間取っていた。しかし、胸の思いを紡ぎ出すように、語り始めた。
 「聖教新聞に連載中も読ませていただきましたが、本になって初めて目を通したのは、あの大阪に向かう飛行機の中でした。時が時なので、身につまされながら夢中で読みました。その時の思いは、感動などと簡単に言えるものではありません。一通り読み終わった時には、使命に殉ずる勇気が、体から、ふつふっと、たぎり立ったのを覚えております」
 あの飛行機の中で読んだ『人間革命』が、二週間にわたる伸一の勾留中、どんなに彼を鼓舞したか、計り知れなかった。伸一は、戸田自身の体験である主人公の巌さんの獄中生活を思い起こし、戸田を身近に感じながら、勇気を奮い起こしてきたのだった。
 「前半の巌さんは、先生そのものではなく、愉快な小説上の人物像として読ませていただきましたが、後半になると、巌さんは、先生そのものとなって胸に迫ってまいりました。特に、あの獄中の強烈な体験は、読んでいて、身動きができなくなるような思いでした。そして、どこまでも師を思う巌さんの姿から、牧口先生と戸田先生の、生命と生命の結合ともいうべき、師弟の関係に深く感銘しました」
 「そうか……」
 戸田は笑いながら、注文したウイスキーを、うまそうに飲んだ。
 伸一は嬉しかった。戸田が、うまそうにウイスキーを飲んでいるのは、健康が回復しつつあることの証明であったからだ。
 開け放たれたホテルの窓から入る、風がさわやかだった。
 戸田は、愉快そうに話を続けた。
 「私は、自分が体験し、会得したことの真実を、皆に伝えたかっただけだよ。小説という形をとったのは、真実を描くには、その方がむしろよいと思ったからだ。これは難しい問題だが、事実と真実というのは違うからな」
 森川一正が、怪訝そうな顔をした。戸田は、すかさず森川の方を見ながら言った。
 「森川君、人間の網膜に映った事実が、必ずしも真実であるとは限らないものだよ。たとえば、貧しい人に大金を恵んだ男がいたとしよう。彼が施しをしたということは、まぎれもない事実だ。ある人は、その事実から、この男は情け深い奇特な人であると考えるだろう。
 しかし、必ずしも、そうとは限らない。将来に、なんらかの見返りを期待しての、計算ずくの行為であったのかもしれないし、あるいは、誰かの歓心を買うために行ったことかもしれないではないか。
 つまり、事実から、真実をどう読み取るかだよ。事実だけに目を奪われてしまうと、かえって、真実が見えなくなってしまう場合もある。
 私は、この小説で、人間の究極的な真実は、広宣流布の尊い使命をもった仏子であることを、描こうとしたんだ。巌さんは架空の存在だが、巌さんが獄中で会得した境地は、私の心そのままだよ。
 私が、巌さんという平凡な一庶民を主人公にしたのは、その方が、誰もが等しく広宣流布の使命を分かちもった仏子であることが、よくわかると思ったからだ」
 伸一は、感慨無量であった。
 ″人間や社会の、真実の一断面を描いた小説は多い。しかし、仏法で説く究極の真実に迫った小説は、『人間革命』のみであろう″
 戸田は、深い感慨を込めるように、言葉をついだ。
 「誰もが等しく仏子であり、また宝塔であるというのが、日蓮大聖人の大精神なんだよ。それゆえに、万人を救い得る真の世界宗教といえるのだ。
 そして、大聖人は、全人類を救済するために、大慈大悲をもって、御本尊を御図顕あそばされた。目的は、民衆の幸福だ。この点を見失えば、日蓮正宗も権威のための宗教になってしまうだろう。
 あの七百年祭で、笠原慈行に、『神本仏迹』の誤りを認めさせ、謝罪状を書かせた時、宗会は、私の大講頭職を罷免し、登山を禁じた。邪義を唱えた悪侶をただしたことによってだ。謗法厳誠の精神を貫こうと、僧侶の過ちを、信徒が問いただしたことが、罪であるとしたのだ。
 しかも、登山停止という、信仰心を逆手にとって屈服を迫る、最も卑劣な手段に出た。日蓮大聖人の大御本尊御建立の御精神を踏みにじり、権威主義に毒された行為という以外にない」
 戸田の話を聞きながら、伸一は、二年半ほど前に大阪で起こった蓮華寺事件のことを思った。蓮華寺の住職が、学会への嫉妬からか、学会員が受けた御本尊を返納せよと言いだした事件である。
 「あの蓮華寺事件も、それに通じますね」
 伸一が言うと、戸田は頷きながら語った。
 「そうだ。大聖人は『第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり』と仰せだが、高僧のなかに蓮華寺の住職のような心根の者が増え、宗内を動かすようになれば、広宣流布は大きな危機に陥ることになる。
 私が、『人間革命』を書いたもう一つの目的は、もしも、大聖人の御精神が踏みにじられるような事態になった時、まことの信仰者として、どう生きるかを、ただ一人、宗門に国家諌暁を主張された恩師の姿を通して、皆に教えておきたかったことだよ」
 戸田のメガネの奥の目が、キラリと光った。彼の声は、熱気を帯びていった。
 「牧口先生は、宗門から、『神札を受けるようにしてはどうか』と言われた時、決然と拒否されたことは、君たちも知っているだろう。それは、大聖人の御精神が滅びるのを恐れたからだ。『時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事』との御精神のゆえに戦われたのだ。
 戦わずして、仏法が滅びるのを、指をくわえて見ていてなるものか。牧口先生は、御本仏の大精神に殉ぜよということを、お教えくださったんだよ。先生の死の意味を、決して忘れてはならない」
 戸田は、それから照れたように言った。
 「ところで、私が『人間革命』を書いていて感じたことは、牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先に立って、できないということだよ」
 戸田は、グラスに注いだウイスキーを飲み干した。
 「伸一君、私は、『人間革命』を書いていて思ったんだが、信仰という人間の内面世界を語るためには、どうしても、小説という手法をとらざるを得ない面があるな。
 私の獄中の体験も、以前、『創価学会の歴史と確信』に書きはしたが、小説でないと、細かい内面の描写はできないものだ。
 これは創造だが、もし、日蓮大聖人が、今日、生きておられたなら、小説の手法を用いられた御書も、残されていたのではないだろうか」
 伸一は、機嫌よく小説談義を交わす戸田を目の当たりにして、安堵していた。北海道に似た軽井沢の涼風が、戸田の健康のためには、よかったのであろう。
4  伸一は、戸田の話を聴きながら、ある思いが、激しく込み上げてきた。
 ″先生は、ご自分のことは、書けないと言われた。では、誰が先生の真実を後世に書き残すのか″
 伸一は、かつて、戸田の事業が暗礁に乗り上げた時、多くの同志が戸田に見切りをつけ、彼のもとを去って行ったことを思い出していた。
 ″あの時、私は、先生に、お仕えし抜き、先生の真実を知った。先生に脈打つものは、広宣流布への、強い、強い、一念であった。しかし、それを誰も知ろうとしなかったし、わからなかったのだ。先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の、私への期待であり、弟子としての私の使命であろう″
 伸一は、この時、彼の生涯にわたる仕事として、不世出の広宣流布の指導者・戸田城聖の真実を伝え、永遠に顕彰しゆくことを、固く、強く、心に誓ったのである。
 その夜、伸一は、床に就いてからも、戸田の言葉が思い起こされ、なかなか寝つくことができなかった。
 彼は、戸田城聖に出会い、信心を始めて間もない十九歳の時に、戸田の生涯を書き残したいと思ったことがあった。軍部政府の弾圧と戦い、民衆の救済に立ち上がった一人の偉人の存在を、後世に伝えたいと考えたのである。
 さらに、一九五一年(昭和二十六年)春、聖教新聞発刊の直前に、新聞連載のために戸田が書いた、小説『人間革命』の原稿を見せられた時、いつか、この続編を自分が書かねばならないと感じていた。
 しかし、そうした構想は、まだ、茫漠としたものにすぎなかった。
 そして、五四年(同二十九年)夏、戸田の故郷である厚田の港に立った時、その決意は、不動のものになっていった。
 今、伸一の脳裏には、戸田城聖と共に厚田村に赴いた日のことが、懐かしく思い返されてならなかった。
5  それは、夏季地方指導の折のことであった。八月十日、伸一は、戸田と札幌へと向かった。伸一にとっては、初めての北海道行きであり、忘れ得ぬ師弟旅であった。
 伸一は、八月二十日まで、札幌を中心に折伏戦を展開したが、その間に、戸田と一緒に、厚田村を訪れたのである。戸田は、夏季地方指導の激闘のさなかではあったが、伸一に、自分の故郷の厚田村を、なんとしても見せておきたかったのだ。
 札幌から車で石狩町まで行き、石狩川の河口を船で渡り、さらに荒涼とした原野を一時間近く車で走ると、厚田に着いた。
 そこは、断崖が連なり、日本海の荒波が打ち寄せる磯辺の村であった。彼らが、戸田の親戚が経営する、厚田港に近い戸田旅館に着いたのは、午後三時過ぎであった。
 伸一は、戸田が旅館で一休みしている間に、一人で散策に出かけ、厚田港に立ち、恩師を育んだ海の大気を、胸いっぱいに吸い込んだ。宿に戻ると、戸田は、「わが家を見に行こう」と言いだした。
 厚田川のほとりに立つ、木造の質素な平屋建ての家が、戸田を育てた古城である。既に、その家は人手に渡っていたが、彼は懐かしそうに、家の前にたたずんだ。
 「この窓のところが、ぼくの勉強部屋だった。この部屋からは、海がよく見えるんだよ」
 戸田は、目を細めて言った。その声は、弾んでいた。
 そして、厚田川に沿って道を下り、浜辺に出た。切り立った崖が連なっていた。かつて、ニシン漁で栄えたという厚田の海には、人影はなく、陽光を浴びた浜辺には、寄せ返す波が金色に輝いていた。
 戸田は、裸足になって、ズボンの裾をまくり、波打ち際に立った。伸一も後に続いた。足もとを洗う海水の冷たさが心地よかった。
 「伸一君、これが、私のふるさとの海だよ。この海と厳しい自然が、ぼくを育ててくれたんだ」
 「戸田は、浜辺の草むらに腰を下ろすと、過ぎし日の思い出を、懐かしそうに語り始めた。
 冬の、身を切るような厳しい寒さのなかで、つらら落としをしながら春を待ち、迎えた喜び。厚田川の上流に、グーズベリーの実がたくさんあることを聞き、昆布を持って上流の農家を訪ね、好条件で物々交換ができたこと。そして、それを金に代え、父母への贈り物を買ったこと。書物も満足になく、教師の下宿にある本を借りてきでは、むさぼるように読書にふけったこと……。
 なかでも、伸一が心を打たれたのは、真谷地の尋常小学校に奉職していた戸田が、東京に出ようと決意し、別れを告げるため、厚田村に立ち寄った時の話であった。
6  ――それは、一九二〇年(大正九年)、戸田城聖が二十歳になったばかりの二月のことであった。
 真谷地から厚田に戻った戸田は、氷雪が張り出した厚田川のほとりまで来ると、足を止めた。
 川は、白く波立ちながら、日本海に注いでいた。川の対岸には、わが家が見える。彼は、懐かしさに目頭が熱くなった。しかし、なぜか戸田は、そこにたたずんだまま、動こうとはしなかった。
 戸田は、自分が東京に行くことを告げれば、父母の悲しみは、いかばかりかと思うと、家に帰ることに、にわかにためらいを覚えた。
 当時、父の甚七は六十四歳であり、母のすえは五十九歳であった。しかも、すえは三年前に大病を患っていた。彼は、いつも父母の安否が心から離れることはなかった。その父母に孝行らしいこともできず、東京に行ってしまうことが、辛かったのである。
 しかし、戸田の心は、燃えていた。
 ″父よ、母よ、私は、わが生涯の活躍の舞台を求めて、帝都・東京に行きます。そこで、この身を、社会のため、日本のため、同胞のために捧げたいのです。この不肖の息子を、どうかお許しください
 寒風に身をさらしながら、彼は心で詫びた。
 それから、大股で歩き始めた。橋を渡り、わが家の前に立つと、ガラス戸を、勢いよく叩いた。
 「ただ今、帰りました」
 玄関の戸が開けられた。
 「まあ!……」
 懐かしい母の姿である。
 予期せぬわが子の帰宅に、母は、一瞬、驚いた様子であったが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。その髪には、白髪が目立っていた。
 「おお、どうした」
 母の背後で、父の声がした。しばらく会わぬ間に、父も、めっきり老いていた。
 「東京に行くことにしましたので、ごあいさつにまいりました」
 「学校の方は、どうしたのだ」
 「辞めてまいりました。東京で人生をかけたいと思います。どうか、お許しを」
 父は黙って頷くと、静かに、しかし、力強い声で言った。
 「お前の人生だ。好きなようにするがよい」
 戸田は、久しぶりにわが家に泊まった。
 その夜、父と子は囲炉裏を囲んで、酒を酌み交わした。父は、多くを語ろうとはしなかったが、彼に、終始、笑顔を向けていた。息子の雄々しく育ちゆくさまが、嬉しかったのだ。
 「それで、出発はいつなんだ」
 父が、ポツリと言った。
 「明日にでも、発ちたいと思っています」
 「身を寄せる先はあるのか」
 「これといったところは、ありません」
 父は、愉快そうに笑った。笑いながら座を立つと、しばらくして、柳行李を手にして帰ってきた。行李のなかから、古びた一振の日本刀を取り出した。
 「何もないが、戸田家の家宝だ。持って行け」
 父の差し出す万を、戸田は、正座して、深く頭を垂れながら、両手で受け取った。刀は、ずっしりと重かった。
 「往け! 勇気をもってな」
 父の目が鋭く光った。
 戸田は、感涙をじっとこらえた。父の厳愛に、勇気が、ふつふつとたぎり立つのを覚えた。痩せて、頬の肉も落ちてしまった父が、限りなく大きく感じられた。
7  囲炉裏の傍らで、母のすえは、せっせと針仕事をしていた。さっきまでは、いそいそと食事の世話をしながら、戸田に盛んに話しかけていたが、針仕事を始めてからは、押し黙ったまま、滅多に顔を上げようとはしなかった。戸田は、その目が涙に潤んでいるのを知っていた。
 翌朝、母は、旅立つわが子に、目を赤く腫らしながら、「これを……」と言って、織物を手渡した。縫い上げたばかりのアツシであった。
 アツシとはアイヌ語の呼び名で、ニレ科の落葉高木オヒョウの樹皮の繊維で作った織物をいう。針で布地を丹念に刺してつくられた半纏である。
 母は、成人の記念に、このアツシを、わが子に贈ろうと縫い始めていたが、彼が東京に旅立つことを聞いて、夜を徹して、仕上げたのである。
 戸田は、アツシを受け取ると、それを羽織ってみた。母の顔に微笑が浮かんだが、目には、たちまち大粒の涙があふれた。
 「ありがとう。お母さん」
 母は、涙をぬぐおうともせずに、何度も、何度も頷きながら言った。
 「行っておいで。元気で……」
 それだけで、あとは言葉にならなかった。戸田は、そんな母を、力いっぱい抱き締めたかった。涙があふれそうになった。しかし、笑顔をつくると、快活に言った。
 「父さんは勇気を、母さんは愛を、ぼくにくれました。これで、何があっても大丈夫です。ぼくは負けません」
 別れの時は来た。近くに住む兄も、見送りに来た。外には雪が舞っていた。
 戸田は、あいさつをすますと、微笑を残して、雪のなかを、さっそうとわが家を後にした。
 これが、父の甚七と永久の別れとなった。父は三年後に世を去った。戸田にとって、父のくれた刀と、母のくれたアツシは、生涯の宝となった。
 ことにアツシは、東京での波瀾に富んだ困苦の生活のなかで、彼の凍てた身と心を温め、励ます、恩愛の錦織となっていったのである。
 雪の日本海の外気は、身を切るように冷たかった。しかし、彼の心には、大志が赤々と、熱く燃え盛っていた。大志は青年の命である。若人の胸に湧く青雲の志は、自身の成長を促し、飛翔させゆく原動力となる。
8  戸田城聖は、厚田の海を見ながら、この若き日の旅立ちの思い出を、山本伸一に克明に語って聞かせた。伸一は、一幅の名画を見る思いで話を聞いていた。
 太陽は、空と海を赤く染め始めた。
 「私の人生は、ここから始まったんだよ。厚田を出てから、もう三十数年になろうとしている……」
 戸田の口調は、しみじみとしていた。彼は、真っ赤な夕日の海を見ながら言った。
 「長いといえば、長い歳月だった。しかし、人生の本当の仕事を始めたのは、会長になってからだから、まだ三年だ。なさねばならないことは、あまりにも多い。人生は短いな……」
 感慨を込めた言葉であった。
 戸田は、それから伸一の方を振り向いた。
 「伸一君、ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ。構想だけは、ぼくが、つくっておこう。君が、それをすべて実現していくんだよ」
 伸一は、戸田の遺言を聞く思いで、その言葉を胸に焼き付け、「はい」と答えた。
 戸田は、笑顔で頷くと、また、海の彼方に目をやった。
 「この海の向こうには、大陸が広がっている。世界は広い。そこには、苦悩にあえぐ民衆がいる。いまだ戦火に怯える子どもたちもいる。東洋に、そして、世界に、妙法の灯をともしていくんだ。この私に代わって……」
 戸田の言葉は、激しく伸一の胸を打った。
9  その夜、戸田旅館では、村長や小・中学校の校長など、村の主だった名士や戸田の親戚など十余人が集い、食事をしながら歓談のひとときがもたれた。
 皆がそろうと、戸田は、誇らしそうに伸一を紹介した。
 「彼は、私が右腕とも、左腕とも頼む人物で、山本伸一君といいます。よろしくお願いしますよ」
 テーブルの上には、石狩鍋をはじめ、厚田の、海の幸、山の幸が並んでいた。
 食事が始まると、戸田は、伸一に盛んに石狩鍋を勧めた。
 「ぼくのふるさとの味だ。食べてみたまえ」
 伸一には、味噌の風味とサケがよく合い、このうえない美味に感じられた。
 しばらくすると、村長が言った。
 「戸田先生のおかげで、今年の正月は、村として、村民に餅代を出すことができました。また、果樹の栽培も、今、研究を進めています」
 戸田は、前年の一九五三年(昭和二十八年)夏にも、厚田村を訪れていた。その時、ニシン漁が不振で、村の財政も逼迫し、村民が生活苦にあえいでいることを耳にした彼は、少しでも生活に困窮している人の役に立てばと、心尽くしの援助をしていた。さらに、果樹栽培など、何か新しい産業の振興を考えてはと、提案もした。
 「私のわずかばかりの好意が、お役に立てて嬉しいかぎりです。村を発展させていくうえで、いちばん大切なのは創意工夫です。ただニシンの来るのを待っていたのでは、時代に取り残されてしまいますからね」
 戸田は、故郷の厚田村に、国土への恩ともいうべきものを感じていた。村が栄えるためには、できることなら、なんでもしようというのが彼の信条であった。戸田は、厚田村の未来を、真剣に考えていた。
 「村の活路を開くためには、ほかの地域は、どうしているかを学ぶ努力も大切です。しかし、ほかでやっていることを、ただまねるだけではだめでしょう。厚田の特色を生かし、厚田ならではのものを考えるんです。私も考えますよ」
 「それは、ありがたい」
 声があがった。
 「でも、まず、考えるのは皆さんですよ」
 戸田が言うと、座は笑いにつつまれた。
 話題はそれから、この年の大相撲初場所で全勝優勝を果たし、第四十三代横綱になった厚田村出身の力士・吉葉山のことに移っていった。
 「吉葉山は、たいへんな負けずぎらいです。ここ一番という時には力を発揮する。面白いもので、いざという時に力を出す男というのは、どこか楽天的なところがあります。それは、まさに厚田の、厳しくも豊かな自然が育んだ気性でしょうな」
 戸田が言うと、村長が尋ねた。
 「子母沢寛先生も、やはり、非常に楽天家であると伺っていますが……」
 『新選組始末記』や『勝海舟』などで知られる、作家の子母沢寛も、この厚田村の出身であった。同郷であるところから、戸田との親交は深く、かつて、戸田が経営していた出版社から本も出していた。
 戸田は、あの戦時下の獄中からも、子母沢寛に手紙を書き送っている。
 「私の留守中、お世話ただただ感謝致しております。勝安房守の第五巻出版の事、心配していますが、私が帰るまで一切の交渉事、不自由も腹立ちもありましょうが、お待ちください……」
 この手紙の文末には、一首の和歌が記されていた。
 「煩悩も真如の月に宿らせて、独房のふしど夢の円らか」
 彼は、獄舎にあっても、同郷の知己への心遣いを忘れなかったのだ。
 戸田は言った。
 「確かにそうです。子母沢先生は、茶目っけもあり、楽天的な人柄です。常に、そう振る舞えるのは、腹がすわっているからです。厚田村からは、まだまだ多くの人材が出ますよ。人を育てましょう。それが、何よりも村の未来につながる。やはり、教育が一切の根本になるでしょう」
 こう言うと、戸田は、小学校、中学校の校長に尋ねた。
 「今、学校で、お困りのことはなんですか」
 「そうですな。いろいろありますが、全般的に不足しているのは図書です」
 「そうですか。それでは、さっそく図書を贈らせてもらいましょう。少年時代の良書との出合いは、人格を形成するうえで、最大の精神の養分になりますからね。私の子どものころ、学校にあまり本がなくて、赴任してこられた支部はせべ貞助先生という大変な読書家がおられて、よく本を貸していただいたことを覚えています」
 戸田は、少年時代の思い出を語っていった。
 「支部先生の下宿に行くと、文学書や哲学書が本棚いっぱいに並んでいた。先生は私に、『これを、全部、読んでみたまえ。この棚の本が全部なくなるまで、君に一冊ずつ手渡そう』と約束してくださった。ありがたい先生でした。私は、先生の本を、毎日、むさぼるように読みました。それで、今日の私があると思っています。学校に図書をお贈りできれば、そのご恩返しができますな」
 戸田は、帰京後、厚田中学校と厚田小学校に図書を寄贈している。その後、創価学会の教育・文化運動の一環として行われる図書贈呈は、ここに源を発しているのである。
 村の人たちが帰っていったのは、午後十時を回つていた。
 その夜、山本伸一の脳裏には、海辺で戸田が語った一言一言が、波のように寄せ返していた。
 自身への、戸田のあまりにも大きな期待を思うと、重圧さえ感じたが、感動に胸は高鳴り、頭は冴えわたっていくのを覚えた。布団の上に横たわりながら、暗い天井を見つめて、厚田に来た師弟の旅の意味を、一人かみしめていた。
 早朝、伸一は目を覚ました。時計を見ると、まだ午前五時を回ったばかりであった。彼は起き上がると、服を着て、そっと表に出ていった。盛夏とはいえ、厚田の朝は、涼風がきわやかだった。海は朝靄のなかに、白く霞んでいた。
 伸一は、厚田港の防波堤を歩いた。砕け散る波が、時折、彼の足を濡らした。防波堤の上を、カモメが舞っていたが、近づくと、海面を滑るように飛び去っていった。
 彼は振り返り、厚田の集落を眺めた。断崖に包まれるように立ち並ぶ家々は、岩の裂け目に生える雑草のような逞しさを感じさせた。
 伸一は、真冬の厚田を思い描いた。
 ――雪をまとった、切り立った崖に押し寄せる怒濤、氷雪に覆われた川……。吹雪は横なぐりに、礫となって吹きつけ、村は陸の孤島となる。
 その村から、社会、国家の行く末を憂え、東京に出て、今、人類に平和と幸の光を注ぐ、広宣流布という未聞の偉業を成し遂げようとしている戸田を思うと、感動が彼の胸に渦巻いた。
 ″なんと偉大な人生なのか。道を塞ぐ吹雪も、あの断崖も、山も、海も、先生を封じ込めることも、大空に羽ばたく大志の翼を阻むことも、できなかったのだ″
 伸一の足もとで波浪が砕け、しぶきを上げた。
 彼は、戸田城聖の壮大な人生のドラマに思いを馳せると、ほとばしるように詩興が湧いてきた。
 伸一は、ポケットからメモ帳を取り出した。「厚田村」と書き、その横に、「恩師の故郷に憶う」と記した。
 彼の脳裏には、幼きころの戸田の映像が、鮮やかに浮かんできた。彼は、筆を走らせた。
10   
  北海凍る 厚田村
  吹雪果てなく 貧しくも
  海辺に銀の 家ありき
  これぞ栄ある わが古城
  
  春夏詩情の 厚田川
  鰊の波は 日本海
  松前藩主の 拓きしか
  断崖屏風と 漁村庭
  
  少年動かず 月明かり
  伝記と歴史の 書を読みて
  紅顔可憐に 波あり
  正義の心 鼓動楽
  
  痛まし針の 白髪に
  不正に勝てと アツシ織る
  母の祈りに 鳳雛も
  虹を求めて 天子舞
  
  暖炉に語りし 父もまた
  網をつくろい 笑顔皺
  権威の風に 丈夫は
  往けと一言 父子の譜
  
  厚田の故郷 忘れじと
  北風つつみて 美少年
  無名の地より 世のために
  長途の旅や 馬上行
11  伸一は、一気にメモに記した。帰京したら推敲を重ねようと思いながら、もう一度、読み返した。
 「征けと一言父子の譜」の一節を読み返した時、戸田と自分とが二重写しになった。そして、昨日、戸田が語った、「君は、世界の広宣流布の道を開くんだ」との言葉が、よみがえった。
 ″先生は、いや、わが父は、私に、広布の旅路を「征け」と言われたのだ。よし、征こう。「父子の譜」をつづるんだ″
 彼は、海の彼方を見た。風に黒髪がなびいた。海は朝の光に輝いていたが、水平線は靄に霞んで見えなかった。しかし、この海の向こうに大陸が広がり、東洋、中東、ヨーロッパへとつながり、その民衆が、妙法を求め、待ちわびていると思うと、伸一の心は躍った。
 彼は、胸に込み上げる無量の思いを世界に放つように、海に向かって叫んだ。
 「先生!東洋広布は伸一がいたします。世界広布の金の橋を、必ず架けます!」
 その声は、潮騒にとけ、北海の空に舞った。それは、彼の生涯にわたる世界広布の旅への、誓いの宣言にほかならなかった。
 伸一は踵を返すと、防波堤を歩き始めた。眼前に厚田の山河が広がっていた。
 ″戸田先生を育んだこの海、この山、この川を、私は心に焼き付けておくのだ。そして、先生の黄金の軌跡をとどめた、続『人間革命』を必ず書こう″
 厚田の港に立った日から三年を経て、戸田城聖の伝記ともいえる、続『人間革命』を書こうという伸一の思いは、一九五七年(昭和三十二年)八月のこの日、この夜、軽井沢の地で、さらに不動の決意となったのである。
 既に時刻は、十四日の午前零時を過ぎていた。奇しくも、戸田と山本伸一が初めて出会った時から、満十年となる記念の日であった。
12  伸一と森川一正は、十四日の午前中に軽井沢を発ち、東京に戻った。
 八月十八日、戸田城聖と山本伸一は、北海道・札幌の地にいた。青年部の第一回北海道体育大会「若人の祭典」に出席したのである。
 この大会は、全国三カ所で行われる「若人の祭典」の冒頭を飾るものであった。北海道の同志は、つい五十日ほど前には、炭労問題に対して一丸となって戦い、炭労の強硬な対決姿勢を粉砕して、意気衝天の勢いとなっていた。
 北海道の青年たちは、その炭労問題の勝利を、天下に堂々と胸を張って宣言するには、この体育大会ほど、ふさわしいものはないと考え、総力をあげて、準備にあたってきたのである。
 会場の札幌市・美香保グラウンドには、快晴の、からりとして湿気のない北海道の夏空のもとに、一万余の会員が集って来た。
 午前九時過ぎ、戸田城聖をはじめ、学会幹部が入場し、直ちに開会が宣言されるかに思われたが、突然、指導部長の清原かつから、人事の発表が行われ
 清原は、よく通る声で、まず、夕張支部が結成されたことを伝えた。
 歓声があがった。
 夕張に支部が誕生したことは、炭労問題の勝利を象徴する出来事といってよい。
 夕張支部の初代支部長には三林秋太郎が、婦人部長には三林の妻の菊子が任命になった。さらに、それにともない、男子第四十六部隊、女子第三十八部隊が創設されたことが伝えられたのである。
 戸田城聖の手から、支部旗、男女部隊旗が授与されると、嵐のような激しい拍手が、美香保の空に広がった。
 夕張支部の結成によって、北海道は、函館、小樽、札幌、旭川、そして、夕張の五支部の陣容となった。
 あの炭労問題の試練が、夕張に、烈風にも消えぬ信仰の炎を燃え上がらせ、支部の結成をもたらしたのだ。まさに、難こそが信心を深め、大いなる発展の飛躍台となることを物語っていよう。
 続いて、戸田城聖から、山際洋青年部長に、体育大会の大会旗が手渡された。この大会旗は、ブルーの地に黒で、未来を担いゆく学会青年部の意気と情熱を示す、若獅子を描いたものである。
 午前九時三十分、体育大会の開会となり、六人の青年が持つ大会旗を先頭に、入場行進が開始された。
 大会旗が掲揚され、開会が宣言されたあと、薬玉くすだまが割れ、鳩が飛び立ち、風船が空に上がった。そして、競技の開始となった。
 種目は、百メートル競走、リレー、一万メートル、マラソン、綱引きなど多岐にわたった。
 競技の多くは、部隊対抗である。各部隊は、それぞれ、鳴り物まで用意し、応援合戦を繰り広げていたが、夕張の男女両部隊は、この日、誕生をみたばかりで、応援態勢は整っていなかった。
 そのせいか、他の部隊の応援に気迫負けしたかのように、男女とも夕張の青年部の成績は振るわず、女子第三十八部隊は、午前の部が終わった時には最下位という有り様だった。
 山本伸一は、これに気がつくと、すぐにポケットマネーで、タンバリンやカスタネット、扇などを用意させた。
 「ぼくも応援するから、しっかり頑張るんだよ。今日は、夕張の出発の日じゃないか。君たちが勝てば、きっと戸田先生もお喜びになるはずだ」
 この励ましに、夕張の青年たちは燃えた。応援に力がこもった。その話を聞いた出場者たちも、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。彼らは、夕張の地で共に戦ってくれた伸一の、師子のような気迫を思い起こした。
 グラウンドには、時折、強風が吹きつけ、大会は汗とほこりにまみれての熱戦となった。
 午後の部での、夕張の同志の奮闘は、目を見張るばかりであった。ことに女子部の活躍は目覚ましく、各競技で勝ちまくり、他を抑えて、優勝にまでこぎ着けたのである。また、夕張の男子部も二位に輝いた。
 夕張の同志たちは、肩を抱き合い、躍り上がらんばかりに喜んだ。
 戸田城聖は、あいさつに立っと、喜々として呼びかけた。
 「初代会長は、青年が大好きだった。私も大好きです。皆さんの双肩には、東洋の指導者として、人材として立っていく責務がかかっている。今日、北海道の青年の姿を見て、大いに頼もしさを感じている。日本民衆の先駆けとして立っていくことを願って、私の話としたい」
13  この日、夕張支部の支部長となった三林秋太郎は、札幌から夕張に帰ると、直ちに支部結成大会の準備と、会場の確保に奔走した。夕張では八月二十日に、新寺院の興隆寺の落慶入仏式が挙行されることになっていた。そこに突然、夕張支部結成大会も、同じ二十日に開催されることが決定したのである。
 翌十九日朝には、札幌にいた青年部の幹部がやって来て、結成式の準備状況を尋ねた。しかし、肝心の会場の確保は、まだ、できていなかった。
 三林は、青年部幹部と共に結成式の会場を探して、市内を歩き回った。公共の建物、個人が所有する劇場、グラウンドや休耕地の畑や空き地まで交渉したが、炭労問題のあとだけに、一カ所として、学会のために会場を貸そうというところはなかった。
 夕張という炭鉱の町にあって、学会に便宜を図り、炭労を敵に回すことを、誰もが恐れていたのである。
 時間は、既に昼近くになりつつあった。三林は困惑し、青年部の幹部にすがりつくように言った。
 「いったい、どうすればよいでしょう」
 「困りましたね……。そうだ、興隆寺の落慶入仏式は何時からですか」
 「午後の一時です」
 「午前中、お寺で支部の結成大会をやるようにしたらどうですか。人数は、あまり入らないかもしれないが、こうなったら仕方ないでしょう。ともかく、この件を山本室長に報告しましょう」
 二人は、急いで伸一がいる札幌の会員の家に向かった。
 三林は、伸一に、口ごもりながら奔定の結果を報告し、やむなく、午前中に興隆寺で結成大会を行う予定であることを告げた。伸一は、黙って三林を見つめた。その目は鋭かった。そして、顔を伏せがちな三林に向かって言った。
 「とんでもないことです! 三千世帯を超える夕張支部の結成大会の会場としては、小さすぎます」
 厳しい、大きな声であった。周りにいた青年たちも、一斉に伸一と三林を見た。
 「会場を貸してもらえないから引き下がり、安易な方向に流れようというんですか。夕張でいちばん大きくて、皆が集まりゃすい所を必ず借りなさい。あなたの初陣ではないですか。絶対に借りるという強い一念がないから、会場ひとつ決まらないんです。
 そんな惰弱な姿勢では、支部の発展もあり得ないし、魔を打ち破り、同志を幸福にしていくことなどできません。広宣流布のために、会場が欲しいという強い一念があれば、会場は、すぐに見つかります。また、やがては、その会場を、あなたのものにすることだってできるんです。それが仏法です」
 三林は、伸一の叱咤に驚いたが、自分の生命の根本的な傾向性を、指摘されているように感じられた。確かに、炭労問題に臨んだ伸一の行動や気迫を思うと、自分の一念は、支部長としては、あまりにも弱々しいものであることを痛感せざるを得なかった。
 「三林さん。これからは、あなたが、夕張の同志を守っていかなくてはならないのです。強くなるんです。弱い自分を乗り越えるんです。さあ、今すぐに夕張に戻って、会場を見つけなさい」
 伸一の言葉は、三林の胸に突き刺さった。彼は、「はい」と返事をすると、夢中で部屋を飛び出し、夕張に帰った。
 伸一は、三林に、支部長としての一念の大切さを、打ち込んでおきたかったのだ。広宣流布の道には、常に逆風が吹き荒れている。それを突き破り、一人立つところから広宣流布の伸展は始まる。
 中心者が状況に妥協し、流されてしまえば、活路など切り開くことはできない。また、そうなれば、そのもとにいる同志も、現状に追随するだけの、惰弱な信心に陥ってしまう。
 それでは、広宣流布も進まなければ、自身の境涯を開くことも、宿業を転換していくこともできない。結局は、中心者の一念の弱さから、会員を不幸にしていってしまうことを、伸一は教えたかったのであった。まして夕張は、炭労問題は、ひとまず山を越したものの、まだまだ苦境下での戦いを余儀なくされている。それを考えると、三林の奮起を促さずにはいられなかったのである。
 夕張に着いた三林は、その足で真っすぐ、夕張でいちばん大きな映画館に向かった。午前中に青年部の幹部と共に訪れ、すげなく断られたところである。
 事務所に行くと、支配人が金庫を背にして、事務机に向かって仕事をしていた。
 「もう一度、お願いに来ました。どうか、この映画館を、明日の午前中、貸してほしいのです」
 「うちはだめだよ。貸せないね」
 支配人の態度は、朝と同じように、そっけなかった。しかし、三林の気迫は、朝とは全く違っていた。
 「どうして、学会には貸していただけないのでしようか。その理由を言ってください」
 「だめなものは、だめだよ。しつこいね、あんたも……」
 けんもほろろの対応である。しかし、三林は、そのまま頭を上げようとはしなかった。にわかにコンクリートの床の上に正座すると、両手をついて、深々と頭を下げた。
 「お願いです。ぜひ貸してください」
 支配人は、驚いてイスから立った。
 三林は、そのまま頭を上げようとはしなかった。
 ″借りる、是が非でも俺は借りる!″
 彼の決意は固かった。
 土下座する三林の目から、涙がしたたり、コンクリートの床の上に落ちた。彼は、無我夢中であった。
 支配人は、三林の前に来て、うろたえながら言った。
 「あんた、三林さん……、そんなことしないで。困るよ、困るんだよな。ともかく、頭を上げてくれよ」
 三林は、借りられるまでは、いつまでも、とうしていようと思った。
 「いえ、お借りできるまでは……」
 「そんなこと言われでもな……。わ、わかったよ、貸す、貸すからさ」
 三林は、頭を上げた。その目から、また涙があふれた。悔し涙ではない。喜びの涙であった。
 彼は、思わず、「万歳!」と叫びそうになったが、かろうじて、その言葉を口のなかに抑えた。山本伸一の言った通りになったことが、不思議でならなかった。
 広宣流布の歴史に、大きな意義をとどめる夕張支部結成大会の会場の決定をみたのは、開会の十数時間前のことであった。
 それから十年ほどして、伸一が言ったように、実際、この映画館の建物を購入してほしいとの話が、三林のもとに持ち込まれ、彼の所有となったのである。
 会場決定の報告を受けた伸一は、男子部の設営役員と共に、直ちに夕張にやって来た。伸一の指揮のもとに、青年たちは、徹夜で設営作業を続けた。
 翌八月二十日は、夕張の学会員にとって、まさに、盆と正月が一緒に来たような、晴れやかな一日となった。
14  思えば、一九五二年(昭和二十七年)九月、荒川正造という一粒種が根を下ろしてから、まだ五年しかたっていない。山間の夕張の同志は、ひたすら広宣流布のための寺院の建立を願って、活動に励んできた。
 五五年(同三十年)八月の夏季地方指導の折り、夕張を訪れた戸田城聖は、二千世帯を達成したら建立しようと、約束してくれた。この約束が、どんなに夕張の同志の信心の励みになってきたかは、その後の飛躍的な夕張の発展をたどっていけば明らかである。
 東京から遠く離れた文京支部の一拠点であった夕張が、班から地区になり、たちまち二千世帯になった時、戸田は、寺院の建立寄進を発願した。
 夕張の地に起きた広宣流布のうねりは、日ごとに高まっていったが、それは思いもかけず、炭労問題というかたちで、三障四魔を呼び起こしたのである。地元の同志にとっては、辛い戦いであった。
 しかし、山本伸一をはじめ、多くの同志の全面的な支援によって、対決を迫る天下の炭労の圧迫をはね返し、この日を迎えることができたのである。
 念願の興隆寺の落慶のうえに、支部の結成大会をも迎えることができた夕張の同志の喜びは、筆舌に尽くせぬものがあった。喜色を満面にたたえた同志の談笑の声が、この日、早朝から、狭い谷間の炭鉱街にこだました。
 小高い丘の中腹にある映画館の入り口の上には、墨痕鮮やかに、「創価学会夕張支部結成大会」の文字が掲げられ、道路にも、同様の横断幕が張られていた。
 場内から、音楽隊の奏でる力強い学会歌の吹奏が、響き渡った。札幌での「若人の祭典」で演奏した音楽隊が、支部結成大会のために、夕張までやって来たのである。
 大会には二千数百人の参加者が詰めかけ、場外にも人があふれた。炭労関係者にとっては、脅威に思えたらしく、緊張した表情で様子をうかがう人影が、随所に見られた。
 午前九時、音楽隊の演奏に合わせて、支部旗、部隊旗が入場し、開会を告げる司会者の声が響いた。開会の辞に続いて、三林支部長をはじめとする夕張支部の人事が紹介された。
 次いで荒川正造から、支部結成にいたる経過報告がなされた。彼は、数々の感慨をかみしめるように、夕張の五年間の歳月を振り返りながら、三千四百五十余世帯の陣容をもって、夕張支部が結成された喜びを語った。
 ここで、祝電が披露されたあと、会長・戸田城聖の入場となった。本部旗を先頭に、戸田、そして、小西武雄理事長らが入場すると、万雷の拍手が湧き起こった。
 それから、女子部と男子部の代表、そして、支部婦人部長、支部長が、それぞれ、力いっぱい、あいさつし、あふれる喜びを語った。
 さらに、田岡金一文京支部長、南条尊康北海道総支部長、山際洋青年部長、関久男理事が祝辞を述べ、夕張の同志と共に、この日を迎えた歓喜を分かち合った。
 小西理事長は、支部の結成を祝福しながらも、決して油断することなく、今後、一層の精進を重ねていくよう呼びかけた。
 そして、戸田城聖の講演となった。彼は感慨を胸に、演壇に立った。まだ十代の青春の日に、この夕張の山間の尋常小学校で、准教員として雌伏の歳月を過ごしたことを、懐かしく思い返していた。
 思えば、生涯の活躍の天地を求めて、東京に旅立とうと決意したのも、この夕張であった。戸田城聖にとって、夕張は、青春の舞台にほかならなかった。
 以来、三十数年、その彼が創価学会会長として、夕張の地を踏んでいる。そして今、民衆の幸福を自ら肩に担い、広宣流布の使命を、彼と共に分かち合う同志が、夕張の谷聞に、かくも多く涌出したのである。
 戸田は、不思議な思いがした。広宣流布の時は来でいることが、痛感されてならなかった。
 彼は、会場の参加者を見回した。どの顔も頬を紅潮させ、固唾をのんで、彼の話を待っていた。戸田は、胸にあふれる感慨を抑えながら語り始めた。
 「静かに、これまでの日本の国内情勢を見つめますと、他国侵逼難の姿でありました……」
 彼は、敗戦と、アメリカの占領下にあったその後の日本の姿は、「立正安国論」で説かれた他国侵逼難にほかならなかったことを述べ、今や、国内には自界叛逆難が現れていることを訴えていった。
 政界の派閥抗争をはじめ、企業と労働組合の争いも、その一例であることを指摘し、このたびの炭労問題へと話を移した。
 「今度の炭労の問題は、天下のもの笑いであります。今、私のところへ、ずいぶん評論家が訪ねて来る。
 ちょうど、こっちへ発つ前も、大宅壮一氏と会い、対談した。また、徳川夢声氏とも対談したのですが、こうした人たちをはじめ、一流の評論家が、今度の炭労との闘争は、学会の一方勝ちだ、炭労は、ずいぶん恥をかいたものだな、と言っている。
 私は、創価学会の会長として、労働組合と喧嘩しろなどと、今まで、一遍も言ったことはない。私は、労働運動をやって生活が向上するものなら、私も一緒に旗を担ごう、と言っているんです」
 期せずして、場内は激しい拍手につつまれた。
 参加者の大多数は、炭鉱の労働組合員である。彼らは、学会員であるということで、炭労から不当な圧迫を加えられ、それに耐えながら、学会の真実を訴え、懸命に戦い抜いてきただけに、戸田の話に、心の底から共感を覚えたのであった。戸田は、この拍手に応えるかのように語っていった。
 「私は、労働運動をするなと言うのではない。労働運動をするならば、労働者のために全力をあげて戦って、断じて、資本家に負けない闘争をしろと言うんです。それは、本当に民衆のために立とうとする創価学会員でなければできないと、私は確信している」
 また、拍手が起こった。自負に満ちた拍手であった。
 「ストライキというのは、労働者の権利であり、伝家の宝刀です。めったに抜くものではないのであります。すぐに汽車を止めて、人が乗っていようが、運搬している魚が腐ろうが、知ったことではない、というのであれば、これは自界叛逆です。
 したがって、夕張にあっても、会社と交渉に交渉を尽くして、天下の人が、″これならば労働組合がストをやるのは当たり前だ。立たねばならん″という情勢になった時に、伝家の宝刀は抜くべきものなんです。民衆から離れ、民衆を敵に回すようではなりません。
 労働貴族といわれるような幹部連がはびこり、労働者を手下のように、顎の先で使うといった考えが抜けきらないうちは、本当の労働運動はできません」
 戸田の話に熱がこもり、声は一段と高くなった。
 彼は、ここで、労働運動と信仰の関係について、将来のためにも明らかにしておかなければならないと思った。組合活動と信仰との根本的な違いを語ることによって、組合と争う必要などないことを教え、安心させてやりたかったのである。
 「私の精神は、労働運動にも、ストライキにも反対ではない。それがわかれば、あなた方も、まだ信仰していない労働組合の人たちと、何も折り合わないことなどないはずです。
 それなのに炭労は、学会員を締め出そうとしてきた。喧嘩を売られたようなものです。何も悪くはないのに、そんな不当な圧迫を受けて、『ごめんなさい』などと言っていられますか。だから、主張すべきを主張して戦ったのが、今度の問題です」
 戸田は語りながら、炭労と勇敢に戦った、夕張の同志の一人ひとりに視線を注いだ。皆、目を輝かせながら話を聞いていた。彼は、一人ひとりを心からいたわり、励ましたかった。
 「冷静に考えてごらんなさい。組合と学会が衝突することなど、本来、何もない。組合は組合であり、信心は信心という別のレールなんです。しかし、組合の幹部には、それが衝突するように見えてしまう。それは、ちょうど、こんなものです。
 田舎のおばあさんを東京に連れてきて、自動車に乗せる。向こうから走ってくる車があると、ぶつかってくるように見え、危ない、危ないと騒ぐ。でも、自動車は、ちゃんと走っている。
 炭労は、これと似たような錯覚をもった。去年の選挙で、夕張から約三千票という票が出て、驚いてしまったからです。彼らは、自分の方に票がほしかったのに、その票がぶつかったものだから、労働運動と創価学会の信心が、ぶつかったような錯覚に陥って騒ぎだした。
 しかし、選挙は労働運動ではない。政治運動です。決して、労働運動と信心がぶつかったわけではない。もし、錯覚をしている人がいたら、教えてやってください。
 あなたたちのなかにも、労働組合に入っている人がいるでしょう。本当に自分たちのためになることだったら、しっかりやるんです。ただ、組合費を払うだけだったら、なんにもなりません。
 ともかく、あなた方は正しい認識に立って、錯覚している連中の言葉にとらわれることなく、信心一途に、幸福な生活を築いてください」
 戸田の話は終わった。夕張の同志は、自分たちは何も迷うことなく、ただ信心一筋に進めばよいことを知った。
 ″そうだ、信心は信心だ。これは、誰はばかることのない、幸福になるための私たちの権利なのだ″
 深い理解は、歓喜を倍増させていく。同志の喜びは、爆発的な拍手となって場内を揺るがした。
 学会歌の高らかな合唱で、夕張支部結成大会は幕を閉じた。
 会場となった映画館の前には、八台のバスが止まっていた。このバスで、興隆寺の落慶入仏式への輸送が始まった。
 戸田城聖は退場すると、山本伸一に聞いた。
 「この大会に、炭労の幹部から参加の要請はなかったのか」
 「はい、聞いておりません」
 「私を訪ねて、炭労幹部が来はしなかったか」
 「それも、ありません」
 「そうか……、時間があれば、こちらから出かけて行くんだがな」
 戸田は、さも残念そうに言った。
 彼は、夕張の同志が、安心して信心に励めるように、自ら、炭労幹部に徹底して談判するつもりだったのである。
 興隆寺の落慶入仏式は、法主・日淳の導師で、午後一時から挙行された。本堂は、約五百人の学会員でぎっしりと埋まり、庭にも五百人ほどの人が詰めかけていた。
 慶讃文を朗読する日淳の声が、寂としたなかに響いていった。
 「真夏の太陽は燦として輝き、万物を育成し、夕張山脈の山々は緑をたたえ、衆生、各々其の生を楽しむの時、此処夕張の地に一寺を建立し、四域を荘厳し奉って落成入仏慶讃の式を行う……」
 参加者は、感無量の面持ちである。
 慶讃文では、創価学会の会長である戸田城聖が、宗祖・日蓮大聖人の精神に応え、仏法流布の戦いを敢行してきたことが、述べられていった。
 日淳の声に力がこもった。
 「依って宗勢大いに拡張し、妙法唱題の声、辺域に及ぶ。昨冬、旭川に大法寺を建立して、北海道折伏の基礎となす。然れども此処夕張炭田を中心に二千数百の会員を数うると共に、俗衆増上慢の徒蠢動す。よって新寺建立は、遂に欠くべからざるところとなる。茲に会長戸田城聖、大願主となり、浄財を喜捨して、新寺院を建立して、本門の大御本尊を安置し奉り、折伏教化の道場となす……」
 慶讃文を聞きながら、目を潤ませる人もいた。
 夕張の同志は、雪深い山間の地にあって、食べるものも食べず、生活を切り詰めては交通費を捻出し、ひたすら広宣流布に挺身しながら、寺院の建立を夢見てきたのである。同志は、そのためには、労を惜しまなかった。
 寺院の誕生は、広宣流布の伸展を物語る証であり、それは、さらに大きな未来広布の流れを開く拠点となることを、誰もが信じてやまなかったからである。
 入仏式は、厳粛に進められていった。三林支部長の経過報告に続いて、祝電披露をはさんで来賓祝辞があった。そして、戸田城聖のあいさつとなったのである。
15  戸田にとっても、ひとしお懐かしい夕張に、支部の創設と寺院の建立を迎えたことは、大きな喜びであった。彼はひとまず、夕張広布の基礎づくりは、完成することができたと思った。
 しかし、戸田には気がかりなことがあった。せっかく寺院を建立しても、広宣流布の勢いを増すどころか、僧侶に接するにつれて、会員の歓喜が薄れ、信心の情熱が損なわれていく現象が、しばしば見受けられたからである。その原因は、どこにあるのかを、戸田は考えていた。
 会員は、宗門の外護に徹しようと、献身の限りを尽くしている。供養はもとより、寺院のこととなれば、わが家以上に気遣い、掃除ひとつとっても、隅々までも掃き清め、磨き上げている。
 また、住職をはじめ、所化や家族にいたるまで気を配り、腫れものに触るかのように接している。それは、同志の尊い外護の赤誠である。
 問題は、僧侶のなかに、それをよいことに、あたかも会員を手下のように扱っている者がいることだ。そして、社会的な地位があり、経済力もある会員や、一部の幹部におもねり、私利私欲を貧ろうとしていることにある。
 そのために、純真な会員が不信をいだき、また、信仰で結ばれた学会の組織に、派閥じみた流れが生まれ、信心のよどみをもたらしていたのである。それは、戸田が会長に就任したころから、憂慮してきた問題でもあった。
 戸田は、一九五一年(昭和二十六年)八月に発刊された『大白蓮華』の巻頭言に、こう記し、僧侶の反省を促している。
 「僧衣をまとえば、お小僧さまたりと尊仰するは、われわれ信者の当然の道であるが、この掟を″かさ″にきて、正しき信心、たえざる行学への苦悩もなく、名誉と位置にあこがれ、財力に阿諛するの徒弟が、信者に空威張することなきょう、大御高僧の指導を懇願するものである」
 そして、この巻頭言は、次のように結ばれている。
 「意味なき嫉妬による折伏行進の邪魔をなすものがいるのは、まことに残念な次第である。われわれ愚迷の徒輩の折伏行進の意味を、お見つめくだされて、かかることのなからんことをも、あわせて切望するものである」
 この当時から、学会の果敢な折伏を批判する僧侶がいたのであった。自らは折伏を行ずることもなく、懸命に折伏に励む学会員に対して、「学会の弘法のやり方には問題がある。もっと摂受を取り入れるべきだ」と語つてはばからなかったのである。意気盛んな学会の前進への嫉妬と、世間の評判を恐れてのことであったろう。
 戸田は、信心が腐敗、堕落し、衣の権威だけを振りかざす僧侶が増えていけば、会員の信仰が撹乱されかねないことを懸念していた。彼は、僧侶の、こうした信心の狂いが、どこから生じたのかを、思索し続けてきた。
 ″創価学会の根本精神は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就するために、身命を捨てて折伏行に励むことにある。初代会長の牧口先生は、それを身をもって示された。また、私も、そう生きることを決意してきた。その精神は、一人ひとりの会員にまで脈打っていることは、間違いない。烈風の吹き荒れた夕張の地にあって、広宣流布の大前進が見られたこと自体、それを明確に裏付けていよう。
 大聖人の御精神の本義は、この死身弘法に尽きるはずである。そうであるならば、僧侶方も、その精神に徹しなければ、真実の僧俗和合はあり得ない。しかし、僧侶の自覚はどうか……″
 こう考えた時、戸田は暗澹たる思いに駆られた。残念なことには、折伏に懸命に励む僧侶の姿を目にすることはなかった。また、檀徒に信心指導の手を差し伸べ、謗法厳誠の精神や勤行を教えていこうという自覚も、いたって之しいと、いわざるを得なかった。
 日興上人は、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」と仰せである。その精神が失われてしまえば、結局は、利欲と保身に陥ってしまうにちがいない。
 そうなれば、まさに「法師の皮を著たる畜生」であり、「悪鬼入其身」(法華経四一九ページ)の姿となっていくことは明らかだ。人間の奥底の一念に何があるか。広宣流布か、それとも、自己自身への執着か――この奥底の見えざる一念こそが、一切を分かつ分岐点にほかならない。
 夕張の同志の多くは、僧侶というだけで、信心の強盛な特別な存在であると、思い込んでいた。そして、僧侶が間違ったことを言ったり、行ったりするわけがないと、固く信じていたのである。
 戸田は、そんな彼らの純粋さを、人一倍愛してはいたが、その純粋さゆえに、悪を見破れず、たやすく悪に騙され、真実の信仰を見失うことを憂慮したのである。
 彼は、戦時中、神本仏迹論を唱え、日蓮大聖人の仏法を壊滅させんとした笠原慈行のことが、頭から離れることはなかった。
 また、あの七百年祭の折、学会の青年部が、総本山にいた笠原慈行を見つけ、神本仏迹論の邪義を厳しく問いただしたことに対して、宗門の宗会が、戸田に謝罪文を要求し、大講頭罷免、登山停止の、不当在処分を決議したことが忘れられなかった。
 まさに「邪」と「正」との、「悪」と「善」との転倒であった。邪悪をただした者が断罪されようとしたのである。魔に操られた姿というほかはない。
 広宣流布が第六天の魔王との壮絶な戦いである限り、魔は、これからも、必ず同志の予測を超えて、誰もが「まさか」と思うところに付け入ってくるであろう。
 純粋であればあるほど、悪との戦いを忘れたならば、たちまち魔の虜にされてしまうことを、戸田城聖は熟知していた。ほんの少しでも、心に油断があれば、そこから食い入ってくるのが魔である。戸田は、御聖訓に照らしても、また、彼自身の体験からも、僧侶への盲従は、魔の付け入る最大の盲点となりかねないことを痛感していた。それに打ち勝つには、悪を悪と見抜く、信心の鋭い眼を磨き、敢然と戦っていく以外にない。
 戸田は、そう考えると、言うべきことを言っておかなければならないと思った。日蓮大聖人の御精神のうえから、僧侶の在り方の誤りをただすことこそ、仏法の外護であり、まことの慈悲につながるはずである。
16  興隆寺に集った人びとは、固唾をのんで戸田城聖の言葉を待った。
 戸田はマイクに向かうと、初めから話の核心に入った。
 「昔から、僧俗一致ということが、わが宗内では叫ばれている。ところが、僧俗一致していたような寺はなかった」
 彼は、きっぱりと言った。そして、信徒の精神について述べるとともに、「坊さん側では、信者を子分か家来のようにして使おうという頭がある」と指摘していった。
 彼は、僧侶の、会員に対する傍若無人な振る舞いを、決して許さなかった。僧侶も信徒も、ともに仏子であり、また、人間として平等であらねばならないというのが、彼の信念であったからだ。
 「自分に力がなく、また、いいかげんだというと、信者の実力のある者の機嫌をとって、そうして、自分の地位を安定せしめようとする坊さんがいる。そういう坊さんに機嫌をとられた信者は、必ず退転し、ろくな目にあいません」
 地位の安定を考える生き方の根本にあるものは、保身であり、そこには、広宣流布に挺身しようとする死身弘法の精神はない。保身に走る者は、結局は、恐るべき悪知識となり、それに惑わされれば、やがては、その人も退転せざるを得ない。
 彼は、悪を見抜き、悪と戦うなかにこそ、真実の信仰の道があることを、夕張の同志に教えておきたかった。
 「もし住職に間違いがあるならば、陰口なんてきかずに、正々堂々と忠告することです。面と向かって堂々と話すことは、決して罪にはなりません。しっかりやりなさい!」
 戸田は、こう言って話を結んだ。彼は、語りながらも、祈るような気持ちであった。彼の厳しい言葉は、宗門の永遠の興隆を願い、外護せんとする、至誠の表れにほかならなかった。
 やがて、興隆寺の落慶入仏式は、滞りなく終了した。しばらく休憩したあと、本堂で祝賀の宴がもたれることになっていた。参加者は、玄関や庭に出て歓談したり、記念写真に納まりながら、祝賀会の開始を待っていた。
 夕張支部の結成大会と、興隆寺の落慶入仏式という、重なる喜びのなかで行われた祝賀の宴は、いやがうえにも雰囲気を高揚させた。
 ここ数カ月にわたる炭労との戦いで、理不尽な圧迫を打ち砕いた勝利の歓びが、夕張の同志の胸のなかで、赤々と燃え上がったのである。それは風雪の山河を越えて、希望の陽光を仰ぎ見た者のみが知る、歓喜の高まりであった。
 宴半ばにして、次から次へと歌や踊りが飛び出した。
 戸田は、「楽しくやろう。自由に!」と、全身に喜びを表す同志を笑顔でつつんだ。
 彼は、この夕張の地で、健気に戦い抜いた、名もない英雄たちの一人ひとりを讃えてやりたかった。
 広宣流布の本当の主役は、常に無名の庶民であり、一会員である。戸田は、日ごろは炭坑で塵埃にまみれ、顔を黒くして働いている人びとのなかに、尊い仏子の輝きを見ていた。
 今日の日の喜びを、和歌に託して詠む人もいた。
 ダンスホールを営む三林支部長夫妻が、得意のダンスを踊ると、堂内は大きな拍手と喝采につつまれた。
 東京から来た幹部たちが、歌を披露し始めたころ、戸田は、突然、山本伸一に言った。
 「伸一、歌いなさい」
 「はい」
 伸一は立ち上がると、張りのあるさわやかな声で歌い始めた。
  ♪人馬声なく草も伏す
   川中島に霧ふかし
   聞こゆるものはさい川の
   岸辺を洗うせせらぎぞ
 聞きなれぬ歌であった。先ほどまで歌われていた民謡や流行歌とは、趣を異にしていた。歌の名はわからなかったが、胸を打つ音律であった。浮かれた宴の雰囲気は一変し、人びとは、緊張した面持ちで耳を澄ましていた。
 堂内に凛とした声が、低く響いた。
  ♪雲か颱風はやてか秋半ば
   暁やぶるときの声
   まなじりさきてただ一騎
   馬蹄にくだく武田勢
  
   車がかりの奇襲戦
   無念や逃す敵の将
   川中島に今もなお
   その名を残す決戦譜
 歌は「霧の川中島」である。甲斐の武田信玄と、越後の上杉謙信の、川中島での四度目の壮烈な戦いを歌ったものだ。
 川中島は、千曲川と犀川の合流地点であり、街道が交わり、甲斐、越後、上野に通じる要衝の地であった。信濃を掌中に収めようとする信玄にとっても、信越国境を守ろうとする謙信にとっても、この地を制することが必須の要件であった。
 川中島の合戦は、主な戦いを数えても五回に及ぶが、最も激しい攻防戦となったのが、この四度目の戦いであった。永禄四年(一五六一年)九月九日、上杉謙信は、一万三千の軍勢を率いて、川中島の沃野を見下ろす、妻女山に本営を構えていた。
 対する武田信玄の軍勢は二万。乾坤一擲の戦いである。
 両軍とも、慎重な構えを見せ、対時したまま、なかなか動きだそうとはしなかった。
 九日夕刻、謙信は、千曲川のほとりに築かれた武田勢の海津城から、常になく炊煙が立ち昇るのを見た。謙信は、武田勢が、いよいよ動きだそうとしていることを察知した。
 武田信玄は、兵力を二分し、妻女山の北に広がる八幡原に、八千の軍勢で本営を置き、あとの一万二千の軍勢で、妻女山の背後から奇襲し、上杉勢を千曲川に追い出そうという戦法に出たのである。
 謙信は、信玄の作戦を読み取ると、その裏をかいて、いち早く、奇襲攻撃をしかけようとした。直ちに出陣の準備に取りかかった。夜の闇に乗じて、上杉勢は千曲川を渡った。
 しかし、敵の目を欺くために、妻女山の陣営には、赤々と篝火かがりびを燃やし、紙の旗が立てられた。まだ軍勢は、とどまっているかのように見えた。夜が白々と明け始めたころには、上杉勢は、八幡原に布陣を整え終わった。
 決戦の九月十日の朝は明けた。深い霧が辺りを包み、せせらぎの音が響いていた。謙信は、立ち込める朝霧のなかで、突撃の時を待った。
 やがて、霧は薄らいでいった。突撃の断が下された。朝の静寂しじまに、突如、喊声が轟き、戦いの火蓋は切られた。
 武田信玄は、八幡原の本営で、妻女山の奇襲の報告を待っていた。すると、にわかに喊声をあげて、霧のなかから、上杉の軍勢が突進してきたのである。武田の武将たちは、不測の事態に戸惑いながらも、即座に反撃に転じた。
 上杉勢は、一番手、二番手、三番手と、次々と武田の陣営に突進していった。「車懸り」の戦法である。
 対する武田勢は、鶴が羽を広げたように、弧を描いて兵が広がる「鶴翼の陣」で応戦し、壮絶な戦いが始まった。
 槍がうなり、太刀と太刀とがぶつかり合い、銃声が轟いた。川中島は修羅の巷と化したのである。
 信玄は床凡の上に腰を下ろし、次々ともたらされる戦況を聞きながら、果敢に指揮を執っていたが、時がたつにつれて、上杉勢の猛攻撃に武田勢は押され、その本営さえも、危うくなっていった。謙信にとっては、この時が、武田の本営を叩きつぶす好機であった。
 信玄は、奇襲に向かった一万二千の別働隊の到着を待っていた。
 「妻女山に向かった者たちは、まだ来ぬのか」
 上杉勢を、別働隊が背後から攻めれば、窮地は一挙に脱することができる。
 謙信は、今こそ、わが手で、信玄を討ち取ろうと、信玄発見の合図を待ちわびていた。謙信は、はやる心を抑え、戦場を見た。
 既に、武田の一万二千の大軍は、上杉勢の背後に迫りつつあった。その時、彼方に、槍先に付けられた白扇が掲げられた。
 信玄発見の合図である。謙信の目が燃えた。
 「行くぞ!」
 彼は近臣に告げると、さっそうと馬を駆った。後に十数騎が続いたが、その間隔は大きく引き離されていった。馬は砂塵を蹴立てて、まっしぐらに八幡原を疾駆していった。
 ″俺がこの手で、信玄を討つ。越後を守るために″
 謙信の脳裏に、天文二十二年(一五五三年)の、川中島の最初の合戦以来の来し方が浮かんだ。これまでの戦では、苦杯をなめたこともあった。兵も数多く失った。強くならねばと、剣も、戦法も磨いてきた。信玄を討つこと――それが、今の彼のすべてであった。
 前方に信玄の姿が見えた。両雄は、ここに相対した。謙信は三十二歳、信玄は四十一歳である。
 謙信は太刀を手に、敵の囲いを抜け、ただ一騎、信玄めざして飛びかかった。太刀を振り下ろした。とっさに信玄は軍配をかざして避けたが、謙信の一刀は信玄の肩を切りつけていた。信玄も太刀を構え、謙信の振りおろす刃を打ち返した。一騎討ちである。太刀と太刀とが、ぶつかり合い、激しく火花を散らし合った。
 横から、信玄の近臣が、槍を手に謙信に襲いかかり、彼の馬を突いた。馬はいななき、跳ね上がった。その隙に信玄は身を翻して走り去った。謙信は、後を追おうとしたが、武田の兵がそれをさえぎった。謙信の近臣が信玄を追った。
 しかし、武田の軍勢に阻まれ、とうとう信玄を逃してしまったのである。謙信の夢は破れた。無念であった。勝機を逸したのだ。
 やがて、妻女山に向かった一万二千の武田勢が相次ぎ到着すると、今度は、武田の猛烈な反撃が始まった。その猛攻に押され、上杉勢は、やむなく退却しなければならなかったのである。
17  山本伸一が、「霧の川中島」を歌い終わった。
 戸田城聖は、ハンカチで目をぬぐった。人びとは、戸田の涙を見て、目頭を熱くした。しかし、なぜ、戸田が涙したのか、わからなかった。ただ、厳粛な思いで固唾をのみ、戸田を見つめた。
 「伸、もう一度だ!」
 戸田は、語気鋭く言った。怒りをはらんだ声でさえあった。伸一は、一層、力強く、真剣な表情で歌いだした。
 人びとは居ずまいを正して、耳を傾けた。伸一の歌声が、再び堂内に響き渡った。
  ♪人馬声なく草も伏す
   川中島に霧ふかし……
 伸一の歌は、深い思いに満ちあふれていた。人びとは、ようやく歌詞に耳を澄まし始めた。
 「まなじりさきてただ一騎」の一節に、伸一の満身の力がこもった。皆は胸を突かれた。それは広宣流布に一人立った戸田城聖の姿でもあり、夕張での伸一の戦いでもあった。
 伸一が、万感の思いを託すように「無念や逃す敵の将」と歌った時、戸田の頬に、また涙が流れた。
 彼は、それをぬぐおうともしなかった。
 歌は終わった。
 「もう一度!」
 戸田は、また、伸一を促した。
 歌声は、夕張の同志の魂に染み渡っていった。命に切々と迫る何かがあった。
 歌い終わると、戸田は顔を上げて、人びとを見渡しながら言った。
 「これは夕張の歌です。君たちに、この歌の心がわかるか?」
 「霧の川中島」が、夕張の歌であると言われても、すぐには理解できかねた。皆、黙って戸田の顔を見つめた。次の瞬間、戸田の口から、火を吐くような言葉が発せられた。
 「炭労は卑怯だ! 戸田がいないのをいいことに、私の大事な弟子をいじめる。私が来ると、出て来ようともしない。どんな言いがかりでも、戸田に言ってくればよいのだ。私は、絶対に逃げ隠れはせぬ。会員は、私の大切な命だ!」
 夕張の同志は、戸田の怒りに満ちた叫びを聞いて、逃げた敵将こそ、炭労であることに気づいた。
 罪もない学会員に不当な圧迫を加え、「撲滅」を叫び、「対決」を打ち出しておきながら、ひとたび学会が抗議に立ち上がるや、身を翻し、路線を変更したのだ。
 戸田は、仏子をいじめる炭労の横暴には我慢がならなかった。彼は、夕張の同志を守るために、若き闘将・山本伸一を派遣したが、突進する伸一の馬蹄の音を聞くや、炭労は逃げたのである。
 戸田が、この夕張にやって来た目的の一つも、炭労の横暴を徹底して打ち砕くことにあった。しかし、炭労の幹部は、姿を現そうともしなかった。戸田は、討ち逃してしまった悔しさに、涙したのである。
 彼は、会員を、弟子を守るためには、命を捨てることも辞さなかった。仏子を苦しめた炭労への憤りこそが、この歌に込められた、戸田の心であった。夕張の同志は、戸田の涙が、自分たちを思う慈愛のほとばしりであったことを知った。
 ヤマの男たちは、唇をかみしめ、涙をこらえていたが、堂内の一角から鳴咽がもれた。それは、師の慈愛につつまれて生きる感涙にほかならなかった。
18  この年の八月は、各支部ごとに地方指導が実施され、全国的に弘教の波が広がった。二十八日には、豊島公会堂で本部幹部会が行われたが、発表されたこの月の折伏の成果は、四万一千世帯を超えていた。
 戸田城聖は、この飛躍を喜びながらも、数多い新入会者に十分な指導がなされず、成長の芽を摘んでしまうことを憂慮していた。
 広宣流布といっても、一人ひとりの人間革命と幸福境涯の確立がなければ、砂上の楼閣になってしまう。
 本当の意味での折伏の成就とは、入会者に信心への不動なる確信をもたせ、彼らを広宣流布の使命に、勇んで突き進む人材に育て上げた時といってよい。
 戸田は、登壇すると、静かな口調で語り始めた。
 「今月は、折伏の数が非常に多い。これは一面、まことに喜ばしいことでありますが、半面、また、非常に憂いをもつものであります。それは、この多い入会者が、本当に最後まで信心していけるかどうかという憂いであります。
 皆様も、十分、承知でありましょうが、なかには退転する人もある。また、熱心に信心に励まない人もいる。
 しかし、五年、六年、あるいは四年ぐらいでも、まじめに信心した人は、生活も向上し、願いも叶っている。
 そうした人を見るにつけ、信心をやめたり、あるいは不熱心のために、功徳を受けられない人のことが、残念に思われてならないのであります。ちょうど、宝の山に入りながら、宝を持たないで帰るようなものです」
 戸田は、退転する人びとのことを耳にするたびに、ひとり心を痛めてきた。彼は、全会員を、直接、自分の手で育てたかった。しかし、もとより世帯の急増は、それを許さなかった。結局は、幹部を育成して、日常の会員の指導を委ねざるを得なかっのである。
 戸田の願いは、支部長から組長にいたる全幹部が、彼の心を心として、戸田と同じ自覚、同じ決意で、会員の育成にあたることであった。
 彼の心とは、全会員を幸福の彼岸へと運ぶことにほかならない。それこそが、彼の根本目的であった。だから彼は、会員を睥睨するかのような幹部の態度を見ると、腹の底から激怒し、容赦なく叱責した。
 また、会員を苦しめる者があれば、どこまでも出向いて行き、命がけで戦った。さらに、会員が元気づき、喜ぶことであるなら、どんなことでもした。
 戸田は、事あるごとに、周囲の幹部たちに、こう言うのであった。
 「幹部のために会員があるのではない。会員のために幹部があるのだ。はき違えるな!」
 「幹部は、会員に奉仕するのだ。仏子に仕えるのだ。それが私の精神だ」
 戸田は、学会の幹部としての使命を、今こそ明確に語っておかなくてはならないと思った。彼は、本部幹部会に集った幹部の顔を見渡すと、話を続けた。
 「昨日、NHKの記者がまいりまして、大阪の婦人向けの番組で放送するのだからといって、いろいろな質問をしてきた。
 そのなかに、こういうのがあった。『この信仰をして、幸せになるといっても、なかには、ならない人もあるのではないか』という質問です。『断じて、そんなことはない』と、私は言いました。
 酒を飲めば人は酔う。その人の体質によって、一升では酔わなくとも、五升飲ませれば、誰でも酔うのが当たり前です。ご飯を食べるにしても、五杯も食べさせて、まだ、お腹がいっぱいにならないような人はいません。
 同じように、この信心をして、幸せにならないわけは絶対にないのです。ただ、宿業のいかんや、信心の厚薄によって、時間の長短は違います。病気をした時に、同じ薬を飲ませても、人によって早く効く場合と、時間がかかる場合があるようなものです。
 しかし、絶対に幸せになるということだけは、間違いない。ですから、せっかく御本尊様を持ちながら、それを粗末にしたりして、一生涯、損をするようなかわいそうな人たちを、出さないようにしていただきたい。
 今晩、お集まりの幹部の皆さんは、よく会員の人たちの世話をし、懇切に指導してやってください。
 そして、一人ひとりに、『信心してよかった』という喜びを、味わわせてあげていただきたいと思います」
 戸田は、組織というものは、人体に譬えれば、いわば、骨にすぎないと考えていた。そこに温かい信心の血を通わせる血管が、幹部のきめ細かな指導と激励であり、血を送る心臓は、ほかならぬ戸田自身であった。戸田は、血管が途中で詰まって、彼が送り続ける信心の血が、通わなくなることを憂えたのである。
 参加者は、会員に対する戸田の心をあらためて知り、強く胸を打たれた。参加した幹部たちは、それぞれの組織の一人ひとりを胸に浮かべ、徹底して個人指導に励もうと心に誓った。
 本部幹部会では、ブロック制の改革も発表され、まず東京都内の各区に、総ブロック制が敷かれた。新しいブロック組織は、総ブロック長、大ブロック長、ブロック長、小ブロック長という体制で出発することになったのである。また、婦人部の役職として、タテ線の地区担当員や班担当員同様に、総ブロックには総ブロック委員が、大ブロック以下の組織には、それぞれ担当員が設けられた。
 山本伸一も、この日、葛飾区の総ブロック長の任命を受けた。
 彼は、ますます多忙を極めたが、自己の責任の一つ一つを、完壁に果たしゆくことを自らに誓っていた。

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