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日蓮大聖人・池田大作

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波瀾  

小説「人間革命」11-12巻 (池田大作全集第149巻)

前後
14  戸田城聖は、五月十二日には、北海道に飛んでいた。これは、四月七日の関西総支部総会、四月二十一日の九州第一回総会に続いて行われた、北海道第一回総会に出席するためであった。北海道も、小樽問答以後、大きく躍進し、このころでは、全道で二万五千世帯に達していた。函館、札幌、旭川、小樽と、四支部があり、ほかに他支部の関係では、夕張、室蘭に地区があった。
 この日、全道各地から、約二万三千人の会員が、札幌市・中島スポーツセンターに結集し、北海道第一回総会が行われたのである。
 言うまでもなく、北海道は、戸田城聖が幼少期から青春時代を過ごし、また、初代会長・牧口常三郎が青春の思い出を刻んだ地である。
 会員の多くは、入会して、まだ二年にも満たなかった。
 戸田は、その新しき同志に、親しみを込めて、「本当の個人の幸福というものは、政治の力だけでつくれるものではない。正しい信心なくしては、個人の幸福はつくれない」と語り始めた。そして、六年前に彼が指導した、東北地方の一人の壮年が、五年後には地区部長となり、功徳にあふれた生活になっていたという体験を、ユーモアを交えて紹介していった。
 「さあ! そこだ。五年目ですよ。五年でそうなったんだ。女房と喧嘩ばかりやっていた、金がなかったばかりに女房を離縁しようとまで考えていた、その男が、新調の洋服を着て、地区部長になって、総会で開会の辞までやっている。驚きましたな、これは。面白いだろう。あなたたちも、仏の種を心田に植えているんですから、五年ぐらい我慢して、ちゃんと信心しなさいよ。
 そう言うと、ガッカリしちゃって、『わぁ! 五年か、長いなぁ』、なんて言う。あるおばあさんが、『私は、あと何年、信心したらよいでしょう』と聞くから、『七年ぐらいやりなさい』と言うと、『そんなに待てません』と言う。今、聞いて、これから五年かなんてガッカリしないで、幸福の種は植わったんだから、これから三年、五年と、私が札幌に来るごとに、『先生、こんなに幸せになりました』と言ってきてほしい。
 私は、心から真面目に折伏して、真面目に信心したら、五年もかからないと思う。三年も五年も信心して、『先生、まだ病気が治らない』と言ってくる人がいる。そんな人は、ちゃんと信心していない人だ。御本尊様をしっかり拝んで信心していれば、三年、五年とたてば、誰でも幸せにならないわけはない。
 今日は、このことを教えて、私の講演を終わりたいと思います」
 五月の札幌は、一年中で最もさわやかな季節である。北海道の同志も、吹雪の厳冬をいつか越え、それぞれ、蘇生の春の空気を胸いっぱいに吸って、さっそうたる遅しさで、前進の態勢をつくりつつあった。
 この直後、風雲をはらんだ嵐が吹きつけてきたのであったが、それによく耐えるだけの力をも、既に備えていたのである。
15  五月十七日夕刻、羽田空港で、一人の青年が、大勢の人びとに囲まれていた。青年部の留学生第一号として渡米することになった青年であった。
 それから四カ月ほど遅れて、九月上旬、一人の学生部員が、留学生第二号として、ビルマ(現・ミャンマー)のラングーン大学(現・ヤンゴン大学)へ旅立っていった。
 この年、六月三十日の学生部結成大会を前後して、東と西へ、二人の留学生が巣立っていったことになる。
 創価学会は、よい意味でも、悪い意味でも、社会の注目を集めるようになったが、このころからは、単なる世間の評判や噂で終わるわけにはいかなくなっていた。選挙をやれば政敵ができ、錯雑した社会的問題が、学会にかかわってくる。宗教の世界だけにとどまっている間は、波瀾があっても、他宗との軋轢ぐらいですんだが、創価学会の急激な躍進によって、いやでも社会的な重みが増してきていたのである。
 このころ、社会的に大きな影響力をもっていた日本炭鉱労働組合(炭労)が、創価学会を敵視し始めて、その対抗策を組合の大会に上程したのである。
 五月中旬、東京・芝の中労委会館で、炭労の第十七回定期大会が、一週間にわたって開催されていた。その五月十九日、本年度行動方針のなかに、「新興宗教団体への対策」の一項目を加え、大会での決議とした。
 この報道は、さっそく新聞紙上に載った。新興宗教団体といっても、これは、創価学会への対策であることは明らかであった。
 学会の全国的進出が盛んになってから、九州や北海道の炭鉱地帯での、学会員の増加が著しくなってきていた。ことに北海道・夕張地方では、文京支部の地区があり、既に二千数百世帯を超え、活発な活動をしていた。
 この夕張地方で、創価学会の活躍が初めて注目されたのは、一年前の七月の参議院議員選挙の折である。創価学会が推薦した候補者の関久男は、この谷間の炭鉱街にも遊説に来た。学会員たちは気勢をあげ、強力な支援活動を行い、関久男は二千五百余票を獲得した。
 炭労側は、関久男の票は、せいぜい七百票と踏んでいたから、炭労が推した立候補者の票が、大きく食い込まれたことに驚いたのであろう。夕張の炭労は、組合員のなかの創価学会員に対して、数々の嫌がらせを始めた。そして、秋には北海道大学の講師まで招いて、「新興宗教と労働運動」などという講座を開いたり、調査に名を借り、有形無形の圧迫を加えるようになった。
 この夕張の敵対状態が、中央の機関に報告され、炭労大会の行動方針のなかに、「階級的団結を破壊するあらゆる宗教運動には、組織をあげて断固対決して闘う」という一項目を加えるにいたったのである。
 一歩深く考えてみれば、奇怪なことであった。
 労働団体が宗教団体に圧力をかけて干渉するということは、信仰の自由を妨げることになり、憲法に保障された人権の侵害となる。
 労働組合の活動の基本は、労働者の生活権の確立であり、まず経済闘争にある。そこに政治的な活動も加わることがあるにせよ、宗教活動の規制にまでエスカレートすることは、労働組合本来の活動からの逸脱といえよう。これは、誰が考えても、すぐにわかることであったが、創価学会への憎悪からか、夕張の炭労は、冷静さを全く欠いていた。
 当時、石炭産業は、経済復興の波に乗り、社会的に大きな影響力をもっていたが、炭労は、その華々しい石炭産業を左右する、絶大な力をもっていた。戦後の労働団体のなかでも、炭労は肩で風を切るかのような勢いであり、泣く子も黙る花形団体といわれていた。その炭労の巨大な圧力が、創価学会にのしかかってきたのである。
 しかし、戸田城聖は、あくまで冷静であった。このころ、炭労の問題で、彼に質問するジャーナリストたちに、労働組合と宗教団体が対立するというのは、そもそもおかしなことだと、彼は言明していった。
 「炭鉱の人たちが、自分たちの生活や職業を守るために立ち上がるというのなら、その闘争に、私自身も旗を持って応援しますよ。そうじゃなくて、うちを排斥しようとする。見当違いではないですか。目的も使命も違い、それぞれの拠って立っところも違うのだから、互いに干渉しなければならないことなどは、ないはずです」
 「しかし、組合の大会で、活動方針として戦うことを決議したとなると、これは、もう対決ですね」
 「気勢をあげているらしいが、こちらには、何も言って来ません。売られた喧嘩は買わなきゃならんが、私としては、そんなことはしたくない。対立するというのが、そもそも、おかしなことです。炭労のなかには、うちの会員も多い。だから、かわいがってもらいたいのだが、いじめられたんでは困りますよ。
 組合の指導者が、組合員の信仰まで左右しようとするのは、誰が考えてもおかしい。人権問題です。組合の指導者が、早くこの点に気がついてほしいと思いますがね」
16  炭労の問題が、社会の表面に浮上し始めてから数日後に、今度は、大阪の新聞各紙に、またまた創価学会に関する衝撃的な記事が載り、そのことを知った全国の会員は、愕然とした。
 五月二十二日の大阪方面の夕刊の記事である。
 ――大阪府警は、四月の参議院大阪地方区補欠選挙で、投票日の前日、創価学会が推薦していた候補・尾山辰造の氏名を書き込んだタバコや、名刺を貼り付けた百円札が、何者かによってばらまかれた事件を調べていたが、容疑者として学会員四人を逮捕、一人を任意出頭で取り調べ、逃走中の一人を追及中――というのである。
 そして、逃走中の学会地区部長・大村昌人と、既に逮捕されている一人が、四月十八日に飛行機で大阪に乗り込み、汽車で来た会員三十人と作戦を練り、タバコと百円札を、投票日の前日朝、府下十カ所の職業安定所前でばらまき、さらに夕刻には、北大阪などで軒並みに百円札をばらまき、同夜、東京に引き揚げた――と報じていた。
 また「百円札の数は確認されていないが、約百万円といわれている」とも書かれていた。
 この事件を、対立候補の悪質な謀略と、すっかり思い込んでいた関西の学会員が、驚愕のあまり、口もきけなかったのも無理はない。まして、東京の地区部長が、首謀者の一人であったというのである。
 この報道は、直ちに東京の学会本部にもたらされた。
 戸田城聖をはじめ、首脳幹部の苦慮は深かった。
 「公明選挙をモットーとし、一切の違反をするな」と、厳命して行った、このたびの選挙戦である。このような見えすいた、利敵行為にもなりかねない犯罪が、どうして行われたのか、理解に苦しむところであった。一部の跳ね上がった会員の、軽率極まる即断行為なのか、あるいは、創価学会を陥れる策謀に踊らされたものなのか、不可解このうえなかった。
 学会も、さっそく独自に調査を開始した。そして、事実を明らかにし、学会として断固たる処分に踏み切ろうとしていた。
 しかし、創価学会始まって以来の、まことに恥ずべき不名誉な事件であることは言うまでもない。有能にして高潔な人材を、政界に送り出そうとした選挙に、この愚劣な犯罪行為が、すっかり泥を塗りたくってしまったといってよい。
 戸田は、この事件を契機に、検察当局の、創価学会に対する偏見が高じて、冤罪を被ることを心配した。彼が、戦時中、獄中にあって取り調べられた経験から、それを最も恐れていたのである。
 この彼の危慎は、残念ながら、単なる危慎には終わらなかった。
 この年の五月中旬から下旬にかけて、寝耳に水のような事件が、二つまでも重なったのである。大波、小波が押し寄せてきて、そのはるか向こうに、牙をむく怒濤が見え隠れしていた。
 戸田城聖の健康は、四月三十日の発作以来、徐々に回復に向かってはいたが、ここにきて、心身の疲労は、いたく彼の体をさいなみ始めていた。
 しかし、一瞬の休止もなく、どんな怒濤にも対処しなければならなかった。時には波を避け、時には波を砕き、しぶきを上げながら、なおかつ進まなければならない。さもなければ、船は転覆するからである。
 戸田は、舵を固く握って、荒天の海で、波高と戦う捨て身の構えをしなければならなかった。
 彼の晩年における最後の闘争が、始まりかけていたのである。

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