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日蓮大聖人・池田大作

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跳躍  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
25  堺支部も、地区ごとに決起大会を開くことが決定されていた。まとまりのよい小さい支部も、確実に跳躍の態勢が、いつとはなく、整えられていたのである。
 男女青年部の各部隊も、それぞれ、この五月には総会を開催した。
 五月八日夜には、関西本部の一階広間に、五百余人の男子第十四部隊の精鋭部員が参集して、青年部部隊総会の火蓋を切った。
 これら一連の、全体指導を目的とする大きな会合が続くなかにあって、各地区、各班の座談会は、大阪の全地域にわたって、夜ごとに各地で開かれていた。
 地区講義の夜も、講義が終わると、それがそのまま、いつか座談会となり、参加した友人との対話が始まるのであった。
 五月に入ると、山本伸一は、昼は活動の拠点となっている会員宅を次々と回り、夜は各所の座談会に顔を出した。まるで神出鬼没といったように、瞬時を惜しんでの激闘が始まったのである。
 このころのある夜、彼は、大阪駅近くの座談会に姿を見せた。
 「こんばんは、ご苦労さん。今夜は質問会を開くことにしましょう。賛成ですか」
 部屋は、約百四、五十人の人であふれ、彼の穏やかな言葉に、人びとは一斉に拍手した。
 「では、まず、このなかで、まだ信心をなさっていない方は、手をあげてください」
 三十人前後の手があがった。そして、何ゆえに他の宗教を誤りとするのかという質問が出た。彼は、人びとの胸の奥にある疑問を、いかにして解こうかということを念頭に置きながら、御本尊の正しいゆえんと、その功力を、明快に訴えた。
 山本伸一は、まだ未入会である人びとに向かって、胸を張って言った。
 「今夜の会合を契機として、皆さんも絶対に幸せになっていただきたい。幸せには勇気が必要です」
 この真心込めての一言に、ある人はすぐ応答した。
 「やらしてもらいますわ」
 また、別の質問が続いた。
 「結核が治りまっか?」
 「この私も結核だったのですが、治っています。御本尊にしっかりと唱題し、リズム正しい生活をし、栄養をとれば、結核ぐらい治らないわけはありません」
 彼の体験は、質問者に確信を与えた。
 質疑が次々と続くうちに、一人また一人と入会を希望し、ほとんどの人たちが入会を決意した。
 伸一の行くところ、弘教拡大の渦が巻き起こった。
 彼は、時に大胆であり、意気のあがらぬ多人数の座談会を見ると、黒田節を舞って人びとを元気づけたり、小人数でひっそりしている座談会では、勤行をし、一人ひとりに、懇切を極めた細心の指導をするのだった。
 また、郊外の周辺都市に足を延ばしたこともある。彼にとっても、初めての土地であった。彼は、その途上、車の中にあって、小声で題目を唱え続けでいた。まるで、広大な未踏の原野に挑戦するような、人知れぬ奮闘であった。
26  各地区は、総立ちの形勢となって成果を競ったが、全地区がそろった足並みであったわけではない。遅れた地区は焦りだしたが、そのような時、まず、信心を奮い起こすことを既に学んでいた。
 たとえば、女性地区部長の一人、麻田元枝の地区は、出足が遅れていた。彼女は、意を決し、地区座談会に先立って、心ある地区幹部と真剣な題目をあげて、折伏の成就を祈念して臨んだ。
 果たして、地区あげての戦いは、八十人を超える友人の参加となり、対話を重ねるうちに、その全員が入会を希望して終わった。
 弘教の歓喜は、会員はもちろん、参加者全員をつつみ、皆が感動の涙で手を取り合ったのである。
 だが、一部の会員のなかには、もともと仕事が不調であったせいもあるが、仕事で努力するよりも、活動にさえ励んでいれば、生活も楽になるかのように錯覚している人もいた。道理に合わない、生活の基盤を全く無視した行き方である。
 伸一は、そうした人たちを見かけると、その誤った信心の姿勢を突き、叱咤した。
 「私は、仕事をしない人は絶対に信用しません。日蓮大聖人の仏法に照らしても、信用してはならないことは明白です。仕事に憂いがあるようでは、思いきった戦いができるはずもありません。
 本当の信心は、そんな甘いものではない。『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』です。
 また、『みやづか仕官いを法華経とをぼしめせ』とも言われ、厳しく戒められています。″信心で飛び回っていれば、なんとかなるだろう″という考えは、大聖人の仏法ではありません。
 今は苦しくても、歯を食いしばって、仕事にも信心にも頑張る時です。『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』――大丈夫です。御本尊は、すべてをご存じです。今は、いつまでも冬が続くように思っているでしょうが、決してそんなことはない。間もなく必ず春が来ます。今は、頑張る時です。しっかりやりましょう」
 伸一の熱情こめた指導に、「信心即生活」の自覚を新たにした人たちは、見る見る血色を蘇らせ、奮起するのであった。
 山本伸一の、疾風迅雷ともいうべき活動は、関西の跳躍の機運の持続を促した。五月の弘教の拡大は、四月にも増してとどまるところを知らず、あふれる歓喜を味わいながら、数多くの会員たちは活躍した。
 当時の人びとの、今日になっての回想は、異口同音に――あの時は、どうしてあんなに楽しかったのだろう。生活も苦しかったし、信心もよくわからなかったのに、あの歓喜は、今もって忘れることはできない――ということに尽きる。そして、懐かしさのなかに、今日の幸福が確立されたことを、追想するのである。
 伸一の早朝勤行と講義は、朝ごとの活力のリズムとなった。
 この活力のリズムは、派遣幹部や地元首脳幹部の、その日、その日の行動を清新に決定し、リズムは組織に脈動しつつ、全関西跳躍の鮮烈な源泉となっていった。
27  全国で華々しい座談会が展開されている最中、五月十三日の日曜日に、総本山主催の「水道まつり」が催された。法主の堀米旦淳の招きを受けて、創価学会の中堅幹部以上の千百人が、この日、参集した。
 総本山に、上水道が初めて敷設された涌出泉水の祝いである。六百数十年問、十分にして安全な飲料水がなかったことから、このたびの敷設は、大きな喜びの日となった。
 これまで、参道を流れるせせらぎを飲料水としてきた。境内の湧き水は、ほんのわずかしかなかった。
 時来って、数千人の登山者を迎える総本山にとって、飲料水の問題は、憂慮すべきことであった。水脈の調査は、明治時代からしばしば続けられたが、厚い溶岩層の下には水脈はないものとして、地質学者たちの結論は、いつも絶望的であった。
 戸田城聖は、登山者の激増から将来を憂えた。
 彼は、秋田の地区部長・佐藤幸治が、温泉などのボーリングの仕事をしていることを知って、一九五五年(昭和三十年)の正月、佐藤に試掘を依頼した。佐藤は、欣喜雀躍し、懸命になって御影堂の裏辺りを三カ月かかって二百メートルも掘ったが、地下水脈には行き当たらなかった。
 佐藤は、三十年にわたるボーリングの経験者である。彼は、絶望感に襲われた。
 この時、戸田の佐藤幸治に対する激励は厳しかった。佐藤は思い直して、十一月末、宗務院側の小川の近くを掘ったところ、わずか二十六メートルに達した時、奇跡のように地下水が噴出した。
 水量は一分聞に一石二斗(約二一六リットル)、水質も良好の、こんこんたる水源である。上水道工事は急ピッチに進み、配水管五千七百尺(約一七三〇メートル)、水圧は東京の水道の約二倍という総本山境内の水道が、五六年(同三十一年)三月に完成したのである。
 五月十三日の午前十時半、総本山の学林の広場には、模擬店がずらりと並び、音楽隊は、次々と学会歌を演奏し、戦いの渦中にある幹部たちを鼓舞し続けた。
 催しを終えると、太陽が、午後の強い日差しを辺りの新緑に注ぐなか、全国の各方面の同志は、各地に散っていった。
 この直後、思いもかけない突発事件が、まず大阪で起こった

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