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日蓮大聖人・池田大作

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上げ潮  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
12  北海道は、戸田にとって、思い出多いふるさとである。十代の後半を送った札幌や夕張は、彼の人生の来し方を、いやでも思い起こさせた。箱車を引く店員生活のなかで、向学の志に燃え、教員免許を獲得した札幌の街、夕張の真谷地で送った教員生活、希望と失意の織り成した青春の思い出が、噴きこぼれるようにあふれた。
 今、この地に、彼は、妙法流布の大使命を担って、その全国的な総帥として帰ってきた。予想もしなかったことだが、まことに人生の不可思議さに、今さらのように感に堪えなかった。
 彼の思いは、過去から現在へ、また、現在から過去へと揺れた。
 厚田の漁村に一庶民の子として育ち、やがて札幌に出て、庶民の生活の苦汁を、身をもってつぶさに嘗め、処世における学問の効用を痛感すると、独学の道を選んだ。
 彼の苦闘は、この時から始まった。独学の学問は、彼に小学校教員の地位を与えた。夕張の山間の憂鬱と苦悶は、青雲の志となって東京の地を踏ませたのである。
 苦闘は、さらに重なっていったが、彼は、牧口常三郎という終生の師に巡り合うことができた。妻子を失う不幸に耐え、師の全人格から得た価値論と信仰は、彼の人生を思うままに羽ばたかせた。
 戸田は、独創的な教育者として、また、事業家としての手腕を存分に発揮したが、時代は戦争へと突き進んでいった。師の不屈の信仰は、軍部政府の弾圧を呼び起こし、師は、彼を牢獄にまで連れていった。
 そして、師の牧口は、獄中で殉教の生涯を閉じた。戸田は、師の獄死に対する憤激の痛苦に沈んだ。しかし、師が、その生涯を終えようとしていた、まさに、そのころ、彼は、唱題に次ぐ唱題を重ね、法華経の真意に迫ろうとしていた。そして、何ゆえに、この世に生まれて来たかの本事を、悟るにいたったのである。
 生きてあることの歓喜と、果たすべき使命の重大な自覚は、彼を敗戦後の焼け野原に、一人、立たせた。
 彼は、直ちに、苦悩に沈む当時の民衆の蘇生に、残りの生涯のすべてをかけた。億劫の辛労は、日に、月に、実を結び始め、十年後の今日に至ったのである――。
 戸田は、北海道の汽車の窓から、遠い原野を眺めながら、異常なまでに寡黙になることがあった。来し方のすべての意義が、彼は、今、わかったのである。
 ″あのことも、このことも、一つとして無駄なことではなかった。過去の種々は、すべて見事に蘇生しているではないか!″
 庶民として苦渋を味わい続けてきた彼にとって、民衆の心情は、ことごとく彼自身の心情となっていた。もしも、過去のある境遇や事件が一つでも欠けていたとしたら、今日の彼という存在はなかったであろうことを、戸田は、心に反芻しながら、じっと寡黙になっていたのである。
 汽車は、二十日、彼を旭川に運んだ。彼は、懐かしい北海道訛の会話で、旭川の初信者たちを身内のように激励した。さらに思い出多い夕張、小樽、函館と、戸田は歴訪の旅を続けた。
13  彼の励ましは、疲れた派遣員や地元学会員に、尽きぬ活力を与えた。
 二十四日、札幌に舞い戻ると、市の商工会議所で開催された講演会で、彼は、約二十分間にわたる講演を行った。この時も、「観心本尊抄」の「此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」を基本テーマとして、御本尊がいかなるものかを徹底して説いた。
 この夏、北海道の八拠点の法戦は、十日間で合計千三百九十四世帯という本尊流布の成果を得たのである。
 八月三十日夜、八月度本部幹部会が豊島公会堂で開かれた。会員は場外にもあふれた。夜とはいえ、残暑の余熱に、場内は蒸すように暑かった。集った人びとは、流れる汗をぬぐいながら、この夏の意気揚々たる活動報告に耳をそばだてていた。言い知れぬ上げ潮の歓喜が場内に渦巻いていた。
 まず、折伏成果の発表である。蒲田、大阪の両支部が、それぞれ四千世帯を超えていた。十六支部の合計が、二万二千八百九十二世帯と発表されると、聴衆のなかに、「おぉーっ」という驚きの声が漏れた。
 さらに、地方派遣員の四十五カ所の成果が読み上げられ、合計五千五百五十八世帯と聞くと、人びとは拍手のなかに歓声をあげた。そして、最後に、八月度の成果総数二万八千四百五十という発表を聞いた時、皆、わが耳を疑った。そして、左右の同志を顧みて、″やった!″という誇りに輝きながら、団結の歓喜に酔ったように、はつらつたる笑顔が、会場いっぱいに花咲いたのである。
 数カ月前、せいぜい一万世帯そこそこで低迷していたのが月々の成果であった。五月三日の総会の折、月々一万五千世帯の成果を続行しなければ、一九五五年(昭和三十年)度の三十万世帯の目標達成は不可能と発表され、容易ならぬことと決意した一同の胸中の蕾は、三カ月にして、早くも大きく開いたのである。
 一万五千どころではない。二万を超えた。いや、それをはるかに超えているではないか。あと四カ月、これで本年度の目標達成は、確実となった。集まった数千の会員の拍手の嵐は、咲き誇った数千の笑顔の花々を輝かせた。
 この夜また、男子青年部の組織の改革が発表された。上げ潮の波頭の最先端にいた男子部は、部員の急激な増加に備えて、組織の新たなる整備に着手した。これまで十六の部隊の組織は、部隊長―班長―分隊長という三段階の編成であったものを、部隊長―隊長―班長―分隊長と変革したのである。
 当時の各部隊の人員は、平均千人から千五百人の部員を数えるまでに拡大してきたのだったが、なかには四千人に近い部隊もあった。秩序ある団結の前進というものが、将来、いつまで続くかという心配もあった。指導と、団結と、実践力との円滑な連動が要求されてきたのである。
 新組織は、これに対応するものであり、同時に、これまでの部隊ごとの幹部室を解消して、新たに各部隊に企画部門を設置した。あわせて庶務と教学に主任制を設け、それぞれの責任分野を明確にし、今後の限りなき発展に、早くも備えたのである。
 小西理事長のあいさつのあと、戸田城聖の指導となった。堂内を揺るがす拍手のなかで、戸田の姿に、みずみずしい光彩が、一瞬、走ったように思われた。その姿そのままが上げ潮の光であった。
 「このたびの夏季指導によって、五千五百余世帯の不幸な人びとを救えたのは、皆さんの厚い好意によるものです。必ずしも、現地で活動に励んだ人たちの努力ばかりではありません。皆さん方の資金の応援があったからこそ、できたのであります。このことを厚く感謝いたします」
 戸田は、成果の数字よりも、救われた不幸な五千五百余世帯の人びとの身の上を思って喜んだ。派遣員や地元の活動メンバーの労苦に謝するよりも、その活動を十分に可能にした応援者たちに感謝したのである。
 「五千有余世帯の人は、少ないようだが非常に大きい。そこで、他宗は大変に慌てだした。例をあげると、学会をまねて″折伏″を始めた教団があった。辻説法を始めた教団もある。また、ある地域では、『創価学会が来たから、皆、戸を閉めて裏から逃げてしまえ』と防御戦術をやったそうだ。さらに面白いのは、日蓮系のある宗派では、『創価学会問答十二か条早わかり』という問答集を出した。読んでみみると、実に滑稽で、教学があるのかないのか、思わず噴き出してしまった」
 ここで、笑いをこらえていた聴衆は、どっと爆笑した。
 「こんなことが書いてある。――この宗派では、『黒仏』といって大聖人の像を墨で黒く塗っている。『観心本尊抄』に『無始の古仏なり』とあるのを勘違いして、大聖人様は古仏だから黒いはずだと言うんです。なんたる滑稽な早わかりでしよう。
 彼らは、どうしたらよいか四苦八苦している。しかし、彼らがなんのかんのと理屈をつけても、御本尊の法力の点では、絶対に勝てません。これだけは、はっきり言っておく。
 たとえ、いかに信心が浅くとも、どんな悩みも、最後に引き受けてくれるのは、御本尊様です。世界唯一の法力のこもった本尊を、私たちは受持しているんです。皆さんは、心から安心して、今後の信心をしっかりやっていってください」
 一九五五年(昭和三十年)八月の、目覚ましい全国的な活動は、社会に大きな宗教改革のうねりを起こしていった。そして、この時に始まった上げ潮は、戸田がこの世を去るまで続き、このあと、二年数カ月で七十五万世帯達成の高潮をみるのである。
 その契機が、この夏の八月の戦いであった。

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