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日蓮大聖人・池田大作

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小樽問答  

小説「人間革命」9-10巻 (池田大作全集第148巻)

前後
12  山平は、独特の冷静さで、大石寺の御本尊への疑いを晴らしたあと、身延の本尊雑乱を厳しく追及していった。
 「五老僧をはじめ波木井殿にしても、なんでもかんでも釈迦を本尊としようとした。このことを日興上人は、『五人所破抄』(御書一六一〇ページ)において、あるいは、『富士一跡門徒存知の事』(御書一六〇一ページ)において厳しく破折されています。いったい、いつから身延では、御曼荼羅を拝むということになったのか、むしろ、それを逆にお聞きしたい」
 これで四人の補足講演は、ひとまず終わったが、期待した白熱的な論戦というには、はなはだ遠かった。それというのも、長内は一般紙の投書などを問題にして最初から教義論争を避け、関の本尊雑乱の正面切った攻撃に対し、宗方は答えることができず、教義の論争において低次元に終わったためである。早くも論敵を失った山平は、身延離山の歴史を語ることによって、日蓮大聖人の仏法の正統な流れは、日興上人のみに受け継がれたことを、つぶさに論証して終わったのである。
 それでも第三段階の一般参加者からの質問に入ると、待ち構えていた質問者の手が各所にあがった。
 一問の回答は、五分以内とし三分を経過すると司会者は合図をし、五分に達すると打ち切る。この一般の質疑には二十分が充当されていた。
 最初の質問者は学会側で、「身延では、狐を拝むことはない」と言った宗方木妙に向けられ、彼は身延の元信者として、狐を拝んだ自身の経験を証拠として詰問した。これに対し、宗方は、無責任な答え方をした。
 「それは個人が勝手に拝んでいるのでありまして、身延で拝ましているのではありません……」
 聴衆のなかから、怒号にも似た声があがったが、時間切れとなった。
 第二問は、身延側の聴衆の質問で、大石寺の御本尊と佐渡始顕の本尊と、いずれが正しいのかを、学問的証拠をあげて説明せよというものであった。
 山平は頷き、まず、大聖人の三大秘法について述べ、本門の本尊について語ってから、反撃に移った。
 「……もしもあなたが、佐渡始顕を正しいと思うならば、なるほど華厳経は、いちばん先に説かれた。それでは華厳経を信ずるのかと、逆にお聞きしたい。佐渡始顕と申しますと、なるほど、一応、佐渡で初めて顕された本尊といわれています。が、始めだからよいという理由にはならない。始めがよいというのなら、釈尊五十年の説法のいちばん始めの華厳経をやればよいではないか。
 「詭弁だ、詭弁だ」
 野次が激しく飛んだ。
 山平は、野次に向かって言った。
 「なにが詭弁ですか、あなた。日蓮大聖人の出世の本懐が三大秘法にあるということもわからないで、本門の本尊がわかるわけがない」
 野次の応酬が入り乱れて、騒然たるうちに時間がきた。
 このように、二人の司会者が、交互に質問者を指名して進んだ。長内妙義に対しては、先に取り上げた「読売新聞」の「人生案内」欄の内容について、その真偽を確かめたかどうか、という質問も出た。果たして長内は確かめていなかった。質問者は、その軽率さを激しく攻撃した。
 宗方木妙も二回質問を受けたが、その回答は、何を言わんとしているのか、まことに不明瞭なまま、時間切れで終わってしまった。
 いよいよ最終段階の対決質疑である。学会側が先番であった。山本伸一は、司会者として、一宗の運命を決する段階に来たことを意識して、凛然とあいさつをした。
 「それでは、最後に創価学会の先生方と、身延派の先生方と、両者で対決いたします。
 最初に、創価学会の先生から、身延派の先生に質問をいたします。そして、だいたい一問題について七分間、その間、途中において二分経過しても応答のできない場合には、できなかった方の先生が負け、また、その審判がはっきりしない場合は、司会者によって、皆様方に賛否をお願いするようになっております。
 それから、もう一つ、両者の先生方は、どちらの先生がお答えになってもよいことになっております。よろしくお願いします。
 それでは、初めに創価学会の先生から問題を出していただきます」
 場内は、一瞬、緊張のあまり、しんと静まり返った。
 関久男は、再び真正面から身延の本尊雑乱の事実を、鋭く突いて攻撃した。
 「身延山では、竜神や鬼子母神を拝んだり、大聖人の像、あるいは釈迦の像を拝んだりする。まさに本尊雑乱である。何ゆえにそのようなことをして、平気でいるのか。大聖人は『法華経の題目を以て本尊とすべし』とはっきりおっしゃっているのですよ。この点、明らかな弁明を、お願いします」
 長内妙義が答弁に立ったが、彼は、既に感情的になっていて、顔を紅潮させて語気が強かった。
 「ちょっと弁明いたしておきますが……私が身延の用心棒になったと言われまするが、私は新たな日蓮宗を設立したという意味において、参っているわけだ」
 彼は、弁明にもならない言い訳をしてから、これも苦しい本論に入った。
 もともと、何を本尊とするか明確でない身延である。長内は、「実在不滅の久遠本仏釈迦牟尼仏をもって、われわれは本仏といたしております」と言い、鬼子母神などを拝むのは別勧請によるのだと語った。大聖人の御書のどこにもない、後世に作り上げられた、でたらめな教義を持ち出して、抗弁せざるを得なかったのである。つまり、鬼子母神などを縁とし、手段として、最後に大本尊に到達する、というのである。
 「では、本当の本尊に行くのは、いったい、いつになったら行けるのか、なんでも拝んでよいなら、大聖人が『諸宗は本尊にまどえり』とおっしゃるわけはないのです。もう末法になって久しい。大聖人滅後七百年になっております。いつになったら行けるのですか」
 関久男の追及は厳しかった。長内妙義は、体をかわして、本仏論に話を進めようとしたが、関は惑わされることなく、追及を重ねた。
 「手段として、稲荷や、七面山や、鬼子母神を拝んでもよいと言うなら、その文証をあげてください」
 長内は、善巧方便であるなどと言い訳したが、責め立てられて、遂に文証にならぬ文証を出した。
 「文証、文証と申しまするが、いわゆる題目の光明に照らされて本有の尊形になったという意味において、ここのところをご了解願いたい」
 関は承知しない。
 長内は、しばらく立ち往生してしまった。身延側の司会者は助け船を出すつもりで、「あと三十秒」
 「あと二十秒」と時間を口にした。長内は、同じことを繰り返すより手はなかった。
 「……妙法の五字に照らされて、本有の尊形になる、という御文証がわからないのですか」
 なるほど、これは「日女御前御返事」のなかにある一節である。しかしながら、これは、何を拝んでもよいということを、述べられているのではない。
 「ここに日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹りゅうじゅ天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり……されば首題の五字は中央にかかり……此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり
 これは、日蓮大聖人が御本尊の相貌を詳しく説明したのであって、仏菩護から提婆達多や竜女など、十界の衆生が妙法に照らされて大曼荼羅のなかに列座して存在している尊厳さを述べられているのである。これが直ちに、稲荷や鬼子母神など、なんでも拝んでよいという教義にはならない。これは明白なことである。
 山本伸一は、司会者として、この問題を明白にする責任を感じて聴衆に向かった。
 「今の問題について、身延派の先生が文証を出したと思う方は立ってください」
 身延側の席にいた数人の聴衆が、ぱらぱらと立っただけであった。これを見た身延側の司会者は慌てた。彼は、対論の途中で賛否を問うことに反対してから、身延側の講師の質問を促した。
 長内妙義は立って、日蓮本仏論を攻撃してきた。予想通りである。これを待っていた山平忠平は、「開目抄」にある文証を二つ引いて、日蓮大聖人は、もはや天台や伝教のように、釈尊の法華経を弘通する理由はないこと、さらに主・師・親の三徳の上から、末法における本仏であることを、懇ろに論証したが、長内にはわからない。
 時間が来た。伸一は、ここでも、賛否を問うた。
 「今、この問題について、長内先生の質問に、山平先生が答えていないと思う方は起立してください」
 身延側の聴衆のなかから、わずか十数人が立つのみである。場内は騒然となり、身延側の席からは、帰りかける人も出てきた。
13  山平忠平は、再び質問を放った。
 「先ほど、身延山が、ありがたいようなことをおっしゃったが、なぜありがたいのか、仏教の哲学の上から、また、大聖人の教えの上から、お教え願いたい」
 長内妙義は、″日蓮上人が身延に九カ年住んで読誦したから神聖な山だと心情論に終始したが、問い詰められて、やっと日興上人が書いたという手紙を持ち出した。
 「波木井の郷は久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり、天魔破句も悩す可からず、上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり……」
 これは、日興上人が波木井実長に宛てたものとされているが、堀日亨は『富士宗学要集』のなかで、数々の疑点をあげており、その真偽が問題にされている曰くつきの手紙である。
 山平忠平は、「美作房御返事」にある大聖人の遺言、「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」(編年体御書一七二九ページ)を文証として、「謗法の山には住まないという大聖人の御精神をどうするか」と反駁した。
 時間切れとなり、暖昧のうちに長内の質問に移った。
 「本門、迹門を束ねて脱益といい、用がないとしますけれども、それは本当のことでございますか?」
 対決質疑の予定時間三十分は、刻々と時を刻み、残り少なくなっていた。場内の熱気も極点に達し、聴衆が固唾をのんで耳を澄ましているなかで、山平は明快に答えた。
 「法華経の本門も迹門も、熟益であり脱益であって、末法のわれわれには用事はない。その通りであります」
 そこで長内は、「観心本尊抄」の「本門を以て之を論ずれば一向に末法の初を以て正機と為す」を文証とし、本門こそ末法の始めの仏法と曲解して反駁を試みたが、山平につかまってしまった。
 「なるほど、『観心本尊抄』にそのような御文があります。しかし、それが何ゆえに、末法においては本門でなければならぬということになるのですか」
 大聖人は「観心本尊抄」のこの御文に続いて、「所謂一往之を見る時は久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至つて等妙に登らしむ、再往之を見れば迹門には似ず本門は序正流通倶に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」と述べられており、種脱相対して「末法の始は……題目の五字なり」と決している。
 長内にとっては、大聖人の仏法が、末法における下種の仏法、つまり、南無妙法蓮華経であることを、どうしても理解することが不可能であった。
 そこで彼は、山平の反問にあっても、反問の意味を理解することすらできず、まして、末法においては、法華経本門は流通分として用いられるにすぎないことなど、彼の念頭には、影すら浮かばなかった。しかし、彼とても、本門と題目の相違は気にかかる。気にかかるままに、彼は、うっかりそれを口にした。
 「本門は題目を詮ずるところの一つの下地であるということを、よくお考え願いたいのでございます」
 彼は、文底の妙法というものは、下地としての本門寿量品があるから論じられるのではないか、と主張してきたのである。
 「本門は題目を詮ずる下地ですか?」
 山平は、鋭く肉薄した。
 長内が言いよどんでいると、身延側の聴衆のなかからであろう、「下地だ!」という声がかかった。
 山平は、この瞬間、にっこり笑って、力強く言い放った。
 「下地は、いらないじゃないですか。どうですか、皆さん。塔を建てるのに下地として足場を組む。塔が出来上がったら、下地となった足場は取り払うんです!」
 どっと拍手が激しく鳴った。まさに、勝負はついてしまったのである。長内は、自らの言質で種脱相対を認めた格好になってしまった。慌てたのは長内である。彼は、しどろもどろになった。
 身延系の教義は本迹一致であるが、動揺した長内は、彼の顕本法華宗の教義を持ち出して、「本証相対」「種脱相対」に言及し、「本門は能詮であり、そこに所詮である題目がある」などと述べて、ますます窮地に陥った。
 「それでは、その下地になるものは、いらないというのですか。下地というのは言い間違いですか」
 山平の追及は、さらに厳しさを加えた。長内は、わけのわからぬことを口にした。
 「本門という一つの法相論の上におきまして、論ずるのでございますからして、本迹相対の一品二半というものを認めているのでございます。……もし、下地というのが悪ければ、それを取り消しておきます」
 長内の声は、いささか小さくなり、その声は拍手に消されてしまって、山平の耳には入らなかった。
 「下地は、いらないとはっきりしておりますね。下地と言ったのは、言い間違いですか」
 山平の止めの一撃である。長内は、本門は題目を詮ずるところのものであるとしか返答できない。山平は、さらに声を張り上げた。
 「……下地と言ったのは、言い間違いかどうか、はっきり言ってください!」
 長内は、口ごもりながら、言い訳にならぬ言い訳を、つぶやくように言った。
 「下地といいましでも……それはですね。教観相対する時の教という立場において、言っているのでございます」
 予定の時間は、既に過ぎた。
 身延側の司会者は、形勢不利と見て、時間切れを告げた。
 法論は、下地論争で終わった。身延側の敗色は、歴然たるもである。
 「上野殿御返事」次のようにある。
 「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり、日出でぬれば・とほしびせんなし・雨のふるに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべきか、良薬に又薬を加えぬる事なし
 ここに相待妙から論ずれば、本門も末法においては、不要であることは明白である。文底の南無妙法蓮華経が出現した以上、法華経の本迹は、ともに捨てるべきことは論をまたない。
 宗方木妙は、″馬の骨″で立ち往生してしまったが、今また長内妙義は、奇妙な本門下地論で、はからずも最後に馬脚を現したといってよい。終わった瞬間、凱歌は創価学会側の聴衆の胸のなかに、豁然とあがっていた。
 身延側の司会者は、これをもって終結しようとし、席を立った聴衆もあったが、山本伸一は、学会側の司会者として、約束通りの順序を主張した。
 「お待ちください。それでは、学会側ならびに身延側の先生方、一名ずつのごあいさつがあります。まず、学会側から……」
 「予定した時間が既に……」
 身延側の司会者はさえぎったが、壇上には、早くも、補欠候補として選ばれていた理事が飛び出していた。そして、彼は、機関紙の主幹として、身延批判の記事に嘘があるという身延側の言い分に対し、身延の元大本願人・小倉某という人の直接の話であると反駁を加えた。すると、身延側の司会者は何を慌てたのか、司会者の権限を乱用した。
 「議事進行の必要がありますので、弁士中止……」
 会場は騒然となっていた。
 身延側の司会者は、慌ただしく自身であいさつに立ち、聴衆に謝辞を述べ、閉会を勝手に宣した。
 山本伸一は、躍り出た。
 「ちょっと待ってください。……本日は、これで終わりますが、対決は、全部、テープレコーダーに厳然と録ってあります。また、本日のこれまでの対決の現状を見ましでも、日蓮正宗・創価学会が、誰が聞いても、誰が見ても、断固として正しいことは、厳然とわかることです。ご苦労さまでございました。解散します」
 彼の解散宣言は、そのまま勝利の宣言であった。
 宗方木妙は、二、三の僧侶に抱えられるようにして退場した。身延側の聴衆も席を立ち、すごすごと退場した。
 残ったのは、壇上の学会側の講師たちと、学会側の聴衆だけとなった。
 熱気を、なおはらんだ会場では、司会者・山本伸一の発声で三唱する万歳が爆発し、それが、厳寒の戸外の夜空にこだましていった。
 この直後、にっこりと微笑みながら、戸田城聖が壇上に足を運んだ。熱烈な拍手が湧き起こった。
 彼は、「ご苦労さまでした」と全員に親しく呼びかけ、なんとも和やかな表情で、日蓮正宗と身延の日蓮宗との根本的な相違を、三宝論に要約して展開し、しばらく質問会を続けて、各地から、急遽、参加した学会員たちを温かくねぎらつた。
 翌十二日、戸田城聖以下十八人の幹部一同は、小樽から札幌に向かった。宗門側が設けた昼食会に招かれていたからである。
 身延の日蓮宗との法論に、大勝利した報告を聞いた日昇は、ことのほか喜んだ。
 戸田城聖は、札幌にとどまり、その夜は、会員を迎えて質問会を行った。戸田は、弘教の情熱に燃え上がった会員に、渾身の激励と指導を行ったのである。
 戦い終えた青年部の派遣隊十一人は、その日の夜行列車で東京に向かった。戸田城聖以下七人の一行は、翌十三日の日航機で、夜の羽田空港に無事着陸した。
14  本部には、多くの友が待ち、にぎやかに法論の内容を報告し合った。慌ただしい十日ほどの闘争であったが、波紋は、その後、大きく広がった。
 まず、北海道各地の身延系日蓮宗の人びとのなかには、改宗し、創価学会に入会する人が陸続と出た。北海道における広宣流布の情熱は、いやがうえにも燃え立ち、組織は、急速な発展を見せ始めたのである。
 小樟問答があってから二年後の統計を調べてみると、百三十八世帯だった小樽班は、二千百世帯になっていた。また、道内の各拠点も同様で、旭川は三千百世帯、札幌は四千二百世帯、函館にいたっては、実に八千百世帯に達し、小樽と合わせて北海道に四支部が誕生している。このほか、東京の支部に所属する夕張地区は三千百世帯、室蘭地区は九百世帯で、北海道の全世帯数は二万一千五百世帯と、驚くべき数字に達した。
 一九五五年(昭和三十年)三月現在、全道で二千七百弱にすぎなかった創価学会世帯数は、わずか二カ年の間に、約八倍の飛躍を遂げたことになる。
 もちろん、この二カ年の間の創価学会の全国にわたる世帯数の増加率もかなり著しいもので、全国平均として三・五倍に達しているが、北海道だけがその倍以上の八倍となっている。これは小樽における法論の勝利が、全道の学会員に強烈な影響を与えたと見るほかはない。
 この勝利の法論を目の当たりにした北海道の学会員は、その後、正統の誇りと確信とをいだいて、いやがうえにも、広宣流布への情熱をたぎらせて活動したのである。
 身延の日蓮宗は、法論直後、宗内において、ざまな問題に直面したという。三月二十九日に日蓮宗宗会が開催され、宗会議員たちは、開会に先立って懇談会を行った。そこでは、小樽における法論の状況が報告され、その後の対応策が明らかにされたことを、四月一日付の「中外日報」が報じている。
 それによると、「宗内全寺院に対して今後、創価学会から申し込まれる法論には個別的には応じないよう警告が行われる」ことになったという。そして、「場合によっては中央的な一大公開法論での対決」も考慮されていたようである。
 宗会の二日目に行われた質疑においても、学会対策がテーマの一つになった。そして、ある議員から、次のような質問が、執行部に対してなされている。
 「創価学会への対策を聞くと宗門の末端では法論はやるな、中央でやるということであった。これだけでは対策にならない、もし当局が中央で問答をやり失敗したら大変なことになろう」
 これに対して、「当局としては聖教新聞に対抗する新聞の発行や折伏教典に対する教学上の批判」を行っていく、という答弁がなされている。
 当時の身延の狼狽ぶりが伝わってくるようなやり取りである。
 身延では、それまでの機関紙「護持教報」を、この年の十月に「日蓮宗新聞」と改題して、内容の一新を図っている。これも対策に腐心した、一つの結果であろう。その後、身延側では大急ぎで学会対策の本の出版を計画し、機関紙でも、真相を曲げた発表を続けた。
 当時の身延の日蓮宗が、創価学会を軽視していたのも無理はない。身延では、北海道全土に寺院は二百カ寺以上あると豪語していたが、日蓮正宗の寺院は、わずか五カ寺であった。信徒数に、おいても、彼らは絶対の優勢を保っていた。
 文部省の「宗教年鑑」によると、一九五五年(昭和三十年)十二月三十一日現在の教会、布教所を含めた寺院数、および信徒数は、次のようになっている。
  寺院数   日蓮宗       五、二九九
        日蓮正宗        一四三
  信徒数   日蓮宗   一、三七七、二二〇
        日蓮正宗    三四九、六二〇
 五五年三月当時の創価学会の世帯数は、急増していたとはいえ、まだ二十万世帯にも満たなかったのである。
 北海道・小樽の、一つの班による果敢な折伏活動を発端として起こった小樽問答は、はからずも日蓮大聖人の仏法が、いずこに厳然と実在するかを、広く世に実証したのである。
 そして、法論に負けても、反省もなく、改宗もせぬ他宗の頑なな実態を見極めていた戸田城聖は、一宗の命運をかけた法論、一宗の総力をあげての法論ならば、いつでも応じるが、それ以外の法論には、今後、応じないことを内外に宣言して終わった。

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