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日蓮大聖人・池田大作

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多事  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
21  一九五二年(昭和二十七年)笠原慈行事件の時とは異なり、ほとんどすべての僧侶が、僧俗一体の見地から積極的な協力の姿勢を示したことは、創価学会の存在と活動が、宗門のなかで正しく理解されつつあることの何よりの証拠であった。
 関西第八布教区の九カ寺の僧侶は、二月二十一日、全国の寺院へ檄文を飛ばし、S住職の御本尊返納請求の取り消しと、蓮華寺住職の辞職を勧告する旨を連署で発表するにいたった。また総本山宗務院は、S住職の返納請求は不当であるから、返納するに及ばずとの通達を、二月十六日、戸田城聖に対して行った。
 しかし、S住職は、これら一切を無視しただけでなく、さらに蓮華寺信徒有志の名で文書を再三発行し、反創価学会の蠢動を始めた。悪宣伝によって大阪支部の会員に働きかけ、何人かを創価学会から離脱させて、蓮華寺講中の信徒とした。そして、常住御本尊下付などの誘惑手段をもって、さらに、その手を伸ばし始めた。総本山宗務院は、蓮華寺に対し、常住御本尊の下付を当分差し止めるとの通達を発した。
 また、S住職の手先となり、策動にのって活動する学会員十一人を、創価学会は、二月十日、除名処分にした。幸いにして全国の寺院の僧侶は、創価学会の正義を認識し、各地で蓮華寺弾劾の峰火を上げた。笠原慈行にいたっては、岐阜から老躯をさげて、歩行の困難ななかを大阪に出向き、S住職追放の先陣に立ったのである。
 蓮華寺の不法、暴挙は、日を追って鮮明に浮かび上がった。三月上旬、総本山宗務院は、S住職に対して位一級を下げ、滋賀県の妙静寺への転任を発令した。
 しかし、S住職には、いささかも反省の色はなく、辞令を総本山へつき返した。そして、蓮華寺檀信徒有志の名で、全国の寺院の僧侶、並びに信徒に向け、事実を歪曲した内容のパンフレットを発送し、あくまでも抗争の姿勢を崩さず、わめき続けた。
 こうした間に、戸田城聖は、一月二十三日の西日本三支部連合総会の折に発表した大阪の新寺院建立に、懸命の努力を払っていた。彼は、市内のさる旅館を買い取って、改築に突貫工事を命じ、改築を急がせた。
 四月十一日は、浄妙寺と命名された新寺院の落慶入仏式となった。総本山から法主の日昇をはじめ、関係僧侶の出席があり、戸田会長をはじめ、春木大阪支部長以下、地元幹部が喜々として参集。午後一時から式典は盛大に挙行されたのである。
 蓮華寺問題が、依然としてくすぶり続けるなかに、戸田の大阪市在住の会員に対する配慮は急速に実を結んだのである。関西の会員にとっては、蓮華寺は、もはや問題ではなくなってきた。
 S住職のあがきだけが残った。そして、そのあがきは、広宣流布の大道から離脱し、彼の慢心は、やがて自らを滅ぼす道を直進することになったのである。
22  こうした煩雑な多事が西日本で続いている時、北日本の雪の北海道でも、同時に思いがけない事件が突発していた。小樽での広宣流布の活動の最先端で、身延系日蓮宗の僧侶と激突したのである。
 そして、いずれの宗団が日蓮仏法の正統を継いでいるのかを問う大法論にまで進展し、急転直下、創価学会の正義が公開の場で立証されていくのであった。
 戸田城聖は、敏速果敢な行動力を発揮し、東奔西走の忙しい日々を迎えなければならなかった。
 五五年(同三十年)の年が明けて、創価学会は、まさに多事多難の波瀾に、勇んで挑戦したわけである。戸田の晩年の活動は、このころから、ようやく社会の無理解との対決の様相を、色濃く帯びてきたといってよい。
 (第八巻終了)

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