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日蓮大聖人・池田大作

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学徒  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
23  しかし、なにしろ相手は学生である。彼らは、何かといえば批判的で、無責任な顔をのぞかせることもあった。時に無気力な会合に堕すと、戸田は、色をなして叱り飛ばした。
 「よそから来て、聞いているような態度は、実によくない! いやならやめなさい!
 こうやって叱る、ぼくを、憎むなら憎みなさい。ぼくの欠点を数えあげたかったら、いくらでも数えろ。ぼくは、聖職者でも、なんでもない。一人の凡夫にすぎない。それでも君たちは、何か不安で、ぼくについて来なくてはならんのだろう。もし、一緒に仏法の真の探究者になるというのならば、私の本当の弟子になれ!」
 戸田は、本来、豪放な性格であったが、これら数人の学生に対して、寸分の妥協もなく、どこまでも真剣であった。時折、発せられる叱声も、実は深い慈愛から出たものであることを、学生たちは後年になって知るのである。
 東大生たちは、法華経の研鑽は、実践をともなわなければならないと、折伏にも懸命に励んだ。彼らは、戸田の真心に応えたかったのだ。やがて、一人、二人と入会者が増えて、研究会には十人前後が顔をそろえることもあった。
 この研究会の会場も、いつか信濃町の本部の応接間に移っていた。
 他の大学の学生は、この会合をうらやんだが、仏法の深義を学ぶ法華経研究会の熱烈な気迫に刺激されて、おのずから彼らの間にも教学熱が急速に高まっていった。そこで、一九五五年(昭和三十年)になると、各大学の希望者を人選して、研究会は一挙に三十人に増員されたのである。
 ここにいたって東大法華経研究会は、創価学会の法華経研究会へと、発展的解消を遂げていくように思えたのである。しかし、戸田城聖は、東大の後輩のために、この研究会を東大にいつまでも置くよう指示することを忘れなかった。ともかく、三十人の研究会になったこの会合は、早大、明大、慶大、日大、中大、拓大など、各大学の学生が加わって構成されたが、さすがに東大生がいちばん多かった。
 五三年(同二十八年)四月十八日にスタートした法華経研究会の講義は、五五年(同三十年)九月二十七日の第二十六回をもって、ひとまず終わっている。二カ年半を費やしたわけである。
24  東大法華経研究会の、戸田の最後の講義には、山本伸一も同席していた。
 講義が終わった時、戸田は、学生たちに遺言を託すように言った。
 「もし、これから先、わからないことがあったら、この伸一に聞きなさい。わかったね」
 多忙極まる戸田が、何ゆえに、わずか数人の学生を相手に、難解極まる法華経の講義を始めたかというと、広宣流布を実現していくうえでの学生層の存在と役割を、早くから意識していたためといってよい。妙法を受持した学生の、二十年、三十年先の未来の活躍が、彼の脳裏には、まざまざと描かれていたのであろう。
 その学生たちの育成は、また、伸一の使命でもあった。
 その後、彼らは、戸田からバトンを受け継いだ伸一によって育まれ、社会の要となり、あるいは学会内の中軸となって、広宣流布推進の原動力になっていったことは言うまでもない。
 戸田は、生意気で逸脱しがちな学生たちに、彼らの生涯の原点を、忍耐強く刻み込んでいったのである。
 彼の人知れぬ努力のすべては、五七年(同三十二年)六月三十日に行われた創価学会学生部五百人の結成への基礎づくりであった。

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