Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

真実  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
24  しかし、日蓮大聖人は、人びとの幸・不幸のカギを握る生命の法則の厳然たる存在を示すと同時に、その法則に則った具体的な実践の方途をも、教え残されたのである。
 つまり、一人ひとりの民衆が、誰人であろうとも、あらゆる人生の苦悩を乗り越え、勝ちゆくための実践法を、具体的な「行」として残された。
 「自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と仰せになった唱題と折伏の実践がそれである。その「行」の根本となる御本尊の御図顕こそ、すべての人びとの生命の変革を可能とし、幸福へと導く仏法の根源を開示したものにほかならない。
 人類の歴史を見れば、人間は、あるいは自然の力の脅威のもとに、あるいは超絶的な神の支配のもとに服従し、自らを矮小化してきたといってよい。
 そうした力や支配から人間を解放することが、歴史の進歩だと考えられた。ところが、人間解放の努力のなかから、科学技術の驚異的な発展という、新しい事態が展開していった。そして人類は、自然を支配下に置き、何事も自由にできる力をもったと錯覚した。その傲慢さが、いつしか逆に、人間をむしばみ始めたのである。
 科学技術文明の行き着いたところは、人間自身が科学技術文明に縛られ、自由に身動きできなくなった世界であったとさえいえよう。人間疎外が叫ばれている現代社会の病理は、窒息し、翻弄され、むしばまれた人間のうめき声にほかならない。
 確かに、人間解放への道を進むことは、歴史の進歩といえよう。だが、それには、いつの時代にあっても、人間そのものを、どうするかが問題となる。ところが、「人間とは何か」という問いへの答えを見いだし得ないまま、歩み続けてきたというのが、歴史の現実ではないだろうか。
25  科学技術の進歩によって、人類は未知の世界を切り開き、膨大な知見を得た。そして、人間という範疇のなかのことは、ことごとく知り尽くしてしまったかのように思い込んでいるのである。これこそ、人間の深い迷妄なのではあるまいか。
 歴史の背後に″人間″を発見し、神と教会の呪縛から人間を解放しようとしたのが、西洋の近代化の流れである。しかし、発見されたその人間は、途方に暮れ、いずこへ行くべきかと、長い影を引きずって、暗黒の未来へ向かおうとしている。その暗黒を破る光を放つものは、生命の哲理でなければならない。この哲理こそが、人間の内なる生命を輝かせ、未来に光芭を放ち始めた、日蓮大聖人の仏法にほかならない。
 もはや、かつての西欧文明を築き上げた一連の思想では、役に立たない時が来てしまった。人間の存在を左右するものは、日蓮大聖人が早くも洞察したように、生命の力にかかっている。まさしく生命の哲理こそ、人間の尊厳を支える座標軸となるべきものである。
 戸田城聖が、あの獄中で得たものも、生命の尊厳の自覚であった。
 「仏とは生命である」と自覚した時、彼は、大聖人の仏法を、現代に、はつらつと蘇らせたのである。そして、彼の揺るがぬ確信と、その実践は、一九五三年(昭和二十八年)、五四年(同二十九年)に至って、ようやく全国的規模で、数多くの人生を蘇生させる現証を生んでいった。それが、入会間もなかった創価学会員の、数々の体験という事実であったが、それは、同時に、生命の世紀へ向かって門出した、勇者たちの胎動でもあったのである。

1
24