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日蓮大聖人・池田大作

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原点  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
16  一九五三年(昭和二十八年)四月十九日、男子育年部の第一回の総会が、東京・神田の教育会館で開かれた。
 五一年(同二十六年)の七月十一日、あの沛然たる豪雨のなか、西神田の本部で男子青年部の結成式が挙行されてから、はや一年半を過ぎていた。当時、百数十人で発足した青年部は、今、二千人と飛躍していたのである。
 皆、寝食を忘れての戦いであった。そして、そのなかの精鋭七百人が、この日の総会に勇んで参加したのである。
 総会は、正午に始まった。ぎっしり詰まった式次第である。研究発表という項目が三回あり、計十三人の青年部員が、それぞれ、日頃の研鑽の成果を標題に掲げて、懸命な発表をした。
 研究発表は、多彩なテーマが取り上げられていた。本尊論、神道論、キリスト教から共産主義、民族論、革命論と、あらゆる宗教、思想についての批判から、世界史における青年部の使命にいたるまで論及されたのである。
 総会といえば、いつも多数の体験談が発表されてきたが、この日の青年部総会では、多くの研究発表が、体験談に代わっていた。そこにも、社会を厳しく注視する青年の意気が、うかがえるのであった。
 戸田城聖は、この日の総会の姿勢を心から喜び、最後に、感激の面持ちを隠さず、青年たちに呼びかけた。
 「今日、これからお話しすることは、学会の根本の問題であります。
 まず第一に、今日の研究発表は、すこぶるよい。これでこそ、私は嬉しい。牧口先生が、この場におられたら、どんなに喜ばれたことであろうか。先生に一目、このありさまをお見せしたかった。本当に、私は泣けるんです。
 第二に、青年の意気というものは、いつでも大事なものです。人間の生命には、進歩性と保守性の二つがある。私のような歳、諸君の両親のような年齢になると、なんとなく保守的になるが、若いうちは、何かしら新しいものを求めていく進取的なものがある。この進取的なものが、人間の幸福を築くうえで、極めて大事なのです。この進取的なものは、若い生命にしかない」
 戸田は、こう語り始めながら、青年の本質を突いていった。そして、釈尊やキリストの教えを流布したのも、また共産主義を弘めたのも、青年の意気と力であり、これが世界の歴史を変革させた原動力であった、と強調した。
 さらに、敗戦日本の宿命を思い、これをどう変えていくかを考える時、今後は、仏法によって社会を建設する以外にないことを力説したのである。
 彼は、次に科学と宗教に論及し、仏法は、生命の因果の理法を説き示した大哲理であることを明らかにしていった。
 「科学と真の宗教は、決して相反するものではない。人間を幸福にするには、どうしたらよいか――それを探究した生命哲学の最高峰の大法理が、ここにあるんです。
 これを生活にどう活用し、いかに宿命を打破するか、それが宇宙の本源力の縮図である御本尊であります。ですから御本尊は、われわれを幸福にする″機械″といってよい」
 大胆な断定から、彼は、社会の二大思想の潮流に挑戦するかのように、こう言葉を結んでいった。
 「最後に、政治、経済と、諸君の立場について言っておこう。資本主義か、共産主義か、という問題があります。私の立場からすれば、どちらでも自由です。これらは一分科にすぎない。つまり、政治と経済の面からのみ人類に幸福を与えるだけです。
 幸福になるための、根本の哲学は生命哲学です。
 私たちは、これらの主義より一歩上の次元に立つ大哲学によって、世界を指導するのです。われわれの哲学は、共産主義や資本主義と相並ぶ同格の哲学ではありません。これら世界の一切の思想を指導する、最高の哲学であります。したがって諸君は、既にして世界的指導者なのであります。
 以上四項目について述べましたが、これが世界に対する私の第一回の発言です。どうか、しっかりやってもらいたい」
 男子青年部第一回総会は、創価学会青年部としての峰火を、天高く上げたといってよい。
 青年部員は、戸田城聖から、この日、「諸君は、世界的指導者なのだ」と、使命を胸中深く刻印されたのであった。青年の誇りが、ここに生まれたのである。この自覚と誇りにふさわしい自己の研磨と顕現こそ、その青年の生涯を崇高ならしめるものだ。
 だが、それには、純粋にして強盛な信心の持続が、欠くことのできぬ前提であることを、青年たちは、いやでも悟らざるを得なかった。また、これを戸田城聖から見るならば、広宣流布への戦いの弛みない持続のためには、彼の信頼する青年たちの情熱と、意気と、力とを、必要としたのである。
17  四月二十八日、二十九日の両日、三千五百人の学会員が、総本山大石寺に登山した。五重塔修復記念大法要に参列するためである。
 ちょうど一年前の、あの七百年祭のことを考えない人はなかった。半年にもわたった笠原慈行事件が、日昇の誠告文によって決着した時、戸田城聖は、時を移さず、老朽し、破損のままに放置されていた五重塔の修理を自ら願い出た。そして、心からなる浄財を募り、修復の資金にあてたのである。以来、半年、ようやく修理は完成し、今、朱と青の鮮やかな五重塔は、青葉の森に映えてそびえていた。
 戸田の広宣流布への一念は、ここに一つの結実を見たのである。
 二十八日夜には、一年前の、その日を偲ぶかのように、男子青年部員八百人は、妙蓮寺に宿泊し、戸田城聖を迎えて、「戸田先生を囲む会」を盛大に開催した。
 午後七時半、「星落秋風五丈原」の大合唱のなかに、戸田は、姿を現した。
 部隊長の森川一正の司会で、会は明るく進められていった。数々の質問が、次から次へと活発に続いた。戸田は、それらの質問に、甘えるわが子に答えるかのように、時に厳しく、時に冗談を飛ばしながら、政治、経済など、百般について、根本的な見解を披瀝するのであった。
 一時間の会合は、一瞬のうちに過ぎてしまった。
 青年たちは、戸田を即製の輿に乗せ、十六人の選抜者がそれを担いだ。
 大石寺まで、約一・五キロの夜道を、多くの青年は輿の前後に整列し、″五丈原″を合唱しながら行進した。淡い月夜であった。富士は夜空に威容を浮かべ、四辺の森は春宵に煙っていた。
 女子青年部員六百人は、この行進を三門で迎えた。ここでまた、″五丈原″の大合唱が始まった。戸田は輿から降りたが、再び輿に乗り、青年たちに担がれて参道を宝蔵に向かった。いつしか戸田の身体が弱り始めていたのを、誰人が知っていたことであろうか。戸田は、宝蔵の前で、しばし唱題した。そして、宝蔵前をぎっしり埋めた男女青年に向かって言った。
 「本日は、青年部諸君の好意により、私は、妙蓮寺から大石寺まで送ってもらいました。この真心のこもった行為が、私は実に嬉しいのです。
 今さら言うまでもないことだが、戸田の生命は、御本尊に捧げてあります。私は、必ず正法を日本に広宣流布し、さらに世界を救うために闘争いたします。このことを、今、諸君にお誓いするものです。諸君も、しっかり頼みます」
 戸田の言葉が終わった途端、一斉に、「はいっ、やります!」という力強い返事が返ってきた。その声は、夜の巨大な杉木立のなかに響いていった。
 この日、戸田は、山本伸一の長子が誕生したという報告を受けていた。男の子だという。
 彼は、心から祝いたかったのであろう。理境坊に戻ると、直ちに筆を用意させた。そして自ら持っていた扇子に、
 「子生まれて 嬉し 春の月」
 と認めて、伸一に贈った。
 翌二十九日の午後一時、五重塔前の広場で、修復記念の儀式が挙行された。参列者は、戸田をはじめとする三千五百人の創価学会員であった。
 晴天のもと、式典は読経・唱題のあと、日昇の慶讃文と続き、さらに戸田に感謝状が贈られた。
 この五重塔は、仏法西還の意義を込め、西向きに建てられている。
 未来を指さす塔は、今、飛期する創価学会の姿を祝すかのように、中天の太陽のもとに悠然とそびえていた。
 幾人かのあいさつに続いて、最後に戸田は、演壇に立った。
 「創価学会の目的とするところは、ただ広宣流布にあります。なんのためか。
 ――今、日本の民衆は悲惨な状態にあります。東洋の民衆も、どん底にあります。これを回復し、救わねばならないからです。このために、日夜、心を痛め、身を尽くしているのであります。
 今、五重塔を修復し、少しばかりの金銭の奉仕をしたからといって、これほどの感謝を受けるのは、私にとって汗顔のいたりであります。今後は、これに千倍、万倍する広宣流布へのご奉公をいたす決意であります。
 学会員諸君は、よろしく会長の旨を体して、大法弘通のために、戦われんことを願う次第であります」
 風の強い日であった。スピーカーを通して流れる戸田の至誠の言葉は、風に乗って総本山中に運ばれた。
 この時、戸田城聖の胸に去来したものは、丸一年前の七百年祭を発端とする創価学会の、ここ一年の戦いの経過であったろう。今、宗門の復興と、学会の大きな未来を望んだ確実な躍進とが、現実の姿となって眼前にあった
 戸田は、この一年の経過を、走馬灯のように胸に浮かべながら、彼の体得した、あの不動の原点に、いささかの狂いもなかったことを現実として知ったのである。

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