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日蓮大聖人・池田大作

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飛翔  

小説「人間革命」7-8巻 (池田大作全集第147巻)

前後
16  慌ただしい日程が続いたが、そのなかには、大きな行事も含まれていた。二月十五日には、埼玉県の川越会館で、五百人の参加をみて志木支部第二回総会があり、三月一日には、目黒の日出学園講堂で、鶴見支部の第二回総会があり、福島、群馬からも支部員が駆けつけ、約千人の結集となった。
 また、三月十五日には、小岩、本郷、向島、城東の四支部からなる江東総支部の第二回総会があり、豊島公会堂は、意気軒高な学会員によって埋め尽くされたのである。
 いずれも、一年前の総会と比較する時、折伏意欲の旺盛さと、組織の強化の成果が、歴然と見られた。総会での元気横溢した戸田の講演は、懇切適正な指導と激励で、余すところがなかった。それを受ける学会員たちも、一身をなげうって、広宣流布に邁進する決意を示した。
 ともあれ、広宣流布への道の、師弟にして不二の結合の歩みは、徐々に深まっていったのである。
 果たして、全国的に澎湃として起きた折伏意欲は目覚ましく、二月の新入会員は三千五百五十五世帯、三月は三千五百二十一世帯となり、はや確実に、毎月三千世帯を上回る成果を示していったのである。戸田城聖の、五三年(同二十八年)の構想は、現実となったのである。
 三月の本部幹部会で、教育会館にあふれる幹部たちを前にして、彼は言った。
 「こうして皆さんに会うと、非常に懐かしい。息子や娘のように思われてくる。
 私の方は、皆さんが好きだが、皆さんの方は、しっかり信心に励めと言っても、なかなか私の言うことを聞かぬことがある。末法の衆生は、貪・瞋・癡の三毒が強盛であるというが、皆さんも、欲張りで、怒りっぽく、頭が悪いようだ」
 戸田が、こう言うと、どっと笑いが起こった。
 彼は、さらに話を続けた。
 「しかし、近ごろ、皆さんは、奮闘してくださっている。私は、その真心には打たれます。いつも折伏のことが論じられているが、折伏をするのは、皆が功徳を受けるためであります。折伏しようが、しまいが、結局は自分の問題です。
 諸君は、民衆のための、また平和のための闘士であります。人が見ていようと、見ていまいと、日蓮大聖人だけは、ちゃんと御覧になっている。安心なさい。信仰の世界は、長い目で、長い時間をかけて、すべてを見ていくことです。
 今夜は、皆さんの折伏闘争に、厚くお礼を申し上げます」
 戸田は、地涌の菩薩の指導者として、並みいる数百の地涌の菩薩に、敬意を込めて感謝するのであった。
 離陸した創価学会は、一月、二月、三月と、はや確実に飛翔しつつあった。
17  このように、全国的な折伏活動の加速とともに、創価学会の社会的進出の勢いが兆し始めた時期、国内外では、新しい時代の流れが顕著になりつつあった。
 一九五三年(昭和二十八年)一月二十日、アメリカでは、アイゼンハワーが大統領に就任した。この名声高い第二次世界大戦の勇将は、トルーマンの″封じ込め政策″を批判して、朝鮮戦争(韓国戦争)の早期終結と、赤字財政を立て直すことを公約に掲げていた。
 前年十一月四日の大統領選挙に当選したアイゼンハワーは、十二月には朝鮮戦争の前線を訪ねて、休戦の方針を固めていた。だが、休戦会談が始まって一年半が経過しながら、捕虜交換の条件などをめぐって、話し合いは暗礁に乗り上げ、会談は行き詰まっていた。
 その事態を、再び休戦交渉へと動かしたのは、アメリカに続く、ソ連の首脳交代であった。三月五日、首相のスターリンが死去し、代わってマレンコフが首相に就任した。マレンコフは、異なる体制間の平和共存を打ち出し、朝鮮戦争の休戦を、より積極的に推進しようとした。
 三月二十八日には、アメリカ軍司令官のクラークが申し入れていた傷病捕虜交換の提案に対し、北朝鮮側がこれに応じ、四月二十六日、無期中断されていた休戦会談が半年ぶりに再開されたのである。米ソの指導者の交代は、時代の転換点となった。二大陣営が、互いに核兵器を向け合い、抑止力とする″恐怖の均衡″のなかにも、相互の共存を模索する″雪どけ″へと、徐々に向かい始めたのである。
 このころ、日本国内では、第四次吉田内閣が不安定な政局に揺れていた。そのさなかの五三年(同二十八年)二月二十八日、吉田首相の思わぬ失言問題から、政局は大混乱に陥っていった。
 この日、衆議院予算委員会で、右派社会党の西村栄一が、首相の吉田茂が、「国際情勢は、今、楽観すべき状態にある」と述べたことに対して、その根拠を問いただした。吉田が、
 「英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じた」と答えると、西村は、外国首脳の言葉の翻訳ではなく、「日本の総理大臣としての国際情勢の見通し」を伺いたいと、痛烈な皮肉をもって追及した。
 この時、吉田が、やや憤然として、「日本の総理大臣としてご答弁いたした!」と言うと、西村は、「総理大臣は、興奮しない方がよろしい。別に、興奮する必要はないじゃないか!」と応じた。
 この発言にムッとした吉田は、総理席に戻る途中、思わず口走った。
 吉田「無礼なことを言うな!」
 ここから、西村と吉田のやり取りが始まった。
 西村「何が無礼だ!」
 吉田「無礼じゃないか!」
 西村「質問しているのに、何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。国際情勢の見通しについて、イギリス、チャーチルの言説を引用しないで、翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが、何が無礼だ。答弁できないのか、君は!」
 興奮した吉田は、思わず「バカヤロー」とつぶやいた。
 この一言が、マイクに入ってしまったのである。
 西村「何がバカヤローだ! バカヤローとは何事だ! これを取り消さない限りは、私は、お聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、バカヤローとは何事だ。取り消しなさい!」
 西村の強い抗議に、さすがの吉田も、われに返って、失言を取り消した。西村も追及の矛を収め、さらに質問を続けた。
 この事件は、これで一応、収まったかに見えたが、それまでくすぶっていた与野党の対立、そして、与党内の確執が激突する火種となって広がっていったのである。
 直後の三月二日、右派社会党が、吉田の失言に対して出した懲罰動議の採決が行われた。この時、与党である自由党の鳩山派三十七人と広川派三十人が、わざと欠席し、表決は、賛成百九十一、反対百六十二で、総理大臣への懲罰動議が可決されたのである。前代未聞のことであった。
 吉田は、対抗手段として、農相の広川弘禅ら三人を直ちに罷免し、鳩山派との対決姿勢を強めた。議会の運営は停止してしまった。ここにきて、さらに吉田を追い込むべく、三月十四日には、改進党、右派社会党、左派社会党の野党三党が、内閣不信任案を提出し、呼応するように、この日朝、鳩山派の二十二人が自由党を脱党した。
 そのため、不信任案は、二百九十二対二百十八で成立したのだ。これに対し吉田は、衆議院解散で応じたのである。
 発足わずか半年で、第四次吉田内閣は行き詰まり、いわゆる「バカヤロー解散」となって、四月十九日に、第二十六回総選挙が行われることとなった。年度代わりの時期でもあったが、予算案も法案も、あえなく犠牲にされてしまった。
 戸田城聖は、そうした国内外の動向を鋭く見すえつつも、それらには目もくれぬごとくに、ただひたすら、彼自身の大道を、まっしぐらに突き進んでいたのである。

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