Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

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17  四二年(同十七年)九月十四日、総本山は、笠原慈行を擯斥処分に付し、僧籍を剥奪することに決定した。そして翌十五日、宗務院役員は、総辞職したのである。一切が笠原一人のためであった。
 笠原は、日蓮正宗の僧籍を剥奪されたが、それで反省するような彼ではなかった。彼は野干となって、宗門の維新断行を叫び続け、法主の日恭に辞職を公然と迫り、いよいよ暗躍を重ねていった。
 そして、事態は、一年後の四三年(同十八年)七月六日、創価教育学会の会長・牧口常三郎、理事長・戸田城聖らが、官憲によって連行されるにいたり、最終的に、幹部二十一人が逮捕、投獄される弾圧事件へと発展したのである。
 笠原慈行の神本仏迹論を、日蓮大聖人の教義をもって破折することは容易ではあったが、時勢が時勢であっただけに、その主張は、時の政治権力の弾圧を、免れがたかった。狡猾な笠原は、それをよく知っていた。だからこそ彼は、それをよいことにして利用し、国家権力を盾に、一宗乗っ取りの野望をいだいていたのである。
 笠原にとっても、僧籍剥奪は痛かったのであろう。そこで彼は、直ちに宗門の監正会に処分を不当として訴え、文部省にも訴願に及んでいる。
 この年、秋の『世界之日蓮』には、笠原は、次のような記事を書いている。
 「茲に我宗門も、大に目醒めねばならぬ。断じて宗門の維新を行うべきだ。(中略)天照大神の御堂を建立すべし、而して教義信条の立直しを実行する。然れば即ち広宣流布の大願も成就するであろう。さなくしては、一天広布は夢であるばかりでなく、日蓮正宗の如き小宗門は自滅の外はない。宗門は今既に噴火口上に立っている。それは宗門当路は既に感付てか、種々な足掻を見せている。併し今日は小刀細工ではダメ、速に大手術を施せ、目醒めよ正宗の諸君、今からでも遅くない。宗門独善の悪夢より醒よ。
  国亡び家減せば何処にか世を遁れん先ず国家を祈りて仏法を立つべし
 との金言を思え、今こそ宗門の維新断行の秋である」
 これは笑うべきことだが、彼にとって広宣流布とは、天照大神を祭り、国家権力に迎合することにあった。そして、自らが宗門の権限を握ろうとする策謀実現のために、宗門の維新を断行せよと、ただ国家権力を笠に着て、宗務当局弾劾の叫びをあげていたのである。
 日蓮大聖人の立正安国の戦いは、いかなる権力にも屈せず、正法を根底にして、理想的な平和社会を建設することだ。しかし、笠原は、醜い野心のままに、ひたすら策謀に狂奔し、宗祖の精神を踏みにじったのである。そこには、日蓮大聖人が、生命をかけて時の権力と対決しつつ断行した、宗教革命の峻厳な精神など、見るべくもなかった。
18  同じころ、創価学会初代会長の牧口常三郎は、宗門に対して、今こそ国家諌暁の秋であると叫んで、国家の滅亡を憂えつつ、国家権力と対決して獄につながれる身となった。そして、高齢の一身を妙法に捧げて、獄死したのである。
 この二つの歴史的事実を、戸田城聖は、夢にも忘れることはできなかった。
 七百年祭の折、笠原慈行をあくまで追及したのも、このためでもあったし、謝罪状を書かせるまで徹底して、その悪を明らかにしたのも、このためであった。
 しかし、笠原は、謝罪状を取り消し、宗門の内外に向かってパンフレットを配布し、創価学会に挑戦してきたのである。
 五月下旬、このパンフレットを入手した戸田城聖が激怒したことは、言うまでもない。宗内の汚濁、これに過ぎたるものはなかったからである。
 彼は、さっそく、各方面の情報を集めた。すると、大阪地方を中心とする第八布教区の僧侶たちが、事件を起こした創価学会を責めて、宗門の僧侶および檀信徒に対する侮辱行為と断定して抗議する決議文を作成し、それを全国の関係者に送付したことがわかった。そして、数多くの教区のなかには、第八布教区にならう動きのあることも察知された。
 戸田城聖は、深い憂慮に沈んだ。これを知った青年部員たちは、憤激して、戸田のもとに集まってきた。
 戸田は、はやる青年たちをなだめながら、笠原の戦時中の言動について語り始めた。それは、一九四三年(昭和十八年)六月に、総本山からの呼び出しがあって、学会の理事たちと共に、牧口に連れられて登山した時のことである。
 「問題は、神札の扱いのことであった。客殿の対面所で、当時の庶務部長の言うには、政府が神札について非常にやかましいことを言ってきたので、寺の方では、一応、受け取ることにしたから、学会方も、そのように心得てほしい、ということであった。
 牧口先生は、粛然として、神札に関する所信を述べてから、こう言ったのです。
 『いまだかつて、学会は、御本山にご迷惑を及ぼしたことはありません。今後も、また変わらぬでありましょう』
 ところが、この時、庶務部長は困惑した表情で言うのです。
 『いや、笠原慈行一派が、不敬罪で大石寺を警視庁へ訴え出ている。これは、学会の謗法払いの活動が、根本の原因をなしているのです。実に憂慮に耐えない』
 牧口先生は、『承服いたしかねます。神札は絶対に受けません』と主張し、退出した。そして、牧口先生、私を含め、幹部二十一人が逮捕されることになる。
 警視庁の取り調べの時にも、大石寺に対する告訴状が出ているということを、私は聞かされている。
 誰が告訴したのか。そのころ、宗門から擯斥されていた笠原の仕業が、弾圧・投獄の発端となったことは明らかです。牧口先生は、このために獄死された。誰が先生を殺したかと、私は言いたいのです」
 戸田は、沈痛なまでに、語気を押し殺しながら言った。
 青年たちは、胸をえぐられる思いであった。彼らは、六月一日に、「神本仏迹論を破す」という、笠原のパンフレットに対する反論を、男子青年部の名で発表し、六月三日になると、笠原に対する徹底的な闘争を、宣言に認めて発表したのである。
 戸田城聖は、六月十日、決然として、会長名による宣言を内外に表明し、笠原への追及の手を緩めないことを明白にした。
 「去る四月二十七日、当学会青年部が笠原慈行を徹底的に責めたのは、神本仏迹論の悪義を以って日蓮正宗の清純なる法燈を乱したが為であった。そして、ひとたび謝罪の意を表したにもかかわらず前言をひるがえし、五月下旬に文書を以って再び公然と神本仏迹論の正当を主張するに至ったのは、実にこれ天魔の所為と断ずべきものである。(中略)
 依って私は全学会員に対し、今後笠原慈行に遇うならば、いついかなる時、及び処を問わず、これと闘争し徹底的に追及すべき事を指示したのである。吾人は、笠原慈行は僧侶と思わず、天魔の眷属と信ずるが故に、世の批判及び全国信徒の毀誉褒貶はあえてかえりみず、ひたすら宗祖大聖人、御本尊の御仏意をかしこむが故に、以上を宣言するものである。(中略)
 笠原慈行が手記を以て神本仏迹論の正当を主張するに至った五月中旬以来、吾人は清純なる日蓮正宗守護の為に、御本尊の御本意及び御開山日興上人御遺誠を遵守して、仏法破壊の天魔笠原慈行に対し、彼の魔力を破り去る日迄勝負決定の大闘争を行うものである。
  右、仏法守護の為、これを宣言す。
   昭和二十七年六月十日
         創価学会会長戸田城聖」
 なお、戸田は、六月一日、総本山に対し、「御伺書」を提出していた。笠原事件について、総本山から始末書を提出するよう求められていたのに対し、始末書の作成にあたっての必要な教示を、願い出たものである。
 笠原事件によって、総本山、創価学会、笠原慈行が、三つ巴の関係になり、さらに全国の正宗寺院までも、この混乱に巻き込まれていくのである。
 戸田城聖は、この問題の処理に心を砕いていた。学会幹部のある者は、笠原が、今も神本仏迹論を主張している事実が明らかであるからには、総本山が、笠原を処分するであろうから、問題は早急に解決するはずだと楽観していた。
 しかし、戸田は、その楽観論を戒めて、硬い表情で言った。
 「これは根が深い。戦前に、とうに解決されていなければならないはずの問題が、実は解決していななかったのだ。四月二十七日の事件をもって、解決の端緒についただけだ。これは、日蓮正宗全僧侶の動向がかかっている問題なんだ。早急に解決するものとは思えない。
 創価学会としては、日蓮大聖人の正義だけは、断じて貫かなくてはならない。今は、ただ邪悪と戦い抜く覚悟だけは、してもらいたい」
 まさに、彼が指摘したように、事件の根は深かった。事態の推移は、さまざまな波瀾をはらみつつ、遂に秋半ばに至るまで解決をみることがなく、くすぶり続けねばならなかった。

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