Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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七百年祭  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
33  翌二十八日は、早朝から晴天であった。午前六時三十分、朝靄がたなびくなかを、青年部の全員が、御影堂前の広場に結集した。
 部隊別に整列した青年たちを前に、関青年部長が、前夜の事件の真相を語った。
 「昨夜の笠原の事件は、偶然に起きた事件ではない。事件の根は実に深く、戦時中に遡るのです。彼、笠原は、当時の軍国主義に迎合し、軍部の有力者や、一部の宗教家と、『水魚会』という団体を結しました。
 そして、日本は神国のゆえに、神が本であって、仏は迹にすぎない。日蓮大聖人の御真意もそこにある――という邪義を構え、日蓮宗各派の統合を策し、盛んに軍部と提携して暗躍したのであります。
 しかも彼は、宗教統合策が成功した暁には、清澄寺の管長になるということさえ約束されていたんです。
 こんな邪義が、認められるわけはありません。笠原は、時の日蓮正宗管長に対し、実に五回にわたって詰問状を送り、総本山首脳部の総辞職を迫ったのであります。笠原の背後には、軍部政府が控えていました。それを背景に、総本山の首脳部を、『国賊』として糾弾したのであります。
 やむなく宗門は、遂に笠原を擯斥処分にいたしました。これが、昭和十七年(一九四二年)の秋のことであります。
 しかし笠原は、その後も策動を続け、それが創価学会大弾圧の起因となり、あの牧口先生を牢死せしめる淵源となったのであります」
 聞き入る青年たちの目は、笠原の悪辣さに対する激しい憤りの色をたたえていた。
 関青年部長は語をついで、笠原の戦後の動向に触れていった。
 「これほどの悪逆を働いた彼、僧籍を剥奪された彼が、またまた最近に至って、各地にわたって蠢動し始めたことが判明しました。そして、この七百年祭に、平然として総本山に姿を現したのであります。
 青年部は、彼の真意をただすべく、昨夜、寂日坊に、おいて面談したところ、笠原は、相も変わらず神本仏迹論を主張して、翻しませんでした。
 そのため青年部は、やむなく、彼を牧口先生の墓前に運び、牢死せる牧口先生を前にして追及したのであります。彼も、そこにおいて、ようやく非を悟り、遂に謝罪状を書いて、その罪を謝し、今後の行動を慎むことを誓ったのであります。
 学会青年部は、ひたすら清浄なる正法を守るために戦ったのです。われわれ青年部の昨夜の行動は、いささかも天地に恥じることのない、公明正大な行動であったことを、諸君は確信してほしい。これで、報告を終わります」
 拍手が湧き起こった。
 関が傍らに退くと、青年部の幹部の一人が、昨夜の謝罪状を広げて、読み上げた。
 「私の神木仏迹論は妄説である……」
 笠原が、自らの非を認めた、動かしがたい証拠であり、青年部の行動の戦果である。読み終わると、期せずして激しい拍手が広がった。
 青年部員一同は、それから墓地に向かった。昨夜の踏み荒らされた墓地を清掃するためである。彼らは、踏み荒らされた跡を、きれいにならした。牧口の墓の周辺を念入りに掃き清め、線香をたき、読経・唱題して、事件の顛末を報告したのである。
 これらのすべてを、四月の青空にそびえ立つ白雪の富士は、朝日のなかで見守っていた。
 このころ理境坊では、地元の警察署長と二人の刑事が、戸田城聖や泉田弘のもとに事情聴取に来ていた。
 泉田筆頭理事が、詳細な事情を懸命になって話した。しかし、警察署長らは、不可解な顔をするばかりである。信徒でもない彼らには、教義にかかわる深い事情は、わからなかったのであろう。彼らは、泉田の話のなかから、次々と質問を発してきた。
 「会長は、墓地には行かなかったんですか」
 「消防団と衝突は、なかったんですか」
 「暴力は、なかったんですか」
 「笠原は、酔っていなかったんですか」
 どの質問にも、泉田は事実をもって答えた。
 署長は、怪訝な面持ちになった。警察官が、昨夜、耳にした風聞と、今、聞く真実と、かなり相違があったからである。
 署長は、辺りを見回して言った。
 「青年の人たちにも、お伺いしたいのですが……」
 戸田は、この時、初めて口をはさんだ。
 「同じことですよ。この泉田が、私の言う通りに、一切の指揮を執ったんです。責任は青年部にはない。あるとしたら、一切の責任は、この私にある」
 署長は、戸田の決然とした言葉に返す言葉もなかった。
 「いや、おじやましました」
 警察署長らは、何事もなかったように、この時は、ひとまず帰っていった。
34  四月二十八日午前九時――創価学会員、四千三百余人は、再び三門内の広場に集合した。この日、御影堂で行われる、宗旨建立七百年慶祝記念大法会に参加するためである。
 支部旗、部隊旗のもとに集い合った全会員は、整然として威儀を正していた。
 人びとの眼は、歓喜に輝いているようである。七百年祭の大儀式に参列できる、晴れ晴れとした誇りに、胸を高鳴らせているのであろう。生々はつらつたる、地涌の隊列であった。
 彼らは、法華経の従地涌出品に、おいて、忽然と地より涌出した菩薩の群像を、いかにも彷彿させるものであった。この儀式に参列した人びとの表情には、それぞれ自覚によって得た信仰の確信が見られたからである。いかなる弾圧や迫害にも、決して屈することのない、広宣流布実現への決意と、生命の歓喜が、辺りにみなぎっていた。
 初めに、泉田筆頭理事が進み出て、昨夜の笠原事件の真相と、その由来するところを詳細に語った。
 そして、笠原から、遂に謝罪状を得たことを述べると、それを受けて青年部の幹部が、両手にその謝罪状を広げ、力強い声で朗読した。正義のために、なさねばならなかった、その行為に、期せずして拍手が広がり渡った。それは、参加したすべての人が、同じ創価学会員であることの誇りを味わいつつあることを、自然と表現していた。
 話は、再び泉田に戻った。
 「このよき日にあたり、私たちの最大の喜びとすべき事実を、ご報告申し上げます。それは、昨年来、今日の日のための記念事業として発願した、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』が、見事に完成し、総本山に、百冊の献上をいたすことができたことであります。
 立宗七百年、今、初めて、学会によって、全御遺文集が刊行されたのであります。まことに七百年祭にふさわしい、歓喜の結集と申しても過言ではありません。一言、ご報告いたす次第です」
 次いで戸田城聖が、万雷の拍手に迎えられて、中央のマイクの前に立った。
 モーニング姿の長身の彼は、微笑を浮かべながら、居並ぶ隊列に慈愛の眼差しを注いでいった。秀でた額が、朝日に輝いている。彼の左後方には、四月の紺碧の空に、雄大な富士の白雪が、まばゆく光っていた。
 戸田は、軽い咳払いのあと、親しみのあふれる声で話しだした。
 「ただ今、話のあった御書のことだが、身延は、三年前から計画しておりました。学会は、昨年春に発心し、ほぼ一年足らずで完成したわけです。身延の御書は、いまだにできておりません。
 今まで、なにかと押され気味だった日蓮正宗が、七百年祭を期して、御書の編纂に関してだけは、堂々と凱歌をあげることができた。初めてのここと言ってもいいのであります。これこそ、われわれ創価学会員一同が、一致団結して戦った賜であります。
 わが創価学会教学陣は、それぞれ寝食を忘れて、御書編纂にあたること一年、学会員の皆さんが、こぞって、この計画を援助された賜と、私は深く感謝している次第であります。
 本当に、よかった。これで、正しい御書全集が、立宗七百年にして、初めて刊行されたんです。大聖人様は、どんなにかお喜びであろう、と私は思う。
 ともかく、今日のよき日に、新しい御書を大御本尊様の御前に、お供えすることができた。私は、嬉しいのです」
 戸田は、昨夜の笠原事件には、一言も触れなかった。今日の慶祝大法会の喜びに、彼の胸中は満たされていたにちがいない。彼は、そのあと大法会に臨むにあたって、こまごまとした注意を与えつつ、信心の根本というものが、どうあらねばならないかを訴えていった。
 次いで関青年部長から、下山に際しての輸送計画と、注意事項の説明があり、午前九時四十分、男女青年部、各支部の代表が、学会本部旗を先頭に隊伍を組んで、御影堂へと出発した。
 降り注ぐ朝の陽光を浴びて、九本の男女部隊旗、十三本の支部旗が、美しく輝く。壮年も、婦人も、動作は青年のようにキビキビとして、大儀式に臨む緊張感と喜びにあふれて、厳粛な面持ちであった。
 今、新生の春である。
 人びとは参道を進み、御影堂への石段を上っていった。
 いよいよ、宗旨建立七百年慶祝記念大法会である。学会代表幹部は、御影堂に入って着席した。
 読経を終え、慶讃の儀式は進んでいった。
 やがて法主の日昇が、このよき日のための慶讃文を読み上げた。
 「生々の気、天下に満ち、瑞気地上に渡る時、大日蓮華山大石寺の満山を荘厳し奉り、本門寿量文底秘沈の大法……」
 読み終えると、日昇は慶讃文を、恭しく御本尊の前に奉呈した。
 このあと、僧侶の代表によるあいさつなどがあり、式典は滞りなく終わった。
35  ちょうどそのころ、客殿の付近に、数人の報道関係者が押しかけて来ていた。昨夜の笠原事件の取材であった。
 これには、青年部の幹部が応じ、昨夜のあらましを説明した。
 新聞記者としては、事件の発生とあれば、ともかく記事にして報道しなければならない。
 青年部の幹部は、笠原の宗門における叛逆を懸命になって説明したが、教義の理解という土台のない彼らには、短時間の説明では、さっぱりわからない。記者たちは、怪訝な面持ちで聞いていた。
 結局、慌ただしい客殿の外での取材は不得要領に終わって、彼らは夕刊の締め切り時間を気にして、退散していった。
 陽が西の山脈に近づくころ、七百年祭の参列者たちは、役員の指示に従って、名残を惜しみながら、次々と総本山を後にしていった。
 陽春四月――快晴に恵まれた、慶祝の行事であった。それはまた、立宗から七百年後における、新たなる広宣流布への出発の日でもあったといえよう。
 日蓮大聖人の御書全集を発刊し、「師子身中の虫」を断つ破邪顕正の戦いを開始したこの日を起点として、広宣流布の様相は色濃く一変していったのである。
 笠原慈行を謝罪させた一件は、その後、総本山との関係に、おいて、波瀾を呼んでいった。
 それは、逆にいえば、広宣流布は、まだ遥か先のこととしか考えられなかった人びとにとって、慈折広布の本格的在到来を告げる暁鐘であった。
 青年たちは、このことから、自らの行動を通して、日蓮大聖人以来の正法の清流を守ることが、いかに大事であるかを学び取っていった。彼らの意識と行動の奥には、日蓮大聖人の御在世の姿が、あたかも下絵のように、くっきりと浮かび上がっていたといってよい。そして、「大聖人の昔に還れ」「正法正義を守ろう!」と訴えずにはいられなかったのである。
 彼らは、その意識の底辺に浮かんだ下絵を、初めて見る思いであった。
 そして、その彼らの行動の規範となっていったのが、日蓮大聖人の正法正義を余すところなく網羅した御書全集であった。
 大聖人御在世と、今と、七百年の隔たりがあるとはいえ、その本質に、おいては、全く異なるところはない。いな、異なってはならぬ、と青年たちは決意したのである。
 日蓮大聖人は、広宣流布のために、ただ一人、末法の世に起ち上がられた。そして今、その達成には、志を同じくする無数の民衆の真心の結集がなければならない。
 男女青年部員たちは、この日、人びとが去って行ったあとも、最後まで総本山に残り、各宿坊をはじめ、境内の各所を清掃してから帰路に就いた。
 彼らが富士宮駅に着いた時は、既に夜となっていた。
 まる二昼夜にわたる活躍のあとである。若い彼らは、快い疲労のなかで、食事をとったり、土産物を買ったりしていた。駅の売店で、夕刊を買う人もいた。
 夕刊を広げた一人の青年は、地方ニュースのトップの活字を目にすると、周りの青年たちに呼びかけた。
 「おい! 出てるぞ、出てるぞ。案外、早いじゃないか」
 一同の顔がのぞき込んだ。
 「素裸にして吊し上げ、大石寺の若僧30名、前管長に暴行」
 これが見出しである。
 記事では、二十七日夜九時ごろ、開宗七百年祭に、「前管長」である笠原慈行師が、招かれないのにひそかに参列したところ、暴力事件が起こったとしていた。
 「……前管長に反感を持つ同寺若僧三十余名が発見、″宗門を汚した罪を償え″と寺の裏山に連出し素裸にして両足をしばり吊上げた上、わび状を書かした事件があった。
 このため全山は大騒ぎとなり、富士地区署で非常召集を行い暴行脅迫容疑で関係者の取調べを行っている。
 前管長が昭和十八年戦時の強制的な宗門合併で檀徒の意思を無視し犬猿の間柄である身延山に同寺を身売しようと印までおしたのを猛烈な反対によっで阻止したことがあり、それが原因と見られていいた。
 一読してもわかるように、恐るべき誤報といわなければならない。笠原は「前管長」になり、学会青年部は「若僧」になったばかりでなく、あたかも暴行事件が起こったかのように報道されていた。
 真相というものが、いかに伝えがたいか、この記事は、その典型的な一例と見ることもできよう。
 この記事は、笠原事件が、世間の目に、かくも歪んで映ったことを示している。宗門の多くの僧侶の目にも、さまざまな映り方をした。この事件が真実の姿をもって映るには、この後、なお絶大な努力と、若干の時の経過を必要としたのである。

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