Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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驀 進
小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)
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御書発刊と同時に、学会員は、すさまじい勢いで、立宗七百年祭の日をめざして活動に邁進し続けた。前年秋からの会員の激増によって、これまでの総会の会場では、全会員を収容することができなくなっていた。いきおい各支部単位の総会を行い、そのうえで、四月七日の春季本部総会は、会場を千代田区神田駿河台の中央大学講堂に移して挙行する方針が決定された。
既に開催された、二月十日の江東総支部総会に始まり、三月には、一日の中野、二日の杉並、九日の足立と築地、十六日の蒲田と、それぞれの支部が、第一回の総会を行ったのである。
それは、七百年祭を目前に、各支部が躍進の姿を鮮明にあらわすものとなった。つまり、これまでの学会本部の努力が実り、各支部が着実に力をつけ始めた結果であるといってよい。戸田が、第二代会長に就任して以来、わずか十カ月での成長であった。
各支部の伝統は、この苦闘と建設の時期に築かれたのである。
戸田は、どの支部総会の壇上にも姿を見せた。そして、戸田の顔を知らぬ新入会の支部員たちに、親しく語りかけた。
三月一日の中野支部総会では、七十七歳の一婦人の体験発表に、彼は、深い同情を寄せて聞いていた。
――天涯孤独で病身の婦人が、老人養護施設で、四面楚歌の冷酷な迫害のなかを戦いつつ、遂にその境遇から脱して、歓喜に満ちた生活と信心にたどり着くまでの信仰体験であった。赤裸々な話のなかにこそ、深い真実があるものである。
戸田は、心を動かされて立った。
「ただ今の体験談をお聞きになったと思いますが、多くの皆さんは、このご婦人より、はるかに若い。したがって、これからがっちり信心に励めば、いかに多くの功徳を受けることができるか。皆さんも、五欲をほしいままにし、たくさんの功徳を受けてください。祈りとして叶わざるはなし――いかなる願いも、叶うのであります」
彼は、ここで、さらに新入会者の多いことを見て取って、話を続けた。
「初信の功徳の次に起こってくるものが、魔であります。御聖訓には『
此の法門を申すには必ず魔出来すべし
』と仰せです。三障四魔が紛然として起こり来るのであります。仏と魔は一緒であり、善と悪とは左右の関係であり、幸福、不幸は隣同士であります。
魔に四つあり、病魔、死魔、煩悩魔、天子魔であります。信心をさせまいとし、疑いを起こさせるものが来るのであります。″さあ来い、魔などに負けてたまるか″との大覚悟で向かう時は、魔は退散するのであります。
『
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
』とは、『開目抄』にある大聖人の御言葉であります。大覚悟がなければなりません。疑いを起こす人は、たいてい横着な信心の人であります。
そうした山を越え抜いた時、成仏の境涯といって、崩すことのできない境涯となるのであります。この山を越せるか越せないかは、その人の信心によるのであります」
戸田の話は、観念ではなく、生命の奥底からの確信として響いた。
「大聖人は、『
つたな
拙
き者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
』と戒められておりますが、怯みそうになる時こそ、御本尊様にすがるように、ひたすら祈り抜いていくならば、必ず願いは叶うのであります。
今日からは、このことをしっかり胸に抱き締めて、死ぬまで忘れぬようにしていただきたいと思います」
戸田が、生涯に行った講演は、通算すると、実に多い。だが、同じことを二度繰り返すことは、まことにまれであった。その時、その場において、聴衆が求めているところを察知し、人びとに必ず満足を与えていった。ある時の、ある場所の聴衆は、それなりの特殊性をもつように、彼の講演も、その時、その場所にしたがって、それなりの特殊性をもっているのである。
今日、残っている彼の『講演集』を読む時、その言葉のみを追って読むとしたら、時に、その真意を読み違えてしまうこともあろう。その時々の背景と、環境を考慮に入れる必要がある。すると、彼が何ゆえに、そう言わなければならなかったか、その必然性を知ることができる。
その時、彼の講演は、いかに生き生きとした熱気を帯びていたかが、にわかに、よみがえってくるであろう。これは、単なる雄弁術の演説家などの、まねのできることではない。
戸田の講演には、常に、彼の生涯を通してつかんだ真実が、凝縮されていた。彼の悟達の智慧の泉から、
滾々
こんこん
と湧き出る確信を、惜しげもなく民衆に与えていったのである。戸田の確信に触れた人たちは、忘れがたい歓喜を、生涯、胸中にもつにいたった。彼の話す抑揚や物腰、聴衆をわが身内のように思いつつ語る姿は、まことに抜苦与楽の実践であったのである。
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一月末から始まった驀進の行動は、蒲田支部での二月闘争が突破口となって、三月には、はっきりと新時代の到来を思わせる実態となった。
三月三十一日の幹部会の発表によると、折伏成果は次の通りであった。
蒲 田 二一二 鶴 見 一六九
足 立 一五四 小 岩 一二七
杉 並 八三 築 地 八二
向 島 五一 本 郷 五〇
中 野 四三 文 京 四〇
城 東 三四 志 木 二八
計一〇七三世帯
二月に引き続いて、蒲田は二百世帯を突破した。また、各支部も競って、これに続こうと努力し、前年秋の十月からの目標である一カ月千世帯を、七十三世帯超えることができたのである。
驀進は、かけ声だけの闘争ではなかった。決めたことを断じて達成することが、学会精神である。
皆、戦い切った表情であった。どの幹部の顔にも、微塵の悔いもなく、暗い影もなかった。四月の立宗七百年祭の祝典に、名実ともに地涌の戦土として参加しようとする、晴れ晴れとした法戦だった。
こうして、七百年祭をめざす戦いの火は、暗黒の末法に、本格的な広宣流布の火となって、赤々と燃えていった。
戸田城聖にとっては、会長就住後の第一楽章ともいうべき、全人類の救済に向けての指揮であった。当然、一切の力を、ここに集中せねばならなかったのである。
まさしく七百年祭は、世界の救世主・日蓮大聖人が、末法万年尽未来際までも救済せんと宣言なされてから、七百年という記念すべき節である。戸田にとっては、広宣流布達成という無血革命の悲願に立ち向かう、重要な跳躍台でもあった。
一念ほど強いものはない。一人の人間の、不動の鉄のごとき一念が、やがて世界をも動かしていくのである。
戸田の、消えることのない一念の火は、点々と弟子たちの心に燃え移っていった。そして、ここに、仏教史上の新しい黎明期を迎えようとしていたのである。
一九五二年(昭和二十七年)といえば、創価学会の名前すら知る人も少なかった。荒んだ世間のなかで、人びとは、容易に耳を傾けようとはしなかった。いな、鋭い理念と信念より発する、既成の宗教観念を根底から覆す折伏という布教に、多くの反発の波が重なっていったのである。他教団からの攻撃の火の手が上がり始めたのも、このころからであった。
七十五万世帯の達成に向かう前進は、敢えて困難の壁に向かう戦いであった。数百年来の宗教風土のうえに、牢固として築かれた旧習の壁への挑戦である。固い岩盤を砕いて進むがごとき日々であった。だが、弟子たちは、戸田の一念に見事に応えたといえよう。真剣な戦いと、責任感にあふれた戦士の固い団結で、魔の壁を崩しつつ驀進していった。
青年部が急速に発展したのも、この時期であった。総数三百六十余人のうち、二百人の総本山への登山で立宗七百年の元旦を飾った男子部は二月には百九十人、三月には二百六十余人の部員増加をみた。
これで、四部隊総計八百人を超える陣容にと飛躍していった。わずか三カ月の驀進の足跡である。短期の決戦がなければ、長期戦の盤石の基礎ができぬこともある。今、戸田の軍勢には、それが必要であった。
この驀進には、一つの推進力があった。二月九日、青年部会で発表になった、参謀部の設置がそれである。これは、後にできた参謀室の前身でもあった。すなわち、あらゆる企画は、ここに統一され、強い一本の指導の線が貫かれたことである。
「
謀を帷帳の中に回らし
」とある如く、企画・立案に取り組む参謀部が、常に戸田に直結していたことは無論である。この戸田との強靭な師弟の結合が、短日月に青年部を大成長させていく力となったと見てよいであろう。
七百年祭を目前にし、それをどう迎え、また、どう送ったかは、後日の話となるが、ともかく五二年(同二十七年)という年は、青年部の存在を、永遠に輝かしい不動のものとした、驀進の年であったことは間違いない。
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