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日蓮大聖人・池田大作

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随喜  

小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)

前後
33  戸田城聖の、晩年わずか七年の、空転を知らぬ充実した活動は、この時、既に始まっていたといえよう。
 人生五十年といっても、多くは、その意義さえもつかめず、惰性のうちに終わってしまう。だが、戸田の、この七年の奮迅の戦いは、まさに幾百年にも相当する意義深い歴史を創造していった。してみれば、人の一生の重さを量る基準は、単に生きた年数の長短によって決まるのではなく、その人生の価値内容によるものとも思われる。
 総会の翌二十三日午後には、戸田は、数人の幹部と共に、御書編纂の打ち合わせのため、都内に宿泊していた堀日亨を訪ねている。
 日亨は非常に元気で、酷暑の宿の一室に、一行を迎えた。既に第一稿は、かなり出来上がっているとの話であった。
 「九月には、第一稿をお渡しできるじゃろう。そのつもりで、万全の準備を進めてもらいたい」
 一同は、日亨の精励のほどに驚いた。だが、日亨は淡々として事もなげに言った。
 「今まで、さんざん研究し尽くしたところを、吐き出せばいいのだから、そんなに手間はとらんよ」
 そして、項目の詳細を説明した。
 ――大聖人宗旨建立以前の著作で、宗義に関係ない御書、また参考までに抜き書きされた経釈集、天台その他の、他宗の法門に関する御書で、現在、全く必要でないもの、および偽書等は省く。そして、これまで他宗団が知らなかった相伝書を加えた、完璧な御書全集になるはずである。
 日亨は、こう語りながら、長い六十年の来し方を振り返るように、御書の研績に没頭するようになった機縁を、初めて明かした。
 「わしの師匠の日霑にちでん上人が、当宗の教学の確立に心を砕かれ、宗祖の御遺文の結集に大変な努力をされていた。まだ小僧であったわしにも、そのことを期待されたんじゃ。わしは本を読むのが何より好きでのう。暇さえあれば、読んでもわからんような本まで読んでおった。
 そこが師匠に気に入られて、『お前やれ』ということになり、御遺文の研究に入ったんだが、わからんことばかりじゃった。それでも一年、二年たつうちに、わからんことが謎の解けるように、はっきりわかってくる。もうこうなると、面白うて、面白うて、無我夢中になる。宗門のいろいろの事は、一切めんどうになってきて、そこで、いっそ還俗して、誰にも気兼ねなく、思うままに研究に徹底しようとも思った。何度、還俗を決心したかわからん」
 それからの日亨は、大聖人の御遺文の跡を追って、全国の遍歴を始めた。全国の数々の他宗の寺々にも滞在した。叡山にも、身延にも、長期滞在しなければならなかった。
 戦時中も、日亨は、沈着な研究を一日として怠ることはなかった。その生命力の続く限り、ひたすら広宣流布を祈り、令法久住の使命に生き抜く日常であった。
 総本山にも、「日蓮正宗報国団」が組織されるなど、戦時色の濃い真っただ中にあっても、日亨の誓願は微動だにすることがなかった。
34  一九四三年(昭和十八年)、宗門の機関誌『大日蓮』六月号誌上で、日亨は、次のような通知をしている。
   謹告
         堀 日亨
 昨年秋己来、東京市内に於いて雪山会を創立し、宗学書の編纂著述出版頒布の企画にかからんとせしも、各方面の関係上未だ実行の機運来らず、さりとも日暮れて道遠く徒に時日をむなしうする事は、極老の耐ゆる所にあらず、ここに於いて来る六月二十四日、恩師日霑上人の忌辰きしんぼくして、御本山内にある愚僧が隠寮雪仙窟せっせんくつに左の事務所を設け、本山在住諸師の助力にて開所することとなりたり。
 願くは今後この会よりお願いする事は、全く野僧の宿願業にして既に墓穴に近ける老躯の生命ある間に、満願せしめんとする緊急業なる事に同情せられ、百般の御助勢を切望するものなり。
     静岡県富士郡上野村
       大石寺雪仙窟内
            富士宗学書編輯へんしゅう支部
 支部内に事務・外交・会計・書記等を置き、畑毛雪山書房と東京の雪山会とを愚老が総管する事なれば、極老には分に過ぎたる難事なるが故に、左の大願を立てて急速の成就を祈る所、偏に真俗各位の御諒解を仰ぐ。
   誓 願
  一、本尊護符を書写せず
  一、法会の導師とならず
  一、説法の首席となら
  一、会合の首席とならず
  一、招かざる法席に列らず
  一、時により賎役を勤む
 日亨の誓願を伝えるこの通告は、出征僧侶の数多い戦地便りや、上野村の託児所開設のお知らせなどと並べて、雑報扱いで掲載されていた。
 時に、日亨、七十六歳であった。
35  その後のわが国は、一路、亡国の戦争に突入し、日々に物資は欠乏していった。そして、敗戦、戦後の荒廃である。それらが、いかに、御書の研究に没頭したいという日亨の宿願を妨げたかは想像に難くない。宿願の重大さを思い、また日一日と老境に進む日亨の焦慮は、いかばかりであったか。しかし、それでもなお、日々の研鎮を怠らず、ますます冴えきった境地を持続することに懸命であった。
 そこへ、学会の御書編纂事業が企画されたのである。どれほど喜んだことか。八十四歳の日亨は、直ちに、御書編纂に、誰よりも積極的に取り組んだのである。
 なおも、日亨と戸田たちとの歓談は続いた。
 「今まで、いろんな所をずいぶん回って歩いたもんじゃ。比叡山にも数年滞在したことがある。身延でも長いこと調べものをしたことがある。身延から帰った時など、『よくご無事でお帰りで……』と言ってくれた信者の方があったほどでな。とにかく、いろいろなことがあったよ。
 いくら研究のためとはいっても、他宗の寺に住むのは、こりゃ謗法だからな。今度の仕事が完成すれば、それで、わしの罪障も消滅するというものだ。この仕事は本山ではできん。とにかく、わしは強情だから、やると決めたら、必ずやるんじゃ」
 日亨は、意気軒昂としていた。ここでまた、戸田との「わがまま問答」「強情問答」が始まった。
 戸田は、人なつこく笑いながら言った。
 「猊下、猊下もずいぶん強情ですけれど、恩師・牧口先生も大した強情でした。私は、二十歳の時から牧口先生に仕えて、強情には、至極、慣れております。そこで、いかがでしょう。猊下は、今度、学会のおじい様になっていただけませんか」
 「そりゃ、かまわんがのう。そうなったら、時々、小言も言わんけりゃなるまい」
 日亨は、背を丸くして、笑いを浮かべた。
 戸田は、直ちに応答した。
 「どうぞ、ご遠慮なく小言もおっしゃってください。猊下は、本当に広宣流布のために、ご出生になったのですから、どうか、ひとつ、学会をかわいがってください」
 「よろしい。では、そういうことにしよう」
 「よし、これで決まった。公式の時は猊下、そうでない時は、おじいさん。今日から猊下は、学会のおじいさん、よろしゅうございますね」
 「ああ、いいとも、結構なことじゃ」
 戸田が、嬉しそうに破顔一笑すると、日亨の濃い白い眉毛の下の目も笑っていた。
 こうして、完壁な御書編纂の難事業は、堀日亨の畢生の研鑽の結晶と、戸田城聖の広宣流布への強き一念とが固い絆に結ばれて、すべての障害を越えつつ、着々と進行していったのである。

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