Nichiren・Ikeda
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日蓮大聖人・池田大作
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小説「人間革命」5-6巻 (池田大作全集第146巻)
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「学会歌指揮、会長・戸田先生!」
司会者・原山理事は、力を込めて叫んだ。
幾たびも戸田が出てくる。戸田自身の陣頭指揮が、まさしく必要であった。それに皆も、戸田の元気な姿を、いつまでも見つめ、戸田の心と一体になりたかったにちがいない。
戸田は、ニコニコ笑いながら、上衣を脱ぎ、太鼓のバチを取った。扇子の用意がなかったのである。
「指揮は気迫です。われわれは戦いに臨み、何を持って指揮を執ってもかまわない。高杉晋作という維新の志士は愉快な男で、三味線を弾きながら奇兵隊を指揮した。三味線より、このバチの方が、なんぼいいかわからん」
彼は、「さあ、始めるぞ!」と、右手を、ぐんと高く上げた。
花が一夜に 散るごとく
俺も散りたや 旗風に
…………………………(作詞・奥野椰子夫)
歌は、会場を揺るがさんばかりの大合唱となった。その民衆の歌声は、街の夕空へと、あふれていったのである。
皆、声を限りに歌った。手が赤くなるまで手拍子を打ちながら――。
司会者は、式の終了を宣した。長い時間の就任式であった。優に数時間にわたっていよう。次の祝賀会までは、暫時、休憩である。
多くの人びとが、外へ出ていく。その出口で、それぞれの履物を履くのに手間取っている。そこには、チビた下駄がある。パクパクと、つま先の開いた靴もある。汚れたズック靴がある。足跡の濃い、わら草履まであった。履物が、一つの生活水準を語るとするならば、この日集まった人びとの生活状態は、はなはだ貧しかったといわなければならない。
しかし、その人たちの喜びに輝いた顔は、巨万の富をもっ人よりも健気で、幸福を確信しているようにさえ見えるのであった。
祝賀会の用意が整った。本堂から庫裏にかけて、折り詰めと、飲み物が置かれている。はや夕方になって、電灯がつき始めた。
当初、祝賀会参加の有志は、三百五十人と予定されていた。それが、就任式が近づくにつれ、参加入員は膨張し、二日前には四百人分の折り詰めを追加注文しなければならなかった。仕出屋が面食らったのは当然である。嬉しい悲鳴をあげ、丸二日徹夜して、七百五十人分の注文をこなしたという。
戸田は、嬉しかった。心から感謝したのである。多数の人びとが、喜んで自分の会長就任を祝ってくれている。その心情を思いつつ、これらの人びとが、にぎやかに談笑している光景を見て、彼は、実にうまそうに酒を飲んでいた。
戸田は、いつか自然に思い浮かべていた。
――一九三七年(昭和十二年)に、創価教育学会が本格的に発足した当時、会員は百人ほどであり、ほとんどが教育関係者であった。
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しかし、今、会長の牧口は既に亡く、その当時の門下生の生存者も四散してしまっている。戸田は、今、この席に誰かいないかと見回した時、一人、彼自身を発見するだけであった。わずか十四年を経ていたにすぎない。彼は、この間の激変を、今さらのように思い、戦時中の弾圧の深手を思った。
今、創価学会は、この深手をものともせず、見事に、はつらつと蘇生したのだ。
眼前にする、この大勢の会員は、あの当時の一握りの教育者たちではない。あらゆる階層の庶民たちである。何よりも、まず根本的に異なるところは、これらの人びとは、正真正銘の地涌の菩薩であるということだ。大折伏を敢行するであろう仏の軍勢である。
戸田は、この盛大な祝賀会を、ひと目、思師・牧口常三郎に見てもらいたかった。その喜びの姿を思う時、口惜しさは、今さらのように胸に迫るのであった。
会場では、歌が、次から次へと続いていく。やがて、戸田の周囲に元気な人びとが集まってきた。
誰かが叫んだ。
「それ!」
歓声とともに、戸田の体は宙に舞い上がった。胴上げが始まったのである。
山本伸一は、とっさに人の渦に飛び込んだ。戸田の体を案じたのである。彼は、戸田の胴体の中心部の下に、素早くもぐり込んでいた。そして、胴上げされて落ちてくる戸田の体を、そのたびに支えていたのである。
とっさの劇が終わった。側に原山幸一がいる。二人の目が合った。原山は、にっこり笑って、伸一にささやいた。
「後は、君が健在であってくれさえすれば、それでいいんだよ」
会場は、怒濡のような歓喜に移っていった。
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この五月三日は、また、憲法−記念日であった。一九四七年(昭和二十三年)五月三日、「平和憲法」が施行されて、五年目の記念日である。
四月十一日に解任された連合国軍最高司令官マッカーサーの後任であるリッジウェーは、この日のために、五月一日に声明を発表している。
彼は、声明のなかで、憲法が施行されてから四年間で、日本は「希望に満ちた平和な復興状態しを実現したと評価し、続いて次のように述べている。
「このような状態からして日本は正式講和条約を結ぶ準備ができ上っていると一般に認められるようになり、米国政府が目下他の関係各国政府と打合せて、この目的のために積極的に話を進めているから、その結実は確約されている。その時に備えるため、つまり日本が国内問題処理の全権を回復する日に備えるため、現在の占領政策すなわち日本政府の責任遂行能力に比例しつつ、占領軍当局の管理を緩和してゆくという現在の政策は今後ますます推し進められるであろう」
韓・朝鮮半島では、激戦が続いている。勝敗の帰趨は不明のまま、第三次世界大戦へと拡大しかねない危機を、不気味にはらんでいた。国連軍の、完全な前線補給基地となった日本――これに対して、一日も早く講和条約を結ぶ必要に迫られていたアメリカは、同時に日本占領の戦力のすべてを、半島の戦線にも向けなければならず、占領軍撤退後の善後策を推進していた。
講和問題は、今や、「単独講和」か「全面講和」かに国論を二分し、政治的混乱が表面化し始めていたのである。
この三日、皇居前広場では、天皇、皇后出席のもとに、約二万人の国民の参加によって、憲法記念日の式典が挙行されていた。
総評系の組合員は、「全面講和」を叫び、五月一日のメーデーに皇居前広場の使用が禁止されたのを不満として、五千人の警官の前でデモを敢行し、総評幹部三十七人が検挙されている。
同じ日、向島の常泉寺では、戸田城聖の創価学会第二代会長就任式の式典が、「霊山の一会」のごとき荘厳さと、歓喜とをもって行われ、未来へ広宣流布の実現が宣言されたのである。
戸田は、後日、この日を記念して、幾人かの弟子に当日の写真を贈っている。伸一への写真の裏には、次のように記されてあった。
現在も
未来も共に
苦楽をば
分けあう縁
不思議なるかな
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