Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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怒濤  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
7  それにしても、学会員にとっては、戸田の突然の理事長辞任であった。戸田自身、理事長の辞任については、万一の事として考えてはいた。しかし、それが、このように早く来ようとは思わなかった。
 戸田は、信用組合の業務を停止した波紋が、まず第一に、創価学会には波及しないことを念じて、対策を練っていた。ところが、学会よりも早く、社会的事件としての波紋が、先に起ころうとしていたのだ。
 今朝、虎ノ門の喫茶店で、戸田は、そのことばかり考えていた。ひとまず記事になることは避けられたものの、新聞社は、一社だけではない。これと似たような追及が、ほかにも予想された。さらに、大蔵省が、いかなる処置に踏み切るのかを、甘く考えるわけにもいかなかった。
 戸田城聖は、東光建設信用組合の専務理事であり、同時に創価学会の理事長で、牧口亡き後の最高責任者である。社会の追及の目は、当然、学会にも注がれることになろう。
 戸田は、学会を傷つけることにもなりかねない現状を思うと、身を切られるよりも辛かった。組合の崩壊で非難を浴びることは、彼には、いくらでも耐え忍ぶことはできる。しかし、そのことによって学会までも、その飛沫を浴びなければならないということは、彼には断じて我慢のならないことであった。
 戸田の苦悩は、二重に重なっていたのである。彼は、今、怒濤の真っただ中にいることを知った。この怒濤を抜き手を切って、乗り越えなければならない。怒濤にのみ込まれてしまっては、一切が敗北であり、何もかもなくなってしまう。彼は、渾身の勇気を奮い起こした。
 理事長辞任――そのことによって、彼の身がどうなろうと、学会だけは無傷に守り通そうとしたのである。
 この深慮のために、午後の数時間を費やした。そして、この夜の突然の発表となったのである。学会の発展が鈍ることも、また弟子たちが寂しがり、悩むにちがいないことも、彼は百も承知していた。
 戸田は、敢然として、信用組合の整理に没頭した。しかし、事態は既に重症で、深い泥沼に足を取られたように、じっとしていれば、泥の中に体が吸い込まれかねない、泥中のあがきにも似た活動が始まった。債権者のリストを作り、大口の方から順々に、社員を差し向けたのである。
 しかし、一度の訪問で了解のいくような話ではなかった。戸田は、報告を受けると、それによって、すぐ次の指示を与えた。社員たちは叱咤激励され、また出て行くが、ぐったりとして帰ってきた。
 それは、時間を争う真剣勝負に変わっていた。大蔵省の意向が、かなり強硬であったからである。
 山本伸一は、この苦難を、あらゆる意味において、早く乗り切りたかった。誰よりも献身的に奔走した。やがて、一人去り、二人去りして、この第一線の攻防戦を戦う者は、いつしか彼一人になっていった。
 彼らが、戸田のもとを去っていったのは、生活のためか、また批判を恐れたのか、あるいは責任を回避しようとしたのか、ともかく、手のひらを返すような豹変ぶりであった。
 伸一は、憤りを秘めて、ひたすら戸田の再起を願い、連日、夜中まで阿修羅のごとく突き進んでいった。彼の病弱な体躯のどこに、このような気迫があるのだろうかと、思われるほどであった。
 八月二十六日は土曜である。伸一は、翌日の日曜を前に、″今日は、一日いっぱい戦い抜こう″と思って、社へ早く出ていった。
 伸一は、三軒、五軒、十軒と、体力の続く限り、回りに回って、ひたすら防戦に努めていた。疲れのためか、熱が出始めていたらしい。背中は痛み、胸は苦しかった。彼は、やせた肉弾となって、ただ誠実に、交渉に動いていたのである。
 しかし、話はどこへ行っても、こじれてしまった。
 彼は、辛抱強く構えていたが、時に侮蔑的な言葉を聞くと、悔しくてならなかった。また逆に、了解を得ようとしても、債権者の窮状を目の当たりにすると、同情が先に立ってしまい、なかなか用件を切り出せなかった。
 この日の交渉も、ついつい夜遅くまでかかってしまったのである。
 午後十時過ぎに、やっと社へ帰ってみると、階下の事務室は消灯されて暗かった。二階へ上がってみると戸田が一人、ぽつんと彼の帰りを待っていた。
 伸一は、驚いて言った。
 「遅くなりました。みんなは、どうしたんですか?」
 「ご苦労、みんな疲れているから、今日は、早く帰ってもらったんだよ。伸、今日はどうだつた?」
 報告を待ちわびていた戸田に、彼は、この日の了解交渉の経過を詳細に報告した。
 戸田は、業務停止後の対策の手応えを、克明に知りたかったのであろう。彼は、いつになく執拗なまでに、細部にわたって交渉の経緯を伸一にただした。
 二人は、業務停止命令が、ますます情勢の悪化をもたらしたことを認めなければならなかった。今後の了解工作には、新しい局面を開かなければ、成功はおぼつかないと知ったのである。
 真摯な誠意というものも、何かしら形で表さなければ、人は信用しない。信用を失いつつある組合であってみれば、なおさらのことである。二人の思案と協議は、静まり返った、わびしい二階で、遅くまで続けられた。
 伸一が戸田を送って、白金の戸田の家に着いた時には、既に午前一時ちょっと前であった。
 玄関のベルを押すと、幾枝が飛んで出てきた。瞬間、幾枝の顔には、危惧に満ちた影が走った。
 戸田の背後に、伸一の顔を見つけると、硬い表情は消え、伸一をねぎらうように呼びかけたのである。
 「こんな遅くまで、ほんとにすみません……」
 「伸ちゃん、さあ、上がろう」
 戸田も伸一をねぎらうように、先に立って二階への階段を上った。
 戸田は、そのまま仏壇の前に端座した。
 「勤行しよう」
 伸一は、戸田の背後に座って、深夜の唱題を心ゆくまで続けた。
 やがて幾枝の足音がし、盆の上に戸田の酒と、伸一のサイダーを持ってきた。
 「今夜は、丑寅の勤行になってしまったな」
 戸田は、にっとり笑いながら、コップの酒を手に取った。幾枝は心配顔に、戸田に尋ねた。
 「会社の方は、どうでしたの?」
 「どうもこうも、えらいことだよ。あんまり心配するな。お前が心配してくれても、どうにもならんよ。先に寝なさい」
 戸田は、他人事のように言って、伸一の顔を見ながら聞いた。
 「どうだ、伸、一局やるか」
 「まぁ、こんなに遅いというのに……、明日になさったら」
 幾枝は、ちょっと、とがめるように言った。
 「いいよ、お前は寝なさい。……明日は明日の仕事がある。伸一、将棋盤だ!」
 床の間から、伸一は将棋盤を運んできた。戸田は、子どものようにはしゃいで、駒をぼちぼちと並べ始めた。深夜の将棋である。ささくれだった伸一の心は、いつか和んできた。
 伸一は、思った。
 ″組合はつぶれ、学会の理事長も辞任したというのに、先生は、こうして懸命に将棋盤をにらんでいる。先生の姿を見ていると、すべての苦境が、嘘のようにも、悪夢のようにも思える。これが、先生の本然の姿なのかもしれない。
 自分も、今、苦しみ悩んでいる日々の活動は、仮の姿なのかもしれない。いずれにせよ、本然の姿だけは、いかなる時にも失うまい″
 戸田の悠然たる態度に押されて、余計なことを考えていた伸一は、簡単に負けてしまった。それを知っていたように、戸田は言った。
 「もう一局、来い」
 二人は、また駒を並べ始めた。いつか二人は、将棋に夢中になっていた。激しい攻防戦になった。最後に危ないところで伸一が勝った。一勝一敗の引き分けである。
 「さあ、寝るか。伸、ぼくの布団で寝ょうよ」
 戸田は、隣室の布団に入った。伸一は、「はい」と返事をしたものの、戸惑ってしまった。彼は、階下に下りて、手洗いに行った。そして、二階へ戻ろうとして、ふと一階の部屋を見ると、中学生の喬一が、布団をはね飛ばして寝ている。
 伸一は、掛け布団を喬一に掛けてやりながら、自然に、その布団の中へ、ひっそり潜り込んでしまった。
 翌日は日曜日である。戸田と伸一は、遅い朝食を二人ですました。幾枝は、夏痩せしたように、げっそりとしている。組合の動向に心痛していたのであろう。
 戸田は茶を飲みながら、悄然としている幾枝にいら立った。
 「つまらん心配はよせ」
 「そんなことをおっしゃっても、心配は心配です」
 幾枝は、静脈の浮き出た手の甲をさすって言うのであった。
 「だから、よせというのだ。心配が役に立つ時と、役に立たん時とがある。今は、それが役に立たん時だ。体をこわすぞ、気をつけなさい。
 事業が、一度や二度、失敗したぐらいで、それで人生が終わったなどと思ったら、大間違いだ。これから、やり遂げなければならん大事業が、ぼくにはある。長い間には、風邪ぐらいひくこともあるさ。今までだって、何度も事業でつまずいたことはある。しかし、そのたびに立ち上がってきたじゃないか。もっと、私を信じなさい」
 「でも、若い時とは違います」
 「なにつ、年寄りくさいこと言うな。ぼくはまだ、御年五十だよ。ハッハッハッ。事業家としては円熟する時じゃないか」
 戸田は不機嫌であった。
 ″お前にも、また苦労をかけなければならん″と言いたいところであったが、剛毅な性格の戸田には、それが言えなかったのであろう。、なおさら不機嫌になった。
 戸田は、伸一と家を出た。日曜の電車はすいている。いつしか車中では、仏法哲学の質問、文学の話、政治の話、そして、必然的に学会の未来の話となっていった。
 伸一は、このような怒濤のさなかにあっても、必ず、深夜、それを自分のノートに書き記しておくことを忘れなかった。
 戸田と伸一が、西神田の事務所に着いてみると、社員たちは手分けして、大蔵省に提出しなければならない経理関係の書類を、ひっそりと作成していた。
 全社員にとって、心の暗い日曜である。だが、伸一の心のなかだけには、昨夜からの不死身の火がともされていた。
8  一九五〇年(昭和二十五年)六月に、韓・朝鮮半島に勃発した戦争は、既に二カ月を経過していたが、戦線は拡大し、戦火は燃え盛るばかりであった。
 八月四日には、韓・朝鮮半島の軍事力増強のために、日本人義勇兵を米軍に徴集する法案が米国議会に提出された。これに対しマッカーサー国連軍最高司令官は、八月八日、「日本とはまだ講和条約が結ばれておらず、日本はいま、国際管理下におかれている」として、日本人義勇兵の実現には疑問があると述べ、「対日講和を結ぶこと」が先決であると表明した。
 推測するに、日本は連合国軍の占領下にあり、法的には、まだ連合国の敵国であって、敵国から義勇兵を募るなどということは、あり得ないということだったのであろう。
 こうして、義勇兵の話は立ち消えになったが、現実には、アメリカ軍の要請によって、海上保安庁の機雷掃海艇が出動し、死傷者も出しているし、日本の船舶がアメリカ兵の輸送にも携わっている。
 ともあれ、アメリカ軍の防衛基地となった日本は、準臨戦態勢とでもいうべき方向に向かって国内の治安組織を改変し、着実に戦争協力へと移行し始めたのである。
 まず七月下旬、GHQ(連合国軍総司令部)の指示によって、経済安定本部が「特需」(特殊需要)の窓口となって、国内態勢を整備することになった。つまり、アメリカ軍に補給する軍需物資を緊急調達するための、日本における調達機関の役割を担うことになったわけである。
 九月一日、経済安定本部は、朝鮮戦争(韓国戦争)勃発以来二ヵ月余りの八月二十八日までに、特需物資の発注は百四十四億円に達したと発表している。また、五〇年(同二十五年)末までに、特需は少なくとも三百六十億円に上ると予測されていた。
 インフレを収束させ、早急な経済の安定化を図ろうとしたドッジ・ラインの強行で、多くの企業が打撃を受け、経営に苦しんでいた。不況の底であえいでいた日本経済にとって、朝鮮特需は、降って湧いたような、景気回復へのチャンスととらえられた。
 経済人のなかには、″太平洋戦争では吹かなかった「神風」が、今になって吹いた″と欣喜雀躍する者もあった。
 急速な景気回復を表現する「特需景気」などという新造語まで生まれた。
 特需と並んで、輸出も急速に伸びた。五〇年(同二十五年)の輸出総額は、下半期の好況によって八億二千万ドルとなり、前年の五億一千万ドルに比較して、約六割もの増加を示した。
 沈滞の極みにあった各種企業のなかでも、特に鉄鋼、車両、機械、繊維、木材などは、突如として活況を呈し、鉱工業の生産などは、同年十月には戦前の水準を超えるまでに回復している。
 韓・朝鮮半島に戦火が上がって以来、日本経済は未曾有のテンポで回復、成長を遂げていった。この年を境として、わが国の産業は、重化学工業中心に著しい発展を示し、日本の産業構造を大きく転換させていった。
 大きな利潤を上げた企業は、その利益を設備投資に向けて近代化を図り、国際競争力の強化をめざしていった。民間の設備投資総額をみると、四九年(同二十四年)が二千八百八十六億円であったのに対し、五〇年(同二十五年)には、三千八百九十九億円と増加し、五一年(同二十六年)には六千九十九億円と、前年の1.5倍以上に急増している。朝鮮戦争による特需が、日本経済をいかに潤したかがわかる。
 そして、それらの企業が、その後の経済成長の原動力となり、日本経済の基調をなしていったのである。
 しかし、この経済回復は、戦争によるものであった。しかも、それは自国の戦争ではない。日本の企業は、戦火を被ることもなく、犠牲を強いられるとこもなかった。狭い海峡を隔てた隣国での戦争が激化すればするほど、破壊と犠牲が増大すればするほど、日本経済は大きな利益を得ていった。
 わが国の高度経済成長への第一歩は、戦火のもとでの民衆の悲惨を踏み台としていたことを忘れてはならないであろう。
 戦後経済の活力が胎動し始めたこの時期に、戸田城聖は、清算事務に没頭していなければならなかった。もしも信用組合が、あと半年、持ちこたえていたら、あるいは彼は、降って湧いた好況の波で、難事業を好転させることができたかもしれない。
 しかし、それは皮相的な見方にすぎない。戸田城聖には、何よりも彼でなければなし得ない前代未聞の大使命があった。国破れて、彼自身も事業に敗れ、そのなかで広宣流布に一途に邁進する使命が、彼の宿命には種子として植えられていたのである。
 時は巡り来り、今、ようやく、その使命の種子が芽吹いたのである。この芽を枯らすことは、障魔にもできなかった。
 ただ彼に、その本来の使命の自覚を促し、その覚悟に立たせるためには、事業における苛酷な試練を必要としたのである。彼が、経済的挫折に苦しんだのは、「願兼於業」のゆえであったといえようか。この道程において、彼の使命の自覚は、初めて不動のものとなったのである。
 戸田城聖の目に映った朝鮮戦争は、世界動乱の縮図であった。アジアの小さな半島に、北朝鮮軍と国連軍とが対峙し、入り乱れての流血の惨事である。
 彼は、この戦争の悲惨から、隣国の民衆が味わわなければならない塗炭の苦しみを、今、思いやった。
 ――まさに、末法濁悪の世界である。つい五年前まで、日本の民衆も、同じ塗炭の苦しみのなかにあった。今、この戦乱の惨状を知るにつけ、戸田は、戦火に追われ、逃げ惑い、流浪する人びとの姿が頭をよぎった。彼は、一刻も早く東洋に正法を流布しなければならないと、痛感するのであった。
 そして、戸田は、妙法の鏡に照らし、いよいよ日蓮大聖人の仏法が、東洋に広宣流布する瑞相が現れたことを確信せざるを得なかった。
 釈尊の仏法の渡来は、インドから中国、韓・朝鮮半島を経て日本に留まった。大聖人の仏法は、「日は東より出でて西を照す」である。彼は、その「時」が来ていることを、しみじみと思ったのである。

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