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日蓮大聖人・池田大作

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疾風  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
7  社会の風も、いつか強く吹いていた。日本民族は、疾風のさなかに、さまよっていたともいえよう。
 五月二日、マッカーサーは、新憲法施行三周年を迎えるにあたり、声明を発表した。そのなかで彼は、共産党が日本の民主主義の正常な発展を妨げる存在となりつつあることを指摘し、次のように述べた。
 「同党が破壊しようとしている国家、および法律から、同党がこれ以上の恩恵と保護を受ける権利があるかどうかの問題を提起し、さらに同党の活動を果してこれ以上憲法で認められた政治運動とみなすべきかどうかの疑問を生ぜしめる」
 「共産党運動の底に横たわる諸目的ならびに共産党が政権奪取に成功した諸国では同党が不可避的にどんなことを引起したかという結末がはっきり見とどけられる」
 「海外における実例は共産党の支配下では労働者は一切の権利を失うことを示している」
 「現在日本が急速に解決を迫られている問題は、全世界の他の諸国と同様、この反社会的勢力をどのような方法で国内的に処理し、個人の自由の合法的行使を阻害せずに国家の福祉を危くするこうした自由の濫用を阻止するかにある」
 東西の冷戦が激しさを増し、中国では共産党政権が樹立された。そして、韓・朝鮮半島での、南北対立の情勢も看過できない状況になっていた。マッカーサーは、日本を堅固な反共の防波堤にするために、日本国内における共産党の活動を排除しなければならないことを、明確に示したのである。
 五月三十日、皇居前広場で、人民決起大会が開かれ、約二万人の労働者、学生が参加した。
 ちょうど一年前の五月三十日、東京都公安条例反対デモの折に、東京交通労働組合の一組合員が、警官隊との衝突騒ぎのなかで死亡するという事件が起きた。人民決起大会は、この事件の一周年に際して行われた大会であった。
 大会終了後、デモ行進に移ったが、解散地点の日比谷公園近くで、警察官との間にいざこざが起きた。このトラブルに、五人のアメリカ軍人も巻き込まれ、騒ぎは大きくなった。
 MP(アメリカ陸軍憲兵)が駆けつけ、八人の労働者、学生が逮捕されたのである。八人は、即座に軍事裁判にかけられ、六月三日に判決が下された。一人が重労働十年、六人が同七年、一人が同五年の刑であった。
 六月六日、マッカーサーは、吉田首相に対して書簡を送り、共産党中央委員会の全員、二十四人に対する公職追放の指令を出した。そこには国会議員も含まれていた。
 この時の、マッカーサーの書簡には、公職追放に関する全く新しい見解が示されていた。彼は、戦後の日本に対する連合国の基本的方針を再確認したあと、次のように述べている。
 「この措置が適用される範囲は主としてその地位と影響力とから見て、他民族の征服と搾取に日本を導いた全体主義的政策に対して責任を負うべき地位にある人々に限られてきた。
 ところが最近にいたり日本の政治には新しく右に劣らず不吉な勢力が生まれた。この勢力は代議政治による民主主義の線に沿って日本が著しい進歩を遂げているのを阻止し、日本国民の間に急速に成長しつつある民主主義的傾向を破壊するための手段として真理をゆがめることと大衆の暴力行為をたきつけることによって、この平和で静穏な国土を無秩序と闘争の場に転化しようとしている。
 彼らは一致して憲法にもとづく権威を無視し、法と秩序による行動を軽視し、虚偽や扇動その他の手段によって社会混乱を引起し、ついには日本の立憲政治を力によって転覆する段階をもち来らすような社会不安を生ぜしめようとしている。彼らの強制的な手段は過去の日本の軍国主義指導者が、日本人民をだまし、その将来を誤らしめた方法と驚くほどよく似ている」
 公職追放令の対象者は、それまで政界や、財界の軍国主義者や、国家主義者に限られていた。しかし、マッカーサーが書簡を送ったこの日から、共産党員とその同調者が対象となったのである。
 共産党の中央委員二十四人が公職追放となった翌日の六月七日には、共産党機関紙「アカハタ」の編集幹部十七人に対しても、追放指令が出された。共産党は、緊急に会議を開き、幹部は地下活動にもぐることを決定した。
 このような状況のなか、十日前の五月二十七日に、対日理事会ソ連代表部のクズマ・テレビヤンコ中将以下四十九人は、突如、帰国している。米ソの対立は、先鋭化の道をたどっていたのである。
8  マッカーサーは、一九五〇年(昭和二十五年)の年頭の辞で、「終戦後五度目の新年を迎えた今日、まぎれもなく一つの際立った事実が認められる。
 ……今日、日本よりも平和な国は、この地球上に全く数えるほどしかないという事実である」と、占領政策の成功を自賛した。しかし、戦雲は玄界灘の彼方に、暗く立ち込め始めていた。
 六月二十五日、日曜日――。
 正午のラジオニュースを聴いた人びとは、息をのんだ。
 ラジオは、北朝鮮軍の韓国侵入を報じたのである。北朝鮮軍が三十八度線を越えて、韓国に進撃して来たというのだ。人びとは、瞬間的に、五年前までの戦争を思い起こして、ドキッとなった。戦争の悪夢を忘れかけていた脳裏に、第三次大戦勃発の不安がよぎった。
 冷戦のなかで、突如、″熱い戦争″が始まったのである。東西対立の冷戦は、狭い韓・朝鮮半島で、戦火に変貌して広がった。投入された東西の大軍は、半島の南北にわたって押しては押し返され、また押すという激戦を繰り返し、三年一カ月にわたる残虐戦を展開したのである。
 朝鮮戦争(韓国戦争)は、同胞相互の大量殺裁という痛ましい悲劇と、全半島に悲惨な荒廃の姿を残して、その戦いを終えた。そして、元の三十八度線で対峙し、「勝利なき休戦」のまま、長い歳月を経ることになった。まさに、東西両陣営の冷戦の犠牲国といってよい。
 三十八度線という人工的な境界線は、韓・朝鮮半島に住む民衆が、決めたものではない。第二次大戦の末期、日本の降伏が目前になった時期に、アメリカとソ連の間で決められたものだ。正式には、四五年(同二十年)九月二日、日本が降伏文書に調印したあとに、マッカーサーが、連合国軍最高司令部の命令として、韓・朝鮮半島の三十八度線以北はソ連が日本軍の武装解除を行い、以南はアメリカ軍が行うことを発表した。このことに、韓・朝鮮半島の人びとは、全く関与していないし、国家の分裂など夢にも思わなかったことである。
 八月九日、日本に宣戦布告したソ連軍は、八月十五日には半島の東北部まで進撃していた。その後は、降伏した日本軍の武装解除をしながら、三十八度線まで南下した。
 アメリカ軍の先遣隊が、韓・朝鮮半島に進出したのは九月六日である。そして、三十八度線以南の日本軍の武装解除を行った。
 同じ九月六日、既に結成されていた「朝鮮建国準備委員会」は、全民族的政権として「朝鮮人民共和国」の発足を宣言した。しかし、こうした民族の熱願は無視され、米ソ両国による占領態勢が開始された。朝鮮は、日本による被害国ではあっても、決して敗戦国ではなかった。しかし、この占領態勢が、半島を二分して民族が相争う悲劇の幕開けとなった。
 十二月になると、モスクワで米・英・ソ三国外相会議が聞かれ、朝鮮臨時政府の樹立と、五年間の信託統治などを盛り込んだモスクワ宣言が発表された。
 即時独立を求めていた人びとは、信託統治に対して猛烈な反対運動を起こし、独立を求める叫びは南北に広がった。だが、北ではソ連による軍政が敷かれ、南ではアメリカによる軍政が敷かれて、二つの対立する体制が出来上がりつつあった。
 四七年(同二十二年)九月、アメリカは朝鮮の独立問題を国連に提訴した。国連は、韓・朝鮮半島全土で選挙を行うことを決議して、翌四八年(同二十三年)に委員会を送り込んだが、ソ連は北部への立ち入りを拒否した。そのため実施可能な地域だけで選挙を行うことになり、結果的に南部だけで選挙が行われた。
 これにより、同年八月、南部には李承晩を大統領とする大韓民国(韓国)が成立し、国連は、大韓民国を、韓・朝鮮半島における唯一の合法的政府として承認した。これに対抗するように、北部では九月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の樹立を宣言した。
 ここに、統一国家への民衆の悲願は、冷戦のなかで、大国の思惑のもとに踏みにじられてしまった。大国同士は、平然と他民族を犠牲にして、相争っていたのである。
 韓・朝鮮半島は戦略上の要地として、歴史上、幾度となく大国に侵略され、支配されてきた。近年だけを見ても、中国、ロシアの影響下に置かれ、さらに日本の植民地支配で、苦汁をなめなければならなかった。そして、今また、東西両陣営の対立の犠牲となり、結局、半島は二分されてしまったのである。
 北朝鮮軍の攻撃が報じられると、アメリカ政府は、国連安全保障理事会の開催を要請した。安保理事会は即座に開催され、ソ連代表の欠席のまま、アメリカが提出した北朝鮮非難決議案が採択された。
 六月二十七日、トルーマン大統領は、安保理事会の要請に応えて、海空軍を出動させると声明を発表した。アメリカは、その夜の安保理事会に、国連加盟国が韓国に軍事援助を与えるように勧告することを提議し、採択された。これによって、アメリカの海空軍の出動は、国連の承認を得た行動となった。
 二十八日早朝、米空軍の爆撃機が初めて日本を飛び立ち、三十八度線に向かった。
 万全の態勢をとって進撃した北朝鮮軍は、怒濤のごとく進んで、早くも二十八日には首都ソウルを陥落させた。この状況に、アメリカ極東軍司令官マッカーサーは、アメリカ地上軍の投入が必要であることを本国に建議した。三十日、トルーマン大統領は、マッカーサーに対し、彼の指揮下にある地上軍を、韓・朝鮮半島に展開させる全面的な権限を与えた。
 七月七日、国連軍統一司令部をつくる決議案が、安保理事会で可決された。韓・朝鮮半島に出動したアメリカ軍は、「国連軍」となった。
 米空軍は制空権を確保したが、地上では北朝鮮軍の進撃が続き、韓国軍は退却に退却を重ねていた。最前線に到着した米地上軍の先遣隊も、北朝鮮軍の猛攻の前に敗れ、韓国軍とともに敗走した。
 ソ連製の強力な兵器で武装し、万全の準備を整えて攻撃してきた北朝鮮軍の前に、貧弱な装備の韓国軍も、訓練不足のアメリカ軍も、その敵ではなかった。七月末には、米韓両軍は、釜山を中心にした、わずかな地域に追い込まれ、北朝鮮軍は半島のほぼ全域を占領した。
 こうして朝鮮戦争の第一段階は、北朝鮮軍の圧倒的勝利であったが、九月十五日の米軍の仁川上陸で戦局は逆転し、第二段階へ移るのである。以後、半島の全域を、両軍は進撃しては後退するという、すさまじい戦闘を繰り返すことになった。民衆は、まるで、左右から致命的な殴打を何回も受けるような、残酷な目に遭ってしまったのである。
 海峡を隔てた半島の戦火は、日本にとっても対岸の火ではなかった。占領下の日本列島は、アメリカの前線兵站基地となり、米軍の作戦基地と化した。
 当然、国内の治安体制は強化され、GHQ(連合国軍総司令部)の指令による日本の再武装計画が、実行に移されていったのである。
9  開戦の翌日、六月二十六日に、共産党の機関紙「アカハタ」は、三十日間の発行停止処分を受け、七月十八日には無期限発行停止を命じられている。また、既に六月十六日から、集会、デモは、全国にわたって無期限に禁止されていた。
 七月二十八日、いわゆる「レッド・パージ」が開始され、新聞・放送・通信機関に従事する左翼的な傾向の人びとが、企業の安全と平和のためという理由で、解雇されていった。それは、やがて日を追って全産業に浸透し、年末までに約一万三千人が職場を追われた。
 八月三十日には、全労連(全国労働組合連絡協議会)が団体等規正令によって解散を命じられている。
 憲法も国内法も、問題にならなくなった。すなわち、GHQは、指令によって、直接、内政に介入するにいたったわけである。
 マッカーサーは、戦争開始二週間後の七月八日、日本政府に対し、七万五千人の「警察予備隊」の新設と、海上保安庁の人員八千人の増員を指令してきた。吉田内閣は、ポツダム勅令としてこれに対応し、国会に諮ることなく、警察予備隊の創設に向けて準備を進めた。
 八月十日、警察予備隊令が公布され、八月二十三日には、早くも七千人の隊員が、第一回の入隊を完了している。これは、米駐留軍が、すべて朝鮮戦線へ移動したあと、占領下日本の治安を確保するのが目的であったことはいうまでもない。
 雲行きは慌ただしく、国民が気づいた時には、いつの間にか準臨戦態勢に置かれていたといってよい。
 当時、占領下にあった敗戦国日本としては、なす術もなかったといえよう。
 ともあれ、大国が自国の利益のために、他国を犠牲にすることは、断じて許されるものではない。それこそ人道に反する、人類の敵ともいうべき行為だ。
 また、国と国とが、社会体制や民族、宗教などを、己が至上の価値として対立していては、この地球上には、いつになっても平和な春は訪れないであろう。対立と偏狭のなかには、平和への真の対話は生まれないからである。
 ここに、人間を分断し、対立させる要因を、大きく包含し、調和を生み出していく高次元の理念が、どうしても必要となる。人類は、心の奥底で、それを待望しているのではなかろうか。
 これこそ、仏法を根底にした中道主義であり、それはまた、人間主義ともいえよう。その思想によって、やがては戦雲はらむ疾風が、平和の薫風へと変わることを願ってやまない。

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