Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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道程  

小説「人間革命」3-4巻 (池田大作全集第145巻)

前後
6  翌朝のことである。
 いつもの時間に、信用組合の席に着くと、理事長から呼ばれた。幸二が、理事長室に入って行くと、理事長は、「おはよう」と言いながら、彼にイスを勧めた。
 「実は、君に今日限り、ここを辞めてもらいたいのだ。突然だが、組合として、よくよく考えた末の結論だと思ってもらいたい」
 まさに青天の霹靂である。幸二は、唖然とした。そして、平然と言い放った理事長の顔を見つめて、問いただした。
 「いったい、どうしたというんです。私が辞めなければならぬ理由はなんですか」
 「もちろん、理由がないわけではないが、それは、お互いに言わないことにしようじゃないか。ここまで来てしまっては、何を言っても無駄であるし、気まずい思いをするだけだ。きれいさっぱりと、お別れしよう。退職金その他は、ぼくとして、精いっぱい考慮するつもりだ」
 理事長は、老獪な口調で、頭から畳みかけてきた。無茶な話である。勤続十七年の古参職員が、なんの咎もないのに、ある朝、突然、解雇されるとは、あまりにも奇怪な仕打ちではないか。温厚な森川幸二も激怒した。そして、捨て身の構えになって、語気鋭く詰め寄った。
 「何を言っているんですか。私は、道楽で今日まで、この組合の仕事をしてきたわけではない。あなたは、『さあ、これで、おしまいにしよう。お前は今日限り辞めろ』と言ったって、碁や将棋をやっているのとは、わけが違うじゃないか。私に、何か失態でもあったというんですか!」
 理事長は、慌てた表情になった。
 「いや、そういうわけではない。今後の組合の大局から見て、どうしても、そうしてもらいたいのだ。そう興奮されては困る」
 「興奮などしてませんよ。では、その組合の大局とかいう話を伺いましょう」
 荒い息づかいで、森川幸二が言った。彼の顔は、やや青ざめていた。その思いつめた目に、理事長は顔をそらした。
 「ぼくとしては、長年、勤続してきた君に、言いたくないんだが、君は、言いだしたらきかぬ男だから、その理由を言うことにしよう。
 まず第一に、君はこのところ、いやに信心に熱をあげているようだが、組合としては、信心より、あくまでも仕事に熱を入れてもらわなければ困る。第二に……」
 森川は、とっさに言葉をはさんだ。
 「信心に熱心だからといって、組合の仕事をおろそかにしたとでも言うんですか!」
 「まぁ、最後まで聞いてくれたまえ。第二に、君とは長年の付き合いだが、どうしても意見が合わん。知っての通り、組合は、今、断崖の上にあるようなものだ。意見の相違は、この苦境を乗り切るのに、致命的なマイナスとなっていく……」
 理事長は、くどくどと運転資金の枯渇を訴えた。
 森川としても、知らないわけではない。
 ――組合に、嫌われ者の一人の役員がいた。近郊の大地主で、組合の大口出資者の一人であったが、度量が狭く、横暴で、人びとは手を焼いていた。ただ一人、曲がったことの嫌いな森川幸二が、この矢面に立ち、しばしば激突したのである。戦後の貨幣価値の下落から、資金は、いくら集めても足りなかった。しかも、資金が豊富でありさえすれば、組合の利潤は、すばらしい上昇をすることは誰にもわかっている。
 理事長と大地主との利害は、いつか一致した。大地主の多額の出資が見込まれたのである。そこで、計算高い大地主は、当然、数々の条件をつけてきたのであろう。その条件の一つに、常日ごろ、面白くない森川幸二を解雇する一項目があったにちがいない。ずるい理事長は、資金欲しさに妥協したと思われる。その役員と森川との意見の対立は、ここで急に、理事長と森川との意見の相違へと変わって、森川が攻撃にさらされたのである。事態は、はっきりしてきた。
 森川幸二は、理事長の回りくどい話をさえぎって言った。
 「そうすると、私が組合の経営上、悪影響でも与えているというんですか」
 「それはない。誤解しないでもらいたい。森川君は、これまで決して悪い影響など与えていませんよ。ただ、組合の指導権の一部が、この際、変わるのだ」
 理事長の言葉に、彼は信心に全く関係ないと直観した。だが、何ゆえ、すぐに信心にかこつけてくるのであろうか。
 「つまり、今後の組合の発展に、面白からざる影響があるというのです。君が納得できないというのなら、組合の資本運営のために、すまんが、目をつぶって一時だけでも退職してくれないか。復職の機会は、いずれつくることもできるかと思う。ここは、苦労している私に免じて、ぜひとも承知してもらいたい……」
 理事長は、泣き落としにかかってきた。
 だが、森川は席を立った。
 「わかりました。私には、相談するところがありますから、そのうえでご返事します」
 理事長は、何か大声で叫んでいる。しかし、部屋を出ていく彼は、それには耳を貸さなかった。彼は、自分の席へ戻らず、表通りに出てしまった。職員たちは、慌ただしい森川の姿に、びっくりしていた。
 いじめられた子どもが、母親の胸に飛び込むように、五十近い森川は、戸田城聖の懐へと急いだ。
 彼は、道々、冷静になると、家族たちが驚いて、それから嘆くであろうことを、まず考えた。
 ″俺には、たくさんの子どもがいる。それを育てるには、まだまだ自分が働かねばならない。社会に出ているのは長男一人であり、それも、まだ自分のことしかできない。他の子どもたちを社会に出すためには、これから、どうすればよいのだろうか。
 しかし、理事長に泣きついて、あの役員に頭を下げ、許しを請うことは、とてもできない。たとえ隠忍自重して、職にしがみついたとしても、早晩、また激突することになるだろう。卑屈になるわけにはいかない。こうなれば、遅かれ早かれ、組合を辞めなければならない。よし、辞めてやる!″
 森川幸二は、こう決意したが、辞めたあとの生活の当てがあるはずもない。怒りと不安のなかで、彼は、わが身をもてあました。
 彼は、これが三障四魔だと、一人、力んでいた。戸田の会社に近づいた。
 この時、真面目に実践してきた彼の一年半の信心は、「大悪をこれば大善きたる」という大聖人の御聖訓を、頭のなかに浮かび上がらせていた。
 ″確かに、今日までの俺にとって、これこそ大悪であるにちがいない。それなら大善きたる、ということも間違いないはずである。″
 実に素直な、合理的な彼の思考であり、信心であった。
 森川幸二は、日本正学館に勢いよく入った。
7  「やぁ、森川君か、どうした? 今日はまた、やけに早いじゃないか。神田へ仕事にでも来たのかね」
 戸田は、微笑みながら声をかけた。
 幸二は、「実は、先生」と、組合での今朝の経緯を、気負い込んで話し始めた。
 戸田の頬から徴笑みが消えていった。彼は、幸二の話を注意深く聞きながら、真剣な表情になった。彼は無言で、しばらく考えていたが、やがて口を開いた。
 「よし、そうか、わかった……」
 そして、「クビか」と短く言って、幸二に顔を向けて尋ねた。
 「家族は何人だ?」
 「八人です」
 「八人? 子どもは大勢だし、困るだろう」
 戸田の声には、なんともいえない優しい響きがあった。幸二は嬉しかった。そして、戸田の顔を見た時、彼は、思いもかけず、勇気と確信が湧くのを覚え、こんな言葉が口から出た。
 「先生、そりゃ、困ることは困ります。しかし私は、たとえ水を飲んで暮らさなければならなくなったとしても、信心だけは絶対に貫きたいと思っています」
 「そうか」
 戸田は、その答えを待っていたかのように、強い口調で言った。
 「信心で勝負だ。やってみろ! 未来にどういう結果が出てくるか、裸になって信心をやり抜いてごらん」
 前夜から、わずか十数時間のうちに、森川幸二の運命は、くるくると回転した。戸田の言う通り、彼は、どう回転しようとも、振り回されることなく、信心という主軸だけは、しっかりとつかんでいく決意を固めていた。後は退職手続きを取るだけであった。
 幸二は、職場に戻った。そして、極めて平静に、理事長に対応することができた。理事長が、彼にこう尋ねたほど、落ち着いていた。
 「どこか、いい就職口でも決まったのかね」
 家路に向かう彼の足は、さすがに重かった。家族を、なんと納得させたらいいのか、彼は、一家の柱として思案にあまったのである。
 夕食の時には、子どもたちが、いつもと変わらず元気に集まってきた。彼は、突然、やっとの思いで言いだした。
 「今日は、えらい功徳を受けたよ」
 家族の浮き浮きとした期待の眼が、幸二に集まった。だが、黙っている父に、側の小さい女の子は、せがむように聞いた。
 「お父さん、なんの功徳?……なんだってば……」
 彼は、瞬間、言いそびれた。しかし、一家の好奇心の高まるのに促されて、やっと口を開いた。
 「実はなぁ、今日、職場を辞めさせられたんだ」
 一同は、「あっ」と驚いた。「どうしたのか」と聞きさえしない。一瞬、暗い空気が辺りに漂った。
 妻は、目を大きく見開いて、幸二を見つめたままである。老母は、何か聞き違えたかと、耳を疑っているようだ。大きい男の子たちは、ご飯をかっ込み始めたのである。
 やがて幸二は、昨夜の戸田の話から、今朝の組合理事長の話へと、すべてを隠さずそのまま語りだしたのである。
 長年にわたって、経済的に安定していた大家族にとって、一大事件の突発であったことには、ちがいない。幸二は、自分を励まし、家族を見ながら言った。
 「みんな、どうか心配しないでくれ。戸田先生にも、真っ先に指導を受けてきた。先生も、組合を辞めることを賛成なさり、『信心で勝負だ。やってみろ!』と、おっしゃったんだ。わが家には、すごい御本尊がある。『大悪をこれば大善きたる』だよ。いよいよ森川家も、根本的な宿命転換をする時が来たわけだ。今は、少々、辛いかもしれないが、なに、きっと変毒為薬してみせる。みんなで頑張ろうよ」
 幸二のどこにこんな勇気があったのかと、家族は驚きもし、安心もした。誰一人、不服そうな顔をする者はいなかった。
 やがて、長男の一正が夜間の大学から帰ってきた。幸二は、一正に、一部始終を繰り返した。
 一正は、ショックを受けたようである。しかし、最後に父の決意を聞くと、きっぱりと言った。
 「お父さんの信心も、大したもんだなあ。よし、ぼくもやるぞ。……そうだ、今夜は、みんなで失業したお父さんを祝ってあげよう」
 驚いたのは幸二である。
 ″なんという健気なわが子たちであろう。いつの間に、こんなに育ったのか、ああ、実にありがたいことだ″
8  食糧難の時代である。とっておきの菓子や、感想バナナで、お祝いが始まった。このような感激の団欒は、かつて味わったことがなかった。森川父子の本当の信心が始まったのは、結局、この夜からであった。
 仕事に就いていたとしても、生活困難な時代である。そんななかで職を失ったのだ。一家八人の生計は、容易なことではない。大人たちは、額を寄せて考えた。しばらく日がたつた時、老母が提案した。
 ――今の時代は、みんな腹を空かしている。質より量である。ともかく腹いっぱい食べさせる外食券食堂を、やってみてはどうだろう。
 一同は賛成した。家族八人の毎日の炊事の規模を、数倍に拡大すればいいのだ。これは商売になる。幸二は、喜んで、家屋の一部分を改造した。そして、素人くさい食堂が始まったのである。
 戸田城聖が、蒲田の青年を連れて森川家の座談会に出向いたのは、このころのことだった。戸田は、意外に元気な森川一家の空気を感じると、いかにも嬉しそうに、さまざまな話題をとらえて幸二たちを励ました。
 いつか冬の日も暮れて、いつもの座談会の時刻となった。まず、蒲田の原山と関がやって来た。二人は、戸田が来ているとは全く知らなかった。鶴見の人たちも、十人近く集まってきた。
 戸田は鶴見の人たちを一目見るなり、森川一家は心配ないとしても、他の人たちはそろいもそろって、よどんだ暗い影があることを見抜いた。彼は、どっしり真ん中に座って、いつになく真剣な態度で語り始めたのである。
 「ほかでもないが、知つての通り、森川君は解雇され、仕事を失った。一生懸命信心したのに、おかしなことだと思いませんか。みんなよりも熱心にしたんですよ。どうしたんだろうと、不思議に思いませんか」
 町工場を細々とやっている佐川久作が言いだした。
 「先生、実は、そのことで困っているんです。森川さんが座談会で、俺は仕事を辞めさせられたが、変毒為薬してみせるなどと言うものですから、みんな信心を疑いだしているんです」
 「みんなじゃない。まず、君がだろう」
 戸田は、大声で叱るように言った。
 「いいえ、私はわかっております。『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る……』」
 「理屈でわかることはできる。しかし、信心でわかるというのは、全然違う。佐川君は、今、森川君のことで困っていると言ったではないか。君が、本当にわかっていたら、困るなどと愚痴を言うはずもなかろう。本当にわかつては、いないんだよ」
 佐川は不服そうである。戸田は、病重し、と見たのか、さらに言葉を続けた。
 「私が心配しているのは、森川君のことではない。鶴見のあなた方のことです。信心していて、会社を解雇された。おかしなことだと思いながら、諸君のなかで誰一人、戸田のところへやってきて、面と向かって、どうしてか、と率直に詰問する人がいなかったことだ。
 そのくせ、集まれば、困ったもんだと、互いに批判し、疑っている。これは仏法からみて恐ろしいことだ。森川君の問題は、既に解決している。少し長い目で見ていなさい。ちゃんとわかるから。
 信心といっても、長い長い道程です。過去遠々劫といって、人間、過去に何をやってきたか、わかったものではない。少し信心をしっかりやると、いろんな、いやなことも起きよう。
 大聖人は、『過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし』ともおっしゃっている。つまり、十年、二十年先に苦しまねばならぬことも、熱心な正しい信心のゆえに、その業を今に招き、早いうちに軽くすまして、後の安穏を保証してくださっているんだ。信心さえ、あれば、ことごとく功徳なんだよ。信心なくして疑えば、すべて罰だよ。
 森川君一家は、功徳だと喜んでいる。関係のない諸君が、それを疑って罰を受ける。こんな割に合わない話は、戸田は大嫌いだ。御本尊が根本であるのに、自分のことならともかく、他人の身に起きたことで疑って退転していく。これほどつまらないことはない。
 今夜は来てよかった。戸田は、断じて、諸君を誤らせたくない。悠々と、立派な信心を続けていきなさい。そして幸せになることだ。諸君の信心のためなら、戸田は、どんなことでもしてあげる。少しは、わかってくれたかね」
 座談会には、一正の友人で、釣りばかりしている野田満という青年もいた。平松という、姑にいじめられて泣いていた夫婦の姿も見える。最近、蒲田から引っ越してきて、家中の信心反対のなかで、びくびくしている若い娘の高田ヒデ代もいた。半年前、小岩から鶴見の生麦へ移転してきた山川夫妻も、今夜は、仲良く並んでいる。佐川久作夫妻は、顔を上げることもできず、神妙に固くなっていた。
 戸田の言う通り、森川幸二は、一年たたぬうちに、招きに応じて川崎のある信用組合に就職した。さらに数年たった時、彼は横浜市(鶴見区選挙区)の市議会議員に最高点で当選したのである。
 ともかく、この夜から、鶴見の人びとは、森川父子と共に、決然と立ち上がった。やがて鶴見支部は、華々しい折伏の火の手を上げることになるが、それは後日の物語とする。
 戸田城聖は、この夜、鶴見の地に、見事な信心の布石をしたのである。広宣流布は長い道程みちのりである。だが、戸田の歩む索漠たる瓦礫の道には、新しい生気に満ちた緑の草が、その足跡に、必ず、はつらつと萌えたのである。
 (第三巻終了)

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